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2004/12/24

犯罪者の「心の理論」

私は、原理的に死刑廃止論者だが、
昨今の卑劣な犯罪の数々を見ていると、
それもセンチメンタリズムに過ぎないのかな、
と思う。

 事件のニュースに接して、どれくらい
自分が「アッタマにくるか」の度合いは、
犯人の「心の理論」(どのような心の
状態で罪を犯したか)による、というのが
このところしばらく考えた末の結論である。

 要するに、ハンニンがイキがって
くだらない理由で人を殺してイイキになっている
のがイチバンアッタマにくる。
 ハンニンの心の理論で刑罰が変わるという
刑法理論はおそらくまだないと思うが、
 私はそのような考え方はかなりリーズナブルだと
思う。
 
 小惑星がたまたま落ちてきて人が
死ぬ場合もあるけれど、
 小惑星には心がないから、アッタマに来ても
仕方がない。
 やはり、アッタマに来るのは、チンケな
リクツで罪をおかしてイキがっているやつらだ。

 その意味でいうと、人こそ殺さないけれど、
オレオレ詐欺(改め振り込め詐欺)や、
スパムを送りつけるやつらは、犯罪者の
心の理論としてかなりアッタマにくる方である。

 犯罪や暴力をネタとしてつかう小説や映画の
類もアッタマにくる。なにイキがってやがるん
だよ、バッカめ、と思ってしまう。
 だから、イキがったバッカが
暴力を書いている気配のする小説の半径1キロ
以内には私は近づかない。

 来月発売の『文學界』にも書いたが、暴力
については、漱石の『それから』で、
代助が言っていることに尽きていると私は思う。

  彼は罪悪についても彼自身に特有な考えをも
っていた。けれども、それがために、自然のまま
にふるまいさえすれば、罰をまぬかれうるとは信
じていなかった。人を斬ったものの受くる罰は、
斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じて
いた。ほとばしる血の色を見て、清い心の迷乱を
引き起こさないものはあるまいと感ずるからであ
る。
 (夏目漱石『それから』より)

12月 24, 2004 at 06:50 午前 |

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コメント

故意と過失ってのは、一応そういうことを汲み取っているんじゃないでしょうかね。それから、情状酌量の余地があるとかないというのも、裁判官が容疑者の心の理論を推測して判断してるんじゃないでしょうか。

脳をシステムとして見た時に、そもそも故意と過失の違いというのは、そもそもなんなんだろうか、茂木さんにはそういったレベルで悩んで欲しいな。分離脳で右手と左手が逆のゴール志向的な動きをしたり、疾病失認で右手だけで拍手ができていると主張したりするときに、立ち上がる脳内の複数のプロセスの中から意識化であることがそのひとつのプロセスが特別であることを主張するということは何を意味しているんでしょうか。

そもそも、「責任を問う」という社会的行為自体が、他者の心の理論を推測するという外部過程の内面化という意味で、意識の同一性に強い影響を与えているんじゃないだろうか。

投稿: | 2004/12/24 10:51:19

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