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2004/12/31

皆様、よいお年を!!


12月 31, 2004 at 08:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

脈絡なき、わが想い

セブン・イレブンのシュークリームを
食べることができた。
 それだけで、嬉しかった歳末だった。

 この前、大場旦と増田健史と一緒に
温泉宿に行った時にも主張されたのだが、
私の連想は脈絡がなく、
 聞いている人たちにとっては何が何だか
判らないらしい。
 本人にはあまり自覚症状がなく、
指摘されて「すまなかった!」と謝る。

 電車男の話をしていたはずなのに、
いつの間にかシュークリームが食べたくなる。
 そんな連想は誰にでもあると思うが、
問題なのは、会話をしている
一瞬の隙に、そんな脈絡のない連想が
忍び込んで来てしまうということだ。

 この前の温泉宿で言えば、増田健史と
大場旦と向かいあってビールを飲んでいる
時に、突然、
 「下賜の煙草ってまだあるんですかね」
と言ってしまった。
 大場旦が、柄谷行人か何かについて
話しているうちに、
 テーブルの上にあった菊の切り花に
目がいってしまったのだ。

 問題なのは、上のような連想が無意識の
うちに起こるということで、
 増田健史がビールの泡を口につけながら、
「今のは何だったのですか」と言われて、
はじめて、一生懸命自分の内面をさかのぼって
どんな脈絡だったのか、思い出すのである。
 自分が菊花を見ていたことさえ、
気づかないのだ。
 時には、連想が2段、3段となっている
時もあり、
 そうなるとどんな脈絡だったか
思い出すのは難しい。

 大学院の時のガールフレンドは、
私が一緒に歩いていると突然わけの
わからないことを言い出す、と言って
怒っていた。
 彼女は、会話の脈絡を一生懸命
つけようと考えるので、 
 疲れてしまう、と言っていた。

 脈絡なきわが想いを、少しでも
良い方向に生かしたいと思う歳末である。

 昨日の日記のコメントに、「電車男」
はそんなに悪くない、というものがあって、
それで2ちゃんを久しぶりに見てみた。
 奈良のバカが捕まったニュースに
関するスレッドを、仕事をしながら
時折見てみた。

 いろいろ、細かい、技術的なところで
面白い点があった。
 DNQとか、ttp://とか、巨大絵文字とか。
 あと、誰が「2」をゲットするかを巡る
仁義なき戦いとか。

 その一方で、2ちゃんねらーの人たちが、
どうも偏執狂っぽい、という感じも受けた。
 つまり、あまり連想が飛んでいかないで、
同じところを巡ってぐるぐるしているのである。

 根拠がなく、訳のわからない妄想の
パターンというのがあって、
(ここに書くのがはばかられるような、
差別意識と下司の勘ぐりに満ちた言説の
オンパレード。やっぱ2ちゃんはダメだ。)
 その妄想を書き込むのが、一つの芸になっている
らしいのだが、
 それがあたかもアトラクターのごとく、
同じところをぐるぐる回っていて、
オレだったら一日で飽きるだろうな、
と思っていたら、
 やっぱり飽きた。
 
 連想はやっぱり見境なく飛んで行くもので、
本来、インターネットの脈絡じゃあ
収まらないんじゃないか。 
 電車男からシュークリーム、
柄谷行人から下賜の煙草への連想は、
2ちゃんでもgoogleでもフォローしようがない。

 なぜフォローしようがないのかと言えば、
私が「身体性」を持っているからで、
 つまりは、ある単一の情報の文脈では
収まらないプロセスが、パラレルに走っている
からである。
 
 身体性というと、どうしても「このかけがえの
ない私」といった永井均的な文脈に乗りがちだが、
それが同時に脈絡のない想いをも支えている
ことも重要だ。

 身体性の支える脈絡なき想いは、光速で飛んでいき、
既成の文脈など、簡単に超えてしまう。
 イデアの世界には、距離の制約がない。

 私はプラトニストだと思っていたが、
それが実は身体性の問題につながると
わかったのは、
 しばらく2ちゃんに付き合ってみたおかげだった。

 それはそれとして、「電車男」については、
年明けにきちんと読んでみたいと思う。

12月 31, 2004 at 06:40 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2004/12/30

奇妙であることの自由

仕事をしていて、現実逃避したくなると、
イギリスのコメディを見る。
 一本約30分なので、気分転換にちょうど
いいのである。

 最近見ているのはFather Tedだが、
改めて、イギリスのコメディにおける
「奇妙であることの自由」のことを考えさせられる。

 Fatherというのは、カトリックの神父の
尊称で、登場人物たちはみんなその「神父」
であるはずなのだが、みんな奇妙この上ない。

 特に凄いのはJackで、いつも安楽椅子に
腰掛けていて、酒が大好きで、
 話す言葉が、
 Drink! Arse! Feck! Girls!の4種類
だけである。
 上の言葉を叫びながら酒瓶を追いかける、
というのがFather TedにおけるJackの主な
役回りだ。

 イギリスは近代科学の発祥の地である。
奇妙な人が、その奇妙さを集団の中で萎縮させる
ことなく、ますますそれぞれの奇妙さの
世界の中に傾斜していける、
というのが科学的創造性を育んだ一つの条件
だったのではないか。
 私は、そんな仮説を持っている。

 むろん、イギリスにもpeer pressure (仲間
からの同質化圧力)はあるし、学校での
イジメもある。
 だから、コメディの中の「奇妙であることの
自由」は一つの理想像なのかもしれないけども、
 実際、奇妙さであることの自由と、成熟が
同時進行していく、ということは間違いなく
ありそうだ。

 思い出してみるとケンブリッジの学者の中には、
ずいぶん奇妙な人たちがいたように思う。
 少し、奇妙さの種があった時に、
それが同質化圧力でそぎ落とされてしまうのでは
なく、
 周囲の人から放って置かれる、あるいは
認めてもらえる、という環境があった時に、
奇妙さの傾向が強めっていく。
 そんなダイナミックスがあったように
思う。

 日本の文部科学省も、ITの発展ですっかり
価値の下がったホワイトカラー育成のために
チューニングされていたかつての画一化教育
から、
 たとえばgoogleを創業するような、キック
のあるユニークな人材を育成する教育をしたい、
と本音では思っているはずだ。
 そうじゃないと、これからの日本は立ち行かない
からね。

 だとすれば、なおさら、
 「奇妙であることの自由」を、基本的人権の
一つとしてここ日本でも高らかに主張したい。
 いいじゃん、他人と違っていたって。
 Jackみたいに、4種類の言葉しか喋れなく
ったって、ちゃんと人気コメディの脇役張れる
んだから。

 ここまでの話と直接関係するのではないが、
日本のインターネットの掲示板とかの
「なれ合い」の雰囲気が私はイヤだ。
 「考える人」の中の中島義道の連載
「醜い日本の私」の中の言葉を借りれば、
「虫唾が走るほど、反吐がでるほど、鳥肌が
立つほど」きらいだ。
(ここまで極端じゃないけど)

 誰かが何か書き込む。
 「そうですよね〜」
 「そういうの、あるある」
 「同感です」
などというスレッドが延々と続く。
 そういうのを見ると、なんだかとても
気持ち悪くなってしまう。
 甘ったるいシュークリームを5個一気食い
した時のような気分になってしまうのだ。

 そんな時に、一人、何だか奇妙な雰囲気を
漂わせている書き込みを見たりすると、ほっと
する。
 シュークリームの後で、柴漬けを食べた
時のようにほっとする。

 今話題の『電車男』の文法
(誰かが書き込みをして、それに共感して、
あれこれと応援する)もキモチ悪い。
 ネット上の共感の押しつけ、なれあいの
押しつけはイヤだ。
 シュークリームばかりじゃなくて、
たまにはカレーパンも食べたいのだ。

 こんな風に、
 メタファーとして食べ物のことを書いて
いたら、本当にお腹が
空いて来たので、朝ご飯にすることにする。

 シュークリームも食べたくなって来た。

12月 30, 2004 at 07:57 午前 | | コメント (4) | トラックバック (1)

2004/12/29

「楽しむ最先端科学」再放送

「小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学」 NHK教育TV

12月31日(金)午後12:00−12:49
「宇宙論 宇宙の始まりと未来を探る」  
講師: 杉山 直先生

2005年1月1日(土)午後12:00−12:49
「脳科学  脳はどう意識を生むのか?」
講師: 茂木 健一郎

2005年1月2日(日)午後12:00−12:49
「量子物理学  目で見えた! 量子の世界」     
講師: 上田 正仁先生

2005年1月3日(月)午後12:00−12:49
「言語学  なぜ人は言葉を話すのか?」   
講師:  酒井 邦嘉先生

http://www.hfbs.or.jp/Information.html

12月 29, 2004 at 03:20 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

終わりなき「問い」をめぐって

昨日(12月28日)より発売の
新潮社 「考える人」 2005年冬号に、

終わりなき「問い」をめぐって
仏教と科学の対話〔前篇〕
南直哉 茂木健一郎

が掲載されています。
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mokuji.html

12月 29, 2004 at 01:51 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

みんな違って みんないい

筑摩書房の増田健史、NHK出版の大場旦と
年末だから、神田の
「まつや」
酒を飲み、蕎麦を食べよう、というので
でかけた。

 年越しだからか、あるいは仕事納めだからか、
外に人が並んでいたが、何とか入ることが
できた。
 おしら様哲学者、塩谷賢、それにNHK出版
に今年入社された倉園哲さんも参加。

 まつやには、学生の時に良く来た。
 塩谷賢とも、何回か来たように思う。
 帳場が奥にあり、その横でそばを打っている
という店のしつらいは変わらない。
 なんとも言えずいい気分で、思わず
にっこりする。

左から、塩谷賢、茂木健一郎、大場旦


 ひとしきり酒を飲んだあと、もりそばを
頼んだが、増田健史だけは、お腹が空いたと、
天もりにする。
 来るのが待っている間も、うれしくて
仕方がないらしく、増田健史はにっこり
している。

 大園さんは、編集志望だが、一年目なので、
修業で制作部にいる。
 それを聞いて、増田健史が、「きみ、筑摩に
来ちゃえよ」などとそそのかした。

 大場旦が、池波正太郎を気取って、蕎麦の後は
山の上ホテルのバーに行こうというので
歩いた。
 神田連雀町からお茶の水にかけての道は、
何回歩いたか判らない。
 このあたりに、オレたちの青春が埋まっている
なあ、と塩谷賢と話しながら歩くと、
 洋食の松栄亭
が新しいビルになっていた。

 大場旦が注文した、Chateau La Commenderie
という赤ワインが大変うまかった。
 ちょっと、Lafite Rothschildに似ている。

 大場旦と塩谷賢は、なにやらムズカシイ議論を
始めた。

 増田健史が、「ああやって酒の席でマジメ
な話をするから、オオバタンはダメなんだあ!」
とはやす。
 しかし、その本人も、ネクタイを頭にはちまきの
ように巻いて、後から来た筑摩書房の伊藤笑子
さんにたしなめられていた。

 幻冬舎の大島加奈子さんもいらして、
ムズカシイ話というか、elan vitalに満ちた
話をした。
 増田健史も言っていたけれど、
とても楽しい忘年会だった。

 今日からはひたすら静かに
仕事をしなければならないことが沢山ある。
 論文も沢山読まなくてはならない。
 みんなで酒を飲んで話すのも楽しいけれど、
職人のように仕事をし、大切なことに
ついて考えるのも愉しい。
金子みすず
 じゃないが、
 人生にはいろいろな楽しさがあって、
 みんな違って みんないい。

12月 29, 2004 at 09:23 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/28

普遍的にして、人間的なるもの

スマトラ島沖地震の映像を見ていると、
インド洋沿岸の生活の様子がいろいろ見えてきて、
災害の悲惨さの向こうから、かの地域の
消息が伝わってくる。
 それにしても、広大な地域である。
 沿岸の総延長が何キロメートルになるのか
は知らないが、
 その延々と続く海岸線に津波が押し寄せた
わけである。

 映像の中から被害を
訴えかける人々の言葉が、何を言っているのか
わからない。
 バベルの塔とはこのことか、と改めて思う。

 言葉がない状態からある状態への移行は
進歩であるようでいて、実は「対称性の自発的
破れ」でもある。
 混沌に穴を開けていったら、七日目に
混沌は死んでしまった、というのは荘子
だが、
 対称性が破れて「穴があく」という
ことが、良いことばかりであるはずがない。

 実際、言葉を得ることで、人間の中で
何かが死んだのかもしれない。

 世界には様々な地域があり、
人々がそれぞれの文脈の中で懸命に
暮らしている。
 その文脈を離れて生はないけれども、
それだけでは「普遍」に到達することは
できない。

 ローカルな文脈からしか生成は
ないけれども、 
 しかしそのローカルな文脈を超えた
普遍に達すること、「普遍的にして、
人間的なもの」(universally human)に
達することで、初めて芸術は芸術になるし、
文学は文学になる。

 遠いインド洋の、顔も肌の色も
話す言葉も違う人たちの被災に
compassion(共苦)を寄せることは、
芸術的感性のトレーニングでもある。

 文脈主義とクオリアの関係について
いろいろ考えた年だったけれど、
 「オタク」などという文脈も、
それがいかにuniversally humanなもの
に接続するかを考えなければ、真の芸術には
ならない。
 椿昇さんが言うように、「オタク」は、
下手すると
新たなゲイシャ、フジヤマになってしまう。

 クオリアは私秘的なものだと思われがちだが、
逆説的に普遍性を担保するものとして
立ち上がってくる。
 その時、それを生み出した文脈は、
建物を作るときに一時的に使われた足組のように、
背景に消えていってしまうのだ。

 インド洋の被災者の置かれている文脈を
自分が一人称的に体験することはできないけれども、
それに共感することができるのは、私秘的で
あるはずのクオリアの逆説的な公共性担保の
はたらきを通してである。

12月 28, 2004 at 07:32 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/12/27

子供の領分

子供の領分

 新しいものを創造する、という時には、
たとえて言えば、100メートル走の
アスリートがトレーニングする、
 そのくらいの集中と強度が必要だ、
と実感する。

 もちろん集中と強度だけではダメで、
弛緩がなければならない。
 アハ! 体験は、弛緩の時に訪れる
時が多い。
 しかし、それも、集中と強度があってこそ
である。

 集中と強度、そして弛緩というと、
まるで子供の時の遊びのようだと
連想されるが、実はそうなのである。

 今書いている原稿で、子供の頃のことを
いろいろ思い出している。
 ゲームをする前に、ゲームのルール自体を
決める、というプロセスが重要だった。
 その時には、できるだけゲームの結果が
予測できないように(不確実性が最大になるように)
 ハンディキャップを決めたりすることが
多かったように思う。

 ちょっと弱い子がいると、
その子は「みそっかす」にしてあげたり、
 あるいは少し有利なルールにしてあげたり、
いろいろ工夫したものだ。
 弱い子に対する「人道的配慮」という
ことももちろんあったけれども、
 そのようにすることが、ゲームの結果が見えなく
なって、一番面白い、という「快楽主義」の要素も
大きかったように思う。
 
 子供のふるまいの中には、面白い認知現象
がたくさん転がっている。
 子供心を忘れない大人が、創造的である、
というのも当然か、と思えるようなヒントが
たくさん埋まっているのだ。

 公園で、落ちている
BB弾を集めるのが流行っているとする。
 白い色のBB弾は「普通」で、「オレンジ色」
は少しレア度が高く、「透明」なものはとても
珍しい。
 そのようなものを集めて、仲間内で自慢しあっている
のを見ると、大人は、
 「そんなの、店に行って買えば全色そろうよ」
と思うかもしれない。
 しかし、
 子供にとっては、店に売っているBB弾と、
公園の落ち葉の間に隠れているBB弾は、
 「別物」なのだ。

 子供たちが、「宝探し」をやっている。
 目を閉じている間に、鬼が「宝物」を隠して、
「もういいよ」と言うと、他の人たちが
その宝物を探すのだ。

 宝物といっても、そのあたりに転がっている
空き缶や、プラスティックのかけらや、鉄くず
など、なんでも良い。
 それを、落ち葉の下に隠したりして見つけるのだ。

 そのような時に、小さな子が、何の変哲も
ない石ころを拾って、「これを宝物にして隠す」
などと言い出したりする。 
 ここでの「宝物」の趣旨は、自然の事物の
中に置いて、それが他と明らかに区別される、
という点にあるのに、
 わかっていないなあ、とみんな笑うが、
その瞬間にふっと立ち上がる不思議なめまいの
感覚がある。

 同一性、差異、情報、図と地。「大人」
の哲学者がむずかしい概念を使って議論する
概念のトワイライトゾーンが、
 子供の遊びの中にごく自然な形で
隠れているのだ。

 子供の領分の中に、全てがある。
 最高の知性を身につけ、洗練と博覧強記を
追求し、
 それでいて、公園でBB弾を見つけて
喜ぶような、
 子供の心を忘れずにいなさい。
 
 夢中になって遊び、気が付くと夕暮れだった、
あのような集中と強度を、
 そしてその後の弛緩のまどろみを持ちなさい。

 そうすれば、世界はきっとその秘密を
あなたに明かしてくれることでしょう。

12月 27, 2004 at 09:16 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/26

「脳を鍛える」ブームを解剖する

明日(12月27日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2005年1月9日・16日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第35回

「脳を鍛える」ブームを解剖する

が掲載されています。

昨今の「脳を鍛える」ドリル、パズルのブームに
ついて、知性を支える脳の働きという視点から解析
しています。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

12月 26, 2004 at 10:18 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

宝くじに当たらない人だって

科学大好き土よう塾の収録で、NHKへ。

 前日に台本とVTRが届いて、
コメントなどを考える。
 そのVTRをつくるドキュメンタリー・
ジャパンの煙草谷有希子さんなどは大変で、
最後の一週間はNHKに泊まり込みだそうである。

 金曜日に打ち合わせをした
ディレクターの福井茂人さんも、
「いや、これからNHKに戻ります」と
落ち着いた笑顔で言われた。
 クリスマス・イヴの夜である。

 テレビというのは、典型的な絞り込み
メディアだと思う。
 リサーチの中で立ち上がった様々なアイデア、
仮想が、
 最後にオンエアされる映像に向かって絞り込まれて
行く。
 その絞り込みを支えるために、たくさんの人たち
が働いている。

 今回のテーマは、「喋る機械」で、
人間の声を録音してつないでも、なぜ不自然に
聞こえるのか、
 イントネーションやアクセントなどの視点から、
考える。
 とても興味深い内容になったと思う。

 文字ならば、それを単位として並べかえれば
自然な文章になるが、
 音素は、実はそうはいかないのである。
 「あいしている」という音素の連続は、音としては
実は
 「あ」+「い」+「し」+「て」+「る」
という音素だけではなく、その中間の「つなぎ」
の音も入っているし、音素がどの場所に
来るか、どのような文脈に置かれるかに
よって、アクセントやイントネーションも変わって
くる。
 つまり、「あ」という要素は、文字で書けば
一種類だが、音としては無限のバリエーションが
あるのである。

 以上のようなことを、小学生にもわかるように
構成した内容。
 人間が喋る、ということの奥深さが
少しは伝わるのではないか。
 放送は2005年1月15日(土)の予定。

「土よう塾」の室山哲也さん、中山エミリさんと

 収録を終えて、渋谷の公園通りを
歩くと、パルコの前に美しいツリーがあり、
カップルが携帯電話でその様子をとっている。

 ぼくが学生時代とはずいぶん違う風景だけど、
なんだかほっとした。

 最近、いろいろなことに対してやさしい気持ちに
なっている。
 美や真理の絶対基準は確かにある。
 しかし、それに拘泥すると、どうも「生きる」現場
から遠くなる。
 それぞれの置かれた文脈の中で、一生懸命
つくったものが、絶対基準に達しなくても、
まあそれはそれでいいじゃないか。

 フェルメールやニュートンのようなものに
達することができたら、それは僥倖という
ものであって、
 僥倖に恵まれなくても、生きる、という
ことの方がきっと大切だ。

 パルコのツリーをつくった人も、設置した
人も、その光景を携帯で撮っているカップルも、
きっとそれぞれの文脈の中で一生懸命
生きているんだろう。

 たとえどんなにしょぼくても、ださくても、何かを
つくっているということはきっと素晴らしい
ことなんだと思う。
 そのようなしょぼく、ださいものの群れの中から、
ほんの時折、神の世界に達するものができあがって
くるわけだが、
 それはつまり宝くじに当たるようなことなの
であって、
 宝くじに当たらない人だって、充足した
生を生きているのである。

12月 26, 2004 at 07:28 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/12/25

藤和彦さん 

脳科学で解く「絶叫」「独断」の小泉政治
(月刊「中央公論」2005年1月号 (p.202〜210))
を読んで、
内閣官房 内閣情報調査室の
藤和彦さん
が一度議論しましょうと連絡を下さった。

 新橋の第一ホテルでお会いする。

 藤さんは、多くの著作がある論客だけあって、
大変面白かった。

 議論の中心は、いかに次の日本のナショナル・
アイデンティティを確立するか、という
点にあった。

 もちろん、ここでの「日本」というのは、
単一民族とかそういうレベルの話をしているの
ではない。
 いろんな人がいることは判っているし、
あくまでもゆるいくくりとしての「日本」
という存在をどう考えていくかということである。

 財政が苦しくなり、高度成長が望めず、
高齢化が進み、中国が台頭する中、日本は
soul searching(魂の探求)の時をむかえている
ように思う。
 私の一つの仮説は
「クオリア立国」だが、
 いろんな考え方を出していく必要があるの
ではないか。

 藤さんは、日本の場合、批判というのは
多くの場合プラグマティズムというより
ルサンチマンから出ている、と言われていたが、
同感である。
 ルサンチマンほどやっかいなものはない。
 
 私は思想においてはプラトニストだが、政治というものは
徹頭徹尾リアルズム、プラグマティズムでなければ
ならないと思う。

12月 25, 2004 at 09:34 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

アンケートおじさん

第一ホテルを出て、
 寒風の吹きすさぶ中、
新橋のSL広場でメールチェックをしていたら、
女の人がアンケート調査に来た。
 TBSの番組のために、10のニュースの
うち、どれに関心があるかを答えるのである。
 お礼にティッシュをくれた。

 私の次に、隣に立っていたおじさんに聞くと、
おじさんは、面倒くさそうに、「ああ」
と言っている。
 アンケートが始まるかな、と思った矢先に、
おじさんの携帯が鳴った。
 おじさんは、「ちょっとスミマセン」
とも何とも言わずに、携帯に出る。

 「ああ、○○さんのね。なんだよ。それじゃあ、
金は払えないよ〜。そう言っておいてよ、
○○さんに。いいね。」

 その間、女の子は黙って立って待っている。
 
 おじさんが電話を切り、やっとアンケート
かと思ったら、また電話が鳴る。
 おじさんは例によって何も言わずに電話
に出る。

 「うん、その件ね。わかったよ。うん、
これから行く。えっ、今? 新橋。新橋。
うん・・・・」

 その間、女の子は寒風の中、横に
立っている。

 私はいたたまれなくなって、席を立った。

 コメディーの1シーンになりそうな
ディスコミュニケーションの瞬間で、
もう少し観察していたかったが、
 そのままそこにいたら、おじさんに、
「お前、なにエラソーにしているんだよ。
とっととアンケート答えろよ、このタコ!」
と怒鳴りつけそうだった。

 歳末のトラブルは避けるべし。

 コンテクストの中で、弱い立場に
いる人に対して傲慢な態度をとる人間の性根は、
理解したこともないし、これからも理解しようとは
思わない。
 ひょとしたらそういうやつらが日本をダメに
しているんじゃないのか。

12月 25, 2004 at 09:33 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/24

脳とデザイン

2005年1月21日開講
朝日カルチャーセンター講座

脳とこころを考える ー脳とデザインー

講師 茂木健一郎
ゲスト 原研哉氏

講座の内容: 私たちの周囲にある身近なもののデザインは、美術館のような特別な場所とは異なる形で生活体験の質の充実に貢献します。デザインとは何かを考えることは、人間とは何かを考えることです。近年、とりわ脳のはたらきの視点からデザインを考えようという機運が高まって来ました。本講座では、最先端の脳科学の知見と具体的なデザインの事例を参照し、デザインとは何かを考えることを通して人間の本質に迫ります。第一回の講座では、日本を代表するデザイナーの原研哉さんをお迎えし、デザインと人間の深い関係について対談いたします。(茂木記)

2005年 1/21、 2/4、 2/18、3/4、3/ 18
金 18:30〜20:30

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture18.html

12月 24, 2004 at 08:32 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

犯罪者の「心の理論」

私は、原理的に死刑廃止論者だが、
昨今の卑劣な犯罪の数々を見ていると、
それもセンチメンタリズムに過ぎないのかな、
と思う。

 事件のニュースに接して、どれくらい
自分が「アッタマにくるか」の度合いは、
犯人の「心の理論」(どのような心の
状態で罪を犯したか)による、というのが
このところしばらく考えた末の結論である。

 要するに、ハンニンがイキがって
くだらない理由で人を殺してイイキになっている
のがイチバンアッタマにくる。
 ハンニンの心の理論で刑罰が変わるという
刑法理論はおそらくまだないと思うが、
 私はそのような考え方はかなりリーズナブルだと
思う。
 
 小惑星がたまたま落ちてきて人が
死ぬ場合もあるけれど、
 小惑星には心がないから、アッタマに来ても
仕方がない。
 やはり、アッタマに来るのは、チンケな
リクツで罪をおかしてイキがっているやつらだ。

 その意味でいうと、人こそ殺さないけれど、
オレオレ詐欺(改め振り込め詐欺)や、
スパムを送りつけるやつらは、犯罪者の
心の理論としてかなりアッタマにくる方である。

 犯罪や暴力をネタとしてつかう小説や映画の
類もアッタマにくる。なにイキがってやがるん
だよ、バッカめ、と思ってしまう。
 だから、イキがったバッカが
暴力を書いている気配のする小説の半径1キロ
以内には私は近づかない。

 来月発売の『文學界』にも書いたが、暴力
については、漱石の『それから』で、
代助が言っていることに尽きていると私は思う。

  彼は罪悪についても彼自身に特有な考えをも
っていた。けれども、それがために、自然のまま
にふるまいさえすれば、罰をまぬかれうるとは信
じていなかった。人を斬ったものの受くる罰は、
斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じて
いた。ほとばしる血の色を見て、清い心の迷乱を
引き起こさないものはあるまいと感ずるからであ
る。
 (夏目漱石『それから』より)

12月 24, 2004 at 06:50 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

北にある、緑の島を夢想する

朝は、メールを受信して、SPAMを手動で
ゴミ箱に入れることから始まる。
 けさ、ゴミ箱を空にしようとしてふと
思いつき、
 12月5日から12月24日までの
スパム数を数えてみたら、一日平均160だった。

 もっとも、この中には、面倒で受信フォルダ
に残ったままのものは含まれていないから、
下限の数字だ。
 真正なメールがスパムに分類される
害の方が大きいので、フィルタは使っていない。

 寒い風が吹いていた祝日は、
 朝から、たまりにたまった書類を整理していた。
返送しなければならない書類をどっと出した。
 それでも、まだ山がある。
 デジタル情報に比べて、紙の情報は苦手だ。
 すぐにどこかに行ってしまう。
 だから、なるべく添付ファイルでお送り
いただくようお願いしている。

 久しぶりに、まとまった距離を走りながら
考えた。
 こうして身体を動かすと、芯で凍って
いた何かが溶け出して、もっと走りたい、
もっと運動したい、と思うようになる。

 運動だけではない。
 忙しい日常の中で、忘れていた
水脈に、何かのきっかけで再会し、
 ふたたび水が流れ出す。
 そのようなことが、「精神運動」としても
起こる。
 
 しばらく前のイギリスのアマゾンから
輸入したFather Tedというコメディ
の冒頭に、
緑なす美しい島、Craggy Islandの風景が出てきて、
それでしばらく眠っていた水脈(北にある
緑の島、アイリッシュ、
赤毛のアン、プリンス・エドワード島)が
目覚めてしまった。

 調べて見ると、ロケされたのはInisheer
(Inis Oirr)という
島らしい。
 アイルランドの西岸にある
アラン諸島
の最も小さく、
そして最も美しい島で、
300人くらいが住む。
 住人は、ケルト語を話す。

1938年に
撮影された父と子の写真
などを見ると、
なんとも言えない気持ちになる。

Inisheerの光景。石垣が独特の景観を織りなす。

 こういう島に行って、
アラン模様のセーター
を着て石垣の間をふらふら
歩き、パブに行ってビールを飲み、
 ウィスキーをすすりながら暖炉の火を見る。

 そんな時間がもてたらいいなあ。

 まあ、一生懸命仕事をしていれば、
そんな時もまた来るでしょう。
 来ないかもしれないけど。
 
 意識を持ってしまった人間の
 生は、有限と無限が向き合っているから
切ない。

12月 24, 2004 at 06:20 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/23

萩尾望都さんとの対談

ポプラ社の矢内裕子さんのお誘いで、
 漫画家の萩尾望都さんと対談。

 私は、子供の頃から、少年漫画(とりわけ
赤塚不二夫などのギャグマンガや、巨人の
星などのスポーツマンガ)はよく読んでいたが、
少女漫画には、半径5メートル以内に
近づかなかった。
 なんとなく、くらくらするというか、
妖しい雰囲気があるというか、近づいては
いけない! という感じがしていたのである。

 今回、萩尾さんと対談することになって、
『11人いる!』、『ポーの一族』、『スター・
レッド』、『バルバラ異界』などの
作品を読んでいたら、やっぱりくらくらした。
 しかし、このくらくらは、少女漫画全体に
普遍的、というよりも、特に萩尾望都作品に
固有のものでもあるらしい。

 ストーリー展開が、ゆらぎ、ふわふわ流され、
ふっとよぎり、飛び、くるくると巻いていく
感じ、というか、
 少年漫画のような、きっちりと、バン、バンと
シンボリックな記号が立ち上がってそれが
並んでいく、という感じがないというか、
 読んでいて、女の人の思考プロセス
(表面的な女らしさ、というのではなくて、
もっとも内面的な、そして奥底にある
女らしさのようなもの)を覗き込んでいる
ような気がした。
 
 私は、男の脳と女の脳の違いをあれこれ
おもしろおかしく言いたてるようなことが
好きではないのだけれども、
 萩尾さんの作品を読んでいると、
やはり違いはあって、その違いを楽しめば
良いのだろうなあ、と思った。
 もっとも、ここにいう性差は必ずしも
生物学的な性にストレートに対応する
ものではないし、個人差もあるものだと
思う。

 女の人が、素敵! な男の人を見たときに
胸がトキメク感じが、あのふわふわ流される
感じなのだろう、と想像していると
いろいろ面白い。

 パンパネラとか、
火星人とか、「人間」と異界との境界に
いるものの存在を通して、「私」がゆらぎ、
メタモルフォーゼしていく過程を描いている
のもとても心が惹かれる。

 それやこれやを話しているうちに、
時間は過ぎていった。

 ポプラ社は、最近新社屋が出来て、その一階で
レストランも経営している。
 打ちあげの夕食は、シャンパンから始まる
本格的なフレンチで、
 ポプラ社内の「奥の院」でいただいた。

 矢内さんは落語や歌舞伎に造詣が深く、
いろいろオタッキーな話が飛び出す。

 矢内さんが、
今日(23日)、佐藤雅彦さんに会われると
いうので、
 佐藤さんに、「宿題については引き続き考えて
います」とお伝えくださいとお願いする。
 11月16日に佐藤さんが研究所に
いらした時に投げかけられた課題
「わかる、ということをどう捉えるか」
について、佐藤さんの水準にふさわしい答えを
まだ考え中なのである。

 ポプラ社を出て、ふらふらと歩く街は
寒かった。

12月 23, 2004 at 07:37 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2004/12/22

再びメール障害のお知らせ

本日、午前11時から午後9時頃までの間に、

kenmogi@qualia-manifesto.com

にお送りいただいたメールは、かなりの確率で失われた
可能性があります。

この時間帯にメールをお送りいただいた方は、今一度お送りいただけますよう
お願いいたします。

(あまりにもメールサーバーが不安定なので、ついにホスティング・
サービス移行を決意。面倒なので本当はやりたくないけれど、
こんなに不安定だとやっていられない)

12月 22, 2004 at 11:24 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

一身にして二生を経るが如く

「一身にして二生を経るが如く」とは、
福沢諭吉の言葉だが、
 少し前のことでも、随分前のことのように
感じるようになってしまった。

 学会でブダペストに行ったのは8月の
ことのはずなのに、
 その後、あまりにもいろいろな
イベントや情報が挟み込まれているので、
遠い昔のような気がする。

 脳の中の時間の経過の測定が、
その間にどれくらいのエピソード記憶が
貯えられているかが基準になって行われている
というのはいかにもありそうである。
 一年が七年に相当する、というのが
ドッグ・イヤーだが、
 情報化社会では、時間の知覚も
変わってくるのではないか。

 研究室のメンバーと、年に一回の
「クリスマス・スペシャル」をやった。
 それぞれが作品を持ち寄って、見せ、
投票で優勝を決める。
 
 今年はかものはしこと、関根崇泰が
優勝した。
 作品のタイトルは「かものはし殺人事件」。
 研究室の面々の写真に文字を組み合わせた
単純なつくりなのだが、
 もう一人の「刑事」の台詞を、
ポータブル・テープレコーダーに
吹き込んで回す、というアイデアで
勝利した。

 関根は、2年前にも優勝している。
アイデアの瞬発力のあるやつで、
コメディアンとしての才能がある。

 まだ仕事納め、というわけではないが、
五反田の「あさり」で忘年会をしていると、
白洲信哉さんからメール。
 「小林秀雄全作品集」の編集をされている
新潮社の池田雅延さんと、神楽坂の寿司屋で
呑んでいるのだという。

 一年を振り返っていろいろ話している
うちに、白洲さんが来る。
 忘年会だから、と五反田駅前の
ビッグ・エコーに行く。

 私が陽水を歌うと、白洲さんも
対抗して陽水で来て、
 じゃあ、と尾崎豊で行くと、
向こうも尾崎豊で来た。

 最後の一曲は、須藤珠水が選んだ
「夜空のムコウ」
 白洲信哉が、

(・・・すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ
・・・)
 「そんなの当たり前じゃないか!!」
(・・・このまま どこまでも 日々は続いていくのかなぁ
・・・)
 「続いていくはずないだろう!!」
と突っ込みを入れるので、
 それがとてもシミジミと面白かった。
 
 白洲さんはもう一軒行きたかったようだが、
私もいろいろ案件を抱えていて、田谷文彦と
一緒に後ろ髪を引かれる思いで帰る。

 
 地下鉄の中で田谷と喋っているうちに、
うとうとしはじめて、気が付いたら立ったまま
眠っていた。

 考えてみると、きのうは、朝から計5件の
ミーティング&取材&打ち合わせがあり、
 その後がクリスマス・スペシャルと忘年会
だった。
 その間に、メールの返事をしたり、
実質的な仕事をしたりする。
 これじゃあ、ドッグ・イヤーになるはずだ。
 今日も朝から計4件の取材、会議、打ち合わせ、
その後夜に対談の仕事。

 何にもない、ぱかーっと空いた時間が
欲しい。
 白洲さんとも、徹底して議論したい。
 
 年末年始は、カレンダーがまだ真っ白
なので、今からわくわくしている。

12月 22, 2004 at 06:05 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2004/12/21

99%の努力

朝、竹内薫も来て、
 研究所所長の所眞理雄さんといろいろ
お話する。
 5月にイタリアのボローニャでやった
創造性に関するワークショップの本を英語で
出版する件。
 竹内は、バイリンガルなので、編集を
助けてくれている。
 佐々木貴宏さんも同席。

 所さんが言われたことがきっかけで、
エジソンの、Genius is one percent
inspiration and ninety-nine percent perspiration
(天才とは、1%のインスピレーションと
99%の努力である)という有名な言葉の意味が
従来よりはっきり判った。

 ひらめきは一瞬で来る。しかし、そのひらめきを
実際に形にして、人々の間で流通するような
ものに仕上げるには、長い時間と地道な作業の
積み重ねが必要となる。
 それが、99%の努力となる。

 たとえば、ダーウィンのインスピレーション
は、おそらく一瞬で来たのだろう。
 しかし、それを『進化論』という整った
体系にするためには、長い努力が必要だった。

 思うに、1%の方だけあって、
99%が欠けてしまったために世に出なかった
ものは、沢山あるんじゃないか。

 夜、理化学研究所で行われた伊藤正男
先生の喜寿のお祝いのパーティーに伺う。
 
 1992年の年初に、はじめて理化学研究所を
訪問して、伊藤正男先生とお会いした時の
ことは鮮明に覚えている。
 脳をやろう、というのはまさに
偶然に出会った幸運(セレンディピティ)
だったのだけれども、
 あの時の伊藤先生のやさしさと厳しさが
入り交じったお話ぶりに、
 新分野に挑戦する勇気を後押しして
いただいたように思う。

 脳科学を伊藤先生の元で始められたのは
とても幸運なことだった。
 私が、セミナーでちょっととんがった
発表をしても、 
 伊藤先生は的確な批評をしつつも、
広い度量で受け入れて下さった。

 伊藤先生は、エックルズ先生の下に留学
されていた。 
 エックルズと言えば、ホジキン、ハックスレーと
ともにノーベル賞の受賞の対象となった
神経細胞膜の興奮のイオン機構の鋭利な
研究で知られる一方で、
 イギリスの科学哲学者、ポパーとの
意識の謎をめぐる共著でも有名である。

 伊藤先生の科学に対する厳しい姿勢と、
意識の問題を含めたさまざまな広い領域に
ついての関心は、エックルズ先生ゆずり
なのかもしれない。

 ひさしぶりに、ゆっくりとお話することが
できた。
 エックルズ先生の晩年の二元論については、
経験科学と精神の間をつなごうとして、
無理をされたのではないか、というのが
伊藤先生のご意見だった。

 私のケンブリッジ留学時代の恩師、ホラス・
バーローと今年の北京での会議で会った、
とうかがって、うれしかった。
 バーローはもう84歳である。

 伊藤先生は、若い時には小説家になるのが
夢だったという。
 どのような作品がお好きですか、と伺うと、
トルストイの長編との答えが返ってきた。

 最近、私にはロゴスを経由して科学に回帰する、
という流れがある。
 伊藤先生と久しぶりにお話することができて、
科学を真剣にやろうという思いが強まる。

 クオリアの問題を解くために全力を尽くす。
 一方、コンベンショナル・サイエンスにおいても、
いい仕事をやりたいと思う。

 99%の努力、である。

 「喜寿」のお祝いの文字と、伊藤正男先生

12月 21, 2004 at 05:00 午前 | | コメント (2) | トラックバック (2)

2004/12/20

素敵な恋人と出会う能力

本日(12月20日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2005年1月2日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第34回

素敵な恋人と出会う能力

が掲載されています。

偶然幸運に出会う能力(セレンディピティ)を支える
脳のはたらきについて論じています。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

12月 20, 2004 at 08:21 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

当たり前のことに気が付くために

 来年の夏、京都造形芸術大学で
集中講義をする件で、
 椿昇さん、次期学部長の大野木啓人さん、
渋谷城太郎さんと、渋谷の
セルリアンタワー東急ホテルの「坐忘」
でお会いした。

 渋谷駅で、
小学生が一人リュックを背負って歩いている
のに出会った。
 その子は、ダウン症だった。
 ああ、元気そうだな、と思って
通り過ぎ、
 セルリアンタワーに向かう歩道橋を
歩いているときに、はっと気が付いた。

 私たちは、ダウン症の子供を見ると、
ああ、ダウンの子なんだな、と思い、
その子の顔の形や、表情の中に、
私たち「正常」な人間の顔の中には
あると思いこんでいる
バラエティをそれ以上読み取ろうとしない。
 
 しかし、それは本当はおかしいはずだ。
ダウン症の子の顔にだって、美人もあれば、
やさしい顔もあれば、コワイ顔もあれば、
池上高志もあれば、茂木健一郎もあれば、
塩谷賢もいるだろう。

 ダウン症は、
 21番染色体が3本あることによって
引き起こされる。
 この世に、「正常」も「異常」もない。
 ただ、いろいろな生の在り方が
あるだけのことである。
 だから、本当は「症」ということばが
おかしいのであって、
21番染色体が3本ある子供の生の在り方が
ある、ということだけのことである。

 ダウンの子を見て、ああ、ダウンだ、
と済ませるのではなく、その中にある無限な
個性の豊かさを、どのように見ることが
できるか。 
 それは、おそらく判っている人にとっては
当たり前の話なのだろうが、
 その当たり前のことに気が付いた渋谷の
横断歩道はありがたかった。
 ありがたさの質において、クオリアに気が付いた
1994年2月のガタンゴトン体験と
変わりがあるわけでもない。

 椿さんたちとの会話は、ヴィジョンに満ちて
いて楽しかった。
 来年の夏は楽しくなりそうだ。

 芸術が、認知変容を起こすことができるもの
ならば、
 タコ壺化して行く現代に、真のヒューマニズム
に基づく総合を取り戻すためにこそ、芸術を
使いたい。
 そんなことを、12月の寒空に思う。

12月 20, 2004 at 08:17 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/12/19

宣長のお銚子

竹内薫と、かおりさんの結婚パーティに
行く。

 横浜の、イタリアン・レストラン。薫の
行きつけの店らしい。

 薫、かおりさんの友人の他、薫が普段
お世話になっている編集者も大集合!
 私もお世話になっている人が多い。
 電通の佐々木厚さんも来ている。

 私の座ったテーブルには、おなじみの
顔が並んでいた。

 左から、講談社ブルーバックス編集部
の梓沢修さん、小沢久さん、
毎日新聞の青野由利さん、利Q師匠。

 毎度おなじみの、筑摩書房の増田健史も来ていて、
少しごそごそと仕事の話をした。

 先日のQUALIA忘年会ではタイ焼きカットを
した二人だったが、
 今度は本物のケーキカット。
 電通の佐々木厚さんが、手を伸ばして写真を
撮っている。

 

 みんなの、二人を祝福する気持ちが込められて
いて、
 とてもいいパーティーだった。

 それから、
白洲信哉さんの忘年会へ。
 白洲明子さん、白洲千代子さん、
小池憲治さん、石原延啓さん、細川護光さん、
瀬津雅陶堂の瀬津さんなどと楽しく呑む。

 白洲さんがつくったすっぽん鍋は、
フランシス・ベーコンの絵のような味がした。

 小池さんがいつものように酔っぱらって、
瀬津さんが私が来る前に、ダビンチについて
驚天動地の新説を発表したんだとか、
 春に見た御柱祭は凄かった、
やっぱり御柱を見ないやつはダメだね、
などといじめにかかった。

 私がぼんやりと手にしていたお銚子が、
小林秀雄が本居宣長を書いている時期に晩酌に
使っていたやつだとか、いろいろ「講釈」を
して下さった。

 見分け方としては、ホツとか、井桁の線が
入っているとか、「こうやってもった感じが
忘れられない」とかいろいろあるらしい。
 そういわれて、じっと見つめる。
 

 うん、がんばるぞ。

 私の愛する人たちと沢山出会えて、
とてもいい一日だった。

12月 19, 2004 at 09:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/18

生の現場における文脈の作用

 計測自動制御学会システム・インテグレーション部会講演会
セッションの座長とシンポジウムのパネラーを
するために、つくば国際会議場に行く。

 筑波には、97年にイギリスから帰ってきた
直後に、1ヶ月ほど住んでいたことがある。
 短い時間だったが、ゆったりとした空間と
自然がすっかり好きになった。

 土浦駅から乗ったタクシーの運転手さんは、
57歳の女性だった。
 ラジオから流れる歌に、「これは、私が17歳の
時に流行したんですよ」と言う。

 来年つくばエクスプレスが開業すると、
土浦から学研都市に向かう客が減って、タクシー
は打撃になる。
 「でも、かえって、つくばに来て、夜土浦
に向かうお客さんがいらっしゃるんじゃないかと
言っているんですよ。ほかのタクシーは午前2時
で終わりだけど、うちは24時間やっている
でしょ。バスとかもなくなっちゃうし、使って
くれるお客さんがいるんじゃないかと
言っているんですよ。」
と話しているのを聞いているうちに、
まさにこれが文脈というものの生の現場に
おける作用だな、と
思った。

 どんなに良い料理とサービスでも、
人の流れが少ない場所にある店は
苦戦する。
 個人の創意と工夫によって切り開ける
ことには限界がある。
 つくばエクスプレスの開業で、タクシー
が置かれている文脈が変わる。
 似たようなことは、私たちの人生の
至るところにあるだろう。

 クオリアと文脈と関係については、
引き続き考えている。
 つくばのタクシーの運転手さんのように、
私たちは、一人一人が自分の置かれている
文脈の中で、懸命に生きている。
 生きる、ということが第一義的なのであって、
それは必ずしも美しいものではないし、
特には醜かったり、みすぼらしかったり、
みっともなかったりする。

 たまたま、生の文脈から美が生み出されれば
それは僥倖だが、美に結実しなくても、
 生きることの方が上である。
 美しかろうが何だろうが、そんなことは
知ったこっちゃない。

 一方で、文脈体験は、そのままでは
生の個別性に埋没してしまう。
 そこで、クオリアが、その私秘性にも
かかわらず、逆説的に公共性を構築する
手段として登場するのである。

 私の司会したセッションは、神戸大学の
郡司ペギオ幸夫の研究室の発表4件と、
東大の上田完次さんの研究室の発表一件。
 郡司と短い時間だったけど、いろいろ議論
できたのが楽しかった。
 
 シンポジウムは、
パネルディスカッション ロボット・セラピーと共創
司会 浜田 利満(那須大) 三宅 美博(東工大)
パネラー 木村龍平(帝京科学大)橋本周司(早稲田大)武者利光(脳機能研究所)茂木健一郎

 私は、Serious Entertainment Robotの
概念を提出した。
 感情と不確実性のテーマの話をしたら、武者さんが
「ゆらぎ」との関係を指摘されたのが興味深かった。
 橋本周司さんは、言われることが一つ一つ
こちらのアンテナに引っかかってきて、共感できた。

 仕事が終わり、土浦駅近くの吾妻庵に行く。
 創業100年以上の老舗だが、土浦駅付近は
最近閑散としているらしく、客は少なかった。

 店のしつらいや味は素晴らしい。北関東独特の、
広々とした空間に磨き込まれた渋みがあって、
 来る度に、こっちの方がちゃらちゃらした
東京なんかよりむしろイギリスに近いんじゃ
ないかと思う。

 私もそうちょくちょく来れるわけじゃないけど、
人が行き交う文脈のメインストリートでいい気に
なっているやつらよりも、
 こうして恵まれない文脈で苦戦している
志あるものたちにこそ、自分の思いを寄せたい、
と思いながらフレッシュひたちに乗ったら、
何時の間にか眠っていた。

12月 18, 2004 at 08:41 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/17

Lecture Records (Special)

東京芸術大学 美術解剖学講義

特別ゲスト 椿昇 2004.12.16.

mp3 file 67.5MB, 148分

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「芸術」のセクションにあります。

12月 17, 2004 at 08:43 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

橋の下を水は流れて、ニコラシカの味は変わらず

PHPの石井高弘さんと
東京駅で待ち合わせ。
 ランチ打ち合わせ。
 せっかくですからと、噂にだけ聞いていた
ステーション・ホテル下の
「東京食堂
セントラルミクニズ」

に行く。

 これまたせっかくですからと、
フォアグラ丼を注文する。
 うまい。
 石井さんに、本の原稿のことですごまれたが、
フォアグラ丼はうまかった。 

 芸大の美術解剖学は、
 椿昇さんが授業にいらして、
とても面白かった。

 多動症と言われる私だけども、
じっと座って人の話を聞くのがキライ
というわけではなくて、
 特に、椿さんの話は、聞いている
うちに脳内快楽物質が分泌されて
いくのがはっきりと判った。

 何回も反復して考えたい点が
満載の授業であった。

 質問の時間になって、案の定、
「芸大の刺客」、杉原信幸が
椿さんに突っかかる。
 そこから二人が交わした会話が
またもや面白く、芸術とは何か、
現代社会におけるアートはどうあるべきか
という問題を考える上で、とても
重要な論点を提示していた。

授業終了後、椿昇さんに芸術問答を挑む杉原信幸。
写真を撮ろうとしたら、藤本徹が椿さんの個展
UN boyのパンフレットをフレームインさせた。

 これで、今年度の美術解剖学の
授業は終わり。
 また来年の4月から開講いたします。

 植田工クンが予約してくれて、
根津の車屋で大忘年会。
 布施英利さんもいらしたし、
あとから束芋さんもいらした。
 数えてみたら、25人くらい来ていた。

 ずいぶんいろいろ議論したように
思うが、
 楽しかった、というクオリアだけが
残る。
 こんなに楽しい飲み会はそうあるものではない。
 杉原信幸、蓮沼昌宏、藤本徹は椿昇さんを
取り囲み、何やらゲージツ論議を
挑んでいた。


車屋にて。左から蓮沼、杉原、椿さん、藤本

 根津の車屋の二階の奥座敷には、白髪の
おばあちゃんが寝ていらして、
 時々引き戸を開けてこちらをじーと
見る。 
 それが、一つの名物になっている。

 車屋で呑む時間がこれからも何回も
あって欲しいし、
 おばあちゃんにはいつまでも長生き
して欲しい。

 みんなは二次会に行ったが、
私は電通の佐々木敦さんと二人で
湯島の「エスト」へ。
 今年佐々木さんにはいろいろお世話に
なったので、最後に東京のバーの最高峰で
ご馳走しようという算段である。

 最後の一杯はニコラシカ。
 砂糖を載せたレモンを噛み、飲み込んで、
そのアフターテイストが残っている
間に、ブランデーを一気に放り込む。
 エストに
最初に行ったのは24歳の時で、もう
18年前になる。
 あのときは塩谷賢と一緒だった。

 あれから橋の下を随分水が流れたが、
ニコラシカの味は変わらない。
 ただ、一口含んだ時に無意識の
うちに立ち上がる様々な想念は、
そう気が付いてみれば、随分変わって
しまっているのであろう。

12月 17, 2004 at 08:18 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/12/16

美術解剖学、椿昇さんの講義

本日(2004年12月16日)

東京芸術大学『美術解剖学』講義 
(本年度最終回)

ゲスト 椿昇

15:35 〜 17:00

美術学部 中央棟 第8講義室
(教室が、隣の方に変更される可能性もあります)

終了後、忘年会が
根津の「車屋」であります。布施英利さん、束芋さん
も参加。池上高志も来るかもしれません。
詳細は油絵四年の植田工クンにお問い合わせ
ください。

12月 16, 2004 at 07:24 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

学問のエンジン

 授業が始まる前に、浅田研究室に行ったら、
ちょうど浅田稔さん
が、合原一幸さんや、
乾敏郎さんと議論しているところだった。

 なんでこの三人が豪華そろい踏みを
しているのかと言えば、コミュニケーション
関係の研究会があったからで、
 授業終了後、そちらに行くことに。

 「ロボビー」や、リアルなヒューマノイド
の研究で知られる石黒浩さん
が紹介してくださり、授業開始。
 石黒さんは、「新しい
ヒューマノイドのデモがありますから、来て
ください」と言い残して去っていった。

 というわけで、そのデモ時間にちょうど
休み時間があるように授業調整。

 デモ室に行くと、國吉康夫さんもいた。
 新しいヒューマノイドは、NHKの某女性
アナウンサーをモデルとしており、
 知らずにいきなりみると、思わずそこに
本当に人間がいる、と感じるほどリアルである。
 詳細については、まだ開発中であるので、
省略。
 
 ヒューマノイドを見終わって、また授業
再開。
 今回は徹底的にインタラクティヴにやった。
 特に、野田智之クンという学生と掛け合い
漫才をやるような形で、感情の問題を議論する。
 野田くんは、マジメさと実直さが混ざった
植田工のようなキャラクター。

 力石武信クンとか、水木太喜クンとも
いろいろ話す。
 またどこかで会うことがあるでしょう、
レポートがんばって書いてください!

 授業終了後、浅田さんに研究会に来てください、
と言われていたので行ったら、いきなり
トークさせられた。
 30分ほど、internal reward dynamics
について話す。
 何しろ論客ばかり集まっているので、
議論がとても楽しかった。

 結論:学問を推進するのに、刺激的な
議論ほどよいエンジンはないなり。

 帰りの新幹線は、仕事をする予定だったが、
疲れが溜まっていて、爆睡。
 降り立った東京駅丸の内口をつつむ暗闇には、
なんだか歳末らしい気配があった。
 ミネナリオのポスターが貼ってあったという
こともあったのだろう。

12月 16, 2004 at 07:08 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/15

ロゴス

今日は、年に一回の大阪大学での集中講義。
 認知ロボティックスの
 浅田稔さんが呼んでくださっている。

 工学部の、ロボットや材料をやっている
学生と議論するのは、とても楽しい。
 彼らは、実際に動くものをつくる、
という使命感と倫理観を持っているからだ。

 それにしても、昨日から今日にかけての
メールサーバーの不具合は参った。
 いったん復旧したが、今朝も調子がおかしくて、
久しぶりにterminalからunix modeでログインして
あれこれ見ているうちに、時間があっという
間に経ってしまった。
 自分のディスクスペースの容量の問題
だと思ったが、
 どうやらそうではなく、ホスティング・サービス
全体の問題らしい。

 コンピュータは、不具合を起こすと本当に
時間食い虫で、
 田森佳秀などは、時間をかけただけ
スキルがアップするのだ、と言っていたが、
他にもやることがあるし、ほどほどにしたい。
 昨日から今日にかけて、随分時間を費やし、
精神のバランスを崩しかけてしまった。

 ケンブリッジに留学している時、マックの
調子がおかしくなって、あーでもない、こうでも
ないと、48時間、眠っている間と食事を
している間を除いてコンピュータに掛かりっきり
だったこともある。ああいうのは空しい。

 バランスを崩さないためにも、ロゴスが
必要だ。
 阪大の授業の準備もしなければならないし、
論文も書かなければならないし、原稿の締め切りも
ある。
 自分のおかれた状況を鳥瞰図的に見て、
そこに一種のポリティカルなバランスを取ること。
 これこそが、「ロゴス」である。

 齋藤孝さんは、教育者として素晴らしい
仕事をしていると思う。
 最近読んだ『座右のゲーテ』
でも、ゲーテが偉大である理由をきちんとつかみ、
それをわかりやすく伝えている。

 思うに、ゲーテのような、人文主義的な
バランスのとれた知性が、現代では稀に
なってしまっているのではないか。
 しかし、意義のある人生を送ろうと
思ったら、
 ゲーテ的バランス感覚は必要だ。
 
 ニュートンの色彩理論に反対したのは、
ゲーテだった。 
 今思えば、彼は現代風に言えばクオリアの
ことを考えていたのかもしれない。

 何らかのアイデアに運ばれてしまっては
ダメなのであって、
 そう気が付けば、物理主義では主観的
体験の諸相を説明できないことなど、
最初から明らかなのであった。
 そのような「真実」を見つめることも、
またロゴスの働きである。

12月 15, 2004 at 08:27 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/12/14

メールサーバー不具合

先ほどから、メールの送受信に使っているベッコアメの
メールサーバーが不具合を起こしていて、
メールの送受信ができない状態になっています。

本日のほぼ、午前5時以降のメールが受信できていない状況になっています。

(2004年12月14日11時50分現在)

12月 14, 2004 at 11:54 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

謎の男の正体

竹内薫の12月13日付けの日記

http://6706.teacup.com/yukawa/bbs

に、

「本日の喝!」

(前略)
茂木健一郎がアップしてくれた忘年会のエアロの動画を
見ていたら、中央右のnomad氏の左後ろに、ジュースを
飲みながら、じっと前方を凝視している怪しい男の映像
が・・・。

いろいろな意味で・・・彼に対しても、本日の「喝」!

(後略)

とある。

 確かに、クオリア日記 Archivesの「私の出会った
素晴らしきもの」(Awesome things that came my way )
 にある

2003.12.12. Qualia忘年会でのエアロビ・ダンス
mpg file (35.3MB)

を見返すと、
 皆が踊っているのに一人だけクールにジュース
を飲んでいる男が妙に浮いているが、
 この人は東京芸術大学の布施英利研究室の
助手の津口在五クンである。

周囲の喧噪をよそに、クールにジュースを飲み続ける津口くん

 この動画は、途中で店の外からコワゴワ
「何だろう」と覗いている人たちの画像が
入ったり、何回かカメラが往復すると、
その度に津口がクールにジュースを飲んでいたり、
 なかなかの出来で気に入っている。
 とりわけ、津口がほとんど表情を変えず、
身体も動かないところが良い。

 うまく編集すれば、コメディの一シーンで
使えそうだ。

 もちろん、私が演出したわけではなく、
人生の一回性のなせる偶然である。

 夜、仕事の合間に、
Awesome things that came my way
にある他の動画も見直していたら、
発見をした。

2000.4.6. 大阪道頓堀 『アカペラおっさん』
 mov file (19.7MB)

で、おっさんに絡まれている女の子のアカペラ
6人組、途中でグループ名を読み取ることができる。

浪花コラボレ祭り、Yo!!six出演します 

このYo!!six、プロとして活躍している
ということがわかった。

http://www.ka-pro.com/yosix/top.html

 「History」の項目を見ると、
 私が目撃した2000年4月は、ちょうど
本格的な活動を始めた頃らしい。
 そういえば、Yo!!six、とてもうまかった。

 いまや、このおっさんに絡まれている
シーンは、ファンにとってはお宝映像かも
しれない。

 記録というものはすごいもので、
普通ならば一回で通り過ぎていってしまう
ものが、
 生々しく残される。
 動画や録音を残すことが、
「人生の一回性への科学的態度」である
ゆえんである。

12月 14, 2004 at 08:35 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/13

人間がサルに見えてきた

本日(12月6日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年12月19日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第33回

人間がサルに見えてきた


が掲載されています。

 京都大学霊長類研究所を訪問した時の経験
から、「サルとしての人間」について論じて
います。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

12月 13, 2004 at 07:15 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

非対称を想像で超える

最近の休日の楽しみは、果物屋さんに行って
会話しながら何か買うことである。
 2004年11月14日の日記にあるように、
私は悔い改めて、基本的に
 スーパーでは果物を買わなくなった。

 昨日は、「にっこり」
という梨と、「金星」というリンゴを
買った。

 「にっこり」梨は、行くたびに買っているので、
すっかり覚えられてしまって、
 「また梨ですか」とか言われる。
 昨日は、店頭には出ていなかったが、
「奥にありますよ」と言って持ってきてくださった。
 にっこりを食べるのも、今年最後か。

 インターネットで調べると、にっこりも、
金星も、その背後には物語がある。

 ものをつくる側と、それを消費する側というのは
基本的に非対称だなあ、とつくづく思う。
 つくる側は、あれこれと工夫して、丹精
込めるが、消費する側は、「ああ、リンゴか。
いつもよりちょっと甘いな」とか、「ああ、梨ね。
このシャキシャキ、まあまあいいね」などと
気軽に食ってそれで終わりである。
 
 想像力うんぬんと人は言うが、ごく簡単に、
何かを消費する時に、それができあがった
経緯を想像するだけでも世界は変わって見える
のではないか。

 戦場では、照準の中にいる男の人生のこれまでの
経緯を想像していたら、引き金を引けない。
 だから、戦争指導者は人々の想像力を
封殺するか、マニピュレートしようと
するのであろう。

 
 想像する、ということに伴う倫理問題は
奥深い。

 
 ベランダに出しているウツボカズラは、
まだまだ元気で青々としている。
 しかし、そろそろ寒そうだから、家の
中に入れようと思う。

12月 13, 2004 at 07:10 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2004/12/12

最後の10分

本日放送の、
MXテレビの番組、寝坊して
最後の10分しか見られなかった。

なんだかとてもよくまとまっていた
感じがする。

19日朝8時からの
再放送でゆっくり見ようと思う。

番組を製作してくださった西野淳一さんが、
心脳問題の現状についてとても適切に
まとめて下さっている。

http://www.mayQ.net/qualia.html

12月 12, 2004 at 10:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年QUALIA忘年会

Qualia communityというのは、
もともとはqualia mailing list
を中心にマジメに
心脳問題を議論する人たちの集まり
だった。 
 最初の方の
過去ログ
を読むと、随分いろいろなことを真剣に
語り合っている。

 その後、美術館に行って絵をみたり、
朗読会をやったり、広い意味での「クオリア」
を通して、科学、芸術、文学に興味を
もつ人たちがあつまる、オープンな会
になっていった。

 2、3年前から、竹内薫
合同で忘年会をやるようになった。
 竹内とは、20歳の時に東大の物理学科の
進学ガイダンスで出会って以来の親友で、
 もう人生の半分を一緒にいることになる。

 今年は、竹内が11月1日に入籍するという
とても嬉しい出来事があって、
 そのお祝いも兼ねた会になった。

 48名の方が参加して、大盛況になった。

 渋谷慶一郎さん
が送って下さった、待望のソロアルバムATAK000
のCDを持参して、これをかけてください、
とお願いしたら、ATAK000としか書かれていない
シンプルなCD faceを見て、
SIGN daikanyamaの店長さんが、
「ああ、渋谷さんの
ですね」と言われた。
 渋谷さんの一音入魂の作品が流れる中、
 みんないい感じで談笑していて、そこに
いくつかの「イベント」が挿入される感じに
なった。

 まずは、何と言っても、竹内薫の新妻、
竹内かおりさんのエアロビ・ダンスがキックの
効いたインパクトだった。

 ダンシング・クィーンと化して、フロアの
人たちを支配したかおりさんは、
 スルドクテキパキと指示を出し、
人々の手はゆらゆらと竹のように揺れたの
であった。
 
 早速、クオリア日記 Archivesの「私の出会った
素晴らしきもの」(Awesome things that came my way )の殿堂入り、決定。
 このblogのタイトルの下からも飛べるけれど、
当該コーナーに
 動画がアップされている。

 続いて、アーティストの佐藤皇太郎さんが、
自分のデジカメをオークションにかける。
 売り上げは、ユニセフに寄付するのだという
のである。

 会場から入札の声が飛び交う中、
 佐藤さんのキモチに動かされた、
理化学研究所でアルツハイマー病
の研究をしている中島 龍一さん(ろんさん)が
見事落札した。


 
 佐藤さん(左)から、デジカメを受け取る
中島さん(右)

 ふと気が付くと、細野将誠さんが、
タイ焼きを「寿」の紙に包んでいる。
 結婚祝いに、どーんとタイ焼きを持ってきて
下さったのである。

 パーティー会場の片隅で、「寿」タイ焼きを
包む細野将誠さん。社長さんである。イイヒト
である。


 さっそく、竹内薫、竹内かおり新郎新婦が、
「最初の共同作業」として「寿」タイ焼きに
入刀することとあいなった。

 「寿」タイ焼きに入刀する竹内薫、かおり両名

 その間、東京芸術大学油絵科4年、蓮沼昌宏
はSIGN daikanyamaのガラスに紙を貼り、
パーティーの談笑をよそに、
密かに製作を続けていたが、
 完成したので、「善意のシーズン」(season
of good will)の精神に則り、自作も
オークションにかけることになった。

 オークション前に、絵を検分する左から竹内薫、
植田工、蓮沼昌宏。


 電通の佐々木敦部長がオークショナーをつとめ、
わが研究室の田辺史子とnomadこと内田浩史が
するどい競り合いを演じたが、
 ついにnomadが落札し、
 蓮沼の画才が、ユニセフの財政に
貢献することとなった。

 最後に佐々木部長の散会の挨拶で、お開き。

 二次会は、いつもの通り渋谷のBYG
で開催。
 ストローで赤ワインを飲んだら、むせてしまった。

 とても楽しかったです。いらして下さった
皆様、ありがとうございました。

12月 12, 2004 at 09:43 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/11

ソニー11号館

この日記には、起こったことを全て
書いているわけではなくて、
 特にソニーや研究所関係のことは
内容的に書かない(書けない)ことも多い。
 しかしたまには差し支えない
範囲で書いてみようと思う。

 昨日は、ソニー社内であるイベントがあり、
百数十名の方を前に脳から見た技術の未来像を
お話した。
 会場のソニー11号館への坂を上がって
行く時、前から久多良木さんが偶然
やってきて、
 通り過ぎるときにご挨拶した。
 
 講演を終えて、会場に来ていたQUALIAの
加藤さんと話す。
QUALIA005
の売れ行きは、好調とのこと。
 あれは本当にキレイである。
 まさに今までにない視覚的クオリアがある。

 ソニー本社が目の前に
見える坂を下りながら、
 ソニーコンピュータサイエンス研究所
に来てからの7年間を振り返って、
 いろいろなことを考えた。
 この経験を生かして、何かをしなければ
ならない。
 脳科学、ソニー、QUALIA、文学、芸術。
 私にしかできないミッションがあるはずだ。

 今年も、もう終わりに近いが、
時には、自分のことをちょっとメタな視点から
振り返って、
 これからの人生の軌道を思い描いてみる。

 あまりの忙しさに
 呆然とすることも多いけれど、
感じる心と、論理を貫くロゴスを持ち続ければ、
きっと乗り越えることができるだろう。

12月 11, 2004 at 06:56 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/10

クオリアから意識の謎へ 茂木健一郎の冒険思考

ガリレオチャンネル

クオリアから意識の謎へ
茂木健一郎の冒険思考

2004年12月12日(日)AM8:00〜8:30
東京MXテレビ

科学がこれまで扱ってこなかった意識の謎に「クオリア」をキーワードに挑む脳科学者・茂木健一郎さん。脳科学の到達点と限界、主観的な意識体験を科学する戦略、機械に意識が宿る可能性など刺激に満ちたテーマにロングインタビューで迫る。
◇再放送12月19日(日)AM8:00〜8:30

http://www.web-wac.co.jp/tv/

12月 10, 2004 at 09:00 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

脳科学で解く「絶叫」「独断」の小泉政治

月刊「中央公論」2005年1月号 (p.202〜210)に、

茂木健一郎 脳科学で解く「絶叫」「独断」の小泉政治

が掲載されています。

http://www.chuko.co.jp/

12月 10, 2004 at 08:40 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Lecture Records

東京芸術大学美術解剖学講議 
2004年度 後期第6回
2004.12.9. 『セレンディピティ』

セレンディピティという言葉の起源、科学に
おけるセレンディピティ、芸術における
セレンディピティ、セレンディピティを成り立たせる
脳のメカニズム、学生それぞれのセレンディピティ
体験
 
音声ファイル(mp3, 35.4MB, 77分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「芸術」のセクションにあります。

12月 10, 2004 at 08:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

美術解剖学からセルへ

来週は椿昇さんがゲストでいらっしゃるので、
私が喋る「美術解剖学」は今年度最後。
 2年間やってみて、自分のミッションのような
ものが見えてきた。

 つまりは、作品を後追いで意味づけるクリティーク
ではなく、
 アーティストが創造する上で役に立つような
概念セットを提供する、
 そんな授業をすればいいのだ、と思うように
なった。
 
 今のところの一番の収穫は、クオリアと
文脈主義の対立関係という視点を獲得
したことである。
 来年は、NHKブックスから美についての
本を出す予定だし、
 二年間芸大生といろいろ話して来たことの
成果を世に問いたい。

 植田工のアトリエにみんなで上がって、
しばらく喋る。

授業終了後、芸大油絵科のアトリエでの植田工。
珍しくマジメな顔をしている。


 植田は今、卒業制作中。そのまま院に
上がる予定なので、
 来年も植田や杉原、蓮沼、藤本らの
おなじみの顔とのいろいろなコトが続きそうだ。
 布施英利研究室の助手となっている
津口も含め、
 なんだか濃い付き合いになってきてしまった。

 みんなはまだ喋っていたが、私は
一人暗い上野公園を抜け、電車に乗り
豊洲へ。
 電通の近藤純二郎さんのアレンジで、
NTT Dataでセル・コンピューティングを
されている鑓水訟さん、山本修一郎さんと
インフォーマルなディスカッション。
 山本さんには、『誰も語らなかったIT9つの
秘密』
などの著書がある。
 論客である。

 鑓水さんは、私の親友、田森佳秀を
思い起こさせる、一つのトピックにのめり込んで
いくタイプの人で、セル・コンピューティング
にかける思いを滔々と語って下さった。

 2時間ほどお話して私が得た感触は、
製薬会社の計算や、CGのレンダリングなど、
業務系のコンピューティングのコスト・ダウン
においてはセル・コンピューティングはすぐにでも
利用可能性がありそうだ、ということ。
 その一方で、一般のエンド・ユーザーが
スパコンの計算能力を獲得するというメリット、
キラーアプリケーションはなかなか見えて
こない。

 最上階の食堂からは、遠く東京タワーまで
美しい夜景が見えた。
 隅田川の黒が、夜空の黒と溶け合って。

12月 10, 2004 at 08:27 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2004/12/09

 美術解剖学 「セレンディピティ」

(niftyのせいで、終了後の掲示となりました)

本日(2004年12月9日)

東京芸術大学『美術解剖学』講義 
後期第6回

 セレンディピティを支える脳のメカニズムについて
考えます。アーティストにとって、セレンディピティとは何でしょうか。
 
15:35 〜 17:00

美術学部 中央棟 第8講義室

12月 9, 2004 at 09:26 午後 | | コメント (0) | トラックバック (1)

野中郁次郎さんとの夜

 夕刻、経営学者の野中郁次郎さんの主催される
研究会へ。

 野中さんは、カリフォルニア大学バークレー校に
留学され、その後、一橋大学などで教鞭を
とられた。
 その著書The Knowledge-Creating Companyが、
全米出版社協会「ベストブック・オブ・ザ・イヤー」(ビジネス経営書部門)
を受賞するなど、大変な実績のある方だが、
いろいろ声をかけていただいて、ありがた
く思っている。

 経営学の本、あるいは、未来社会予測の本は、
一度ちゃんと書きたいと思って果たせていない。
 QUALIAの視点から、英語で、
Peter Druckerのような本を書きたいと
思っているけれど、
人生なかなかやりたいことが全部できるわ
けではない。

 90分間、クオリアや脳、感情から見た
これからの経済、社会のあり方について
講演。
 セレンディピティと経営の関係について
もっと話せれば良かったのだけれど、
 時間切れになってしまった。

 懇親会の途中で、野中さんや紺野登さん、
他数名で抜け出して、寿司屋へ。
 紺野さんは野中さんと共著の本を幾つか
出されている。

 野中さんが、突然、英語混じりで話しはじめた。

 やっぱり、茂木さんのリサーチは、エッセンシャル
なプロブレムをパッショネットにパーシューして
いるわけですから、そのハンズオンのカッティング
エッジのアジェンダが・・・・

 英単語が水が湧き出るようにぽんぽん出てくる。
 やはり、野中さんのアタマの中は、英語の
発想になっていらっしゃるんだなあと思った。

 野中さんは学童疎開で沼津に行って、
そこでB29が駿河湾から富士山に向かって
まっすぐ飛んでいくのを見ていたそうだ。

 「それでね、途中で右折するんですよ。」

と野中さんが言われた時、「右折」という
言葉に物凄いリアリティがあって、戦慄が
走った。
 
 「沼津の途中で機銃掃射してね、逃げながら
見上げると、パイロットが笑っていてね、
クソ、と思いましたよ。あれが私の人生の
原点ですね。アメリカめ、今に見ていろ、と
思いましたよ。
 それがアメリカに実際に留学したら、コロリと
好きになってしまって」

 寿司屋の中を魂がよぎっていく気配がした。

 その瞬間の空気の変容を、私は、野中さんが
与えてくれた福音であるように感じた。

12月 9, 2004 at 09:11 午後 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2004/12/08

「真」とはなんぞや?

財団法人・塩事業センターの
webマガジン enの忘年会が、新宿である。

 塩事業センターの河井義行さん、大庭剛司
さん、それにアルシーヴ社の佐藤真さんと
私の4人である。

 佐藤さんはJTの『談』も編集されていて、
その特集のインタビューで数年前にお会いして
以来のおつきあいである。
 いろいろな話の花が咲いたが、気になったのは、
「真」とはなんぞや、ということである。
 とは言っても、佐藤真の「真」が何か、
ということではない。

 私が連載している「おいしさの解剖学」
の打ち合わせで河井さんが研究所を訪問
された時、
 昨今の自然塩、天然塩ブームについて
話した。
 その時、河井さんが、
「昔は、白い塩を手に入れるのが人類の
夢だったし、今でも技術者はできるだけ
純度の高い塩をつくろうと頑張っている
のですがね」と言われたことが、妙に
記憶に残り、もう一度その話をした。

 純度の高い白い塩は、「真塩」という
らしい。江戸時代、瀬戸内で出来る
真塩は主に大阪に出荷され、東京に
送られる塩は純度の低いものだった
そうだ。
 この「真」という言葉に、昔の人々は
どのような思い、観念を投影していたの
だろうか。

 もちろん、物質の化学組成についての
科学的知識などない。
 真塩、真水などの用法における「真」は、
余計な雑味をとりのぞいていった時に姿を
現してくるエッセンスのようなものとして
認識されていたのだろうか。

 「真心」の「真」とは何か? たいへん
気になる。
 プラトン的世界の気配が、そこにはある。

 一方、「天然」、「自然」といった概念は、
一体現代人の心にどのような作用をもたらして
いるのだろうか。
 昨今の「天然塩」、「自然塩」ブーム
について、読売新聞で大庭さんが解説した
記事がある。

http://www.yomiuri.co.jp/wine/kaisyoku/20040913ui11.htm

 どんな塩を使うか、という一見小さなことの
背後に広大な思考空間がある。
 だから世界は面白い。

 藤原書店の刈屋琢さんに薦められて、
イバン・イリイチの『生きる思想』を今読んでいるが、
 現代人が自然を排除することで、自らが自然から
排除され、かえって「自然」(のイメージ)
をマーケットを通して買わねばならぬ、その脈絡
について考える。

 人工的なしつらいを凝らした
 高級レストランで天然塩を使った料理を食べるのと、
 大自然の中、普通の精製塩で握ったおにぎりを
食うのと、どちらが自然の精神に触れたことになるの
か。

12月 8, 2004 at 08:04 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/12/07

君子は豹変す

落語家の三遊亭白鳥さんと、対談する。

 白鳥さんの高座には、三遊亭新潟という名前
だった時に何回かうかがったことがある。
 新作落語だと思っていたら、それが実は
古典落語の線をなぞり、その精神を現代的に
復活させているということに気が付いて、
 深い感動をおぼえた記憶がある。

 対談で、驚いた。
 白鳥さんは、別に古典落語を知っていて
それを現代風にアレンジしたのではなくて、
 勝手に自分でつくったら、後で師匠たちに
「お前、それは古典落語の○○だよ」
と指摘されて、初めて気が付いたのだと言う。
 この人は天才なのではないかと思った。

 明治に、三遊亭円朝という大名人がいて、
「死神」、「文七元結」、「真景累ヶ淵」、「怪談牡丹灯籠」
など、今や
古典となっている新作を沢山つくった。
 お話を伺っていて、
 白鳥さんが、将来、円朝を襲名すれば
良いのではないか! と私は思った。
 この人は、そのうち渋い落語をやる
ような気がする。
 白鳥さんと円朝を結ぶ線が見えた。

 「君子は豹変す」と言うが、真摯に
生きている人ほど、人生の途中で案外
ばーんと大きなモデルチェンジをするもの
なのではないかと思う。
 自分の中に眠っている可能性は、無限
である。
 脳の中にある様々な積み木を組み合わせて
いろいろな形をつくっていると、
 それがある時美しい姿を生み出す。

 いつも積み木を組んだり、解いたり、
無限運動を続けていることが大切だ。

 対談後、新宿の台湾料理屋で打ちあげ。
 白鳥さんは、最近は新潟中越地震の被災地に
慰問に行かれることが多いそうである。

 家が壊れ、寒空に震える人たちに、さぞや
笑いのもたらす精神の光は暖かろう。

12月 7, 2004 at 07:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/06

あなたの会社は「野球型」? 「サッカー型」?

本日(12月6日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年12月19日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第32回

あなたの会社は「野球型」? 「サッカー型」?

が掲載されています。

 各プレーヤーのやるべきことがほぼ決まっており、
数値によるパフォーマンスの評価がしやすい「野球
型」の組織と、各プレーヤーの自発的行動が求め
られ、数値による評価がしにくい「サッカー型」
の組織を比較し、脳に学ぶ組織の構成原理について
論じています。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

12月 6, 2004 at 07:31 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

気づかずに通り過ぎて

台風のような風が明け、
修善寺の境内にはやわらかな陽が落ちていた。
 増田健史と大場旦は散歩に行ってしまったが、
私はぼんやりと座って緑色の苔の上に落ちる
光の粒を眺めていた。

 何もしない時間こそが贅沢である、などと
感じていた。
 竹林をわたる風も、
 ぱらぱらと散る赤い紅葉の葉も、
 確かに美しくそこにあったが、
同じくらい美しいものは、気が付かないだけで、
普段から身の回りにあふれているに
違いない。

 機能や文脈を少し外してやってみれば
必ず見えるはずなのに、その時間の余裕がない。

 ジョン・レノンは、かつて、
Life is what happens while you're busy making
other plans.
という名言を吐いた。

 人生とは、気が付かずに通り過ぎていってしまう
美しさや喜びのことなのかもしれない。
 

茂木健一郎 『生きて死ぬ私』(徳間書店)所収の
写真より。

12月 6, 2004 at 06:53 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/05

イノシシ温泉

東京駅に着く頃、
ケイタイが震えた。
 チケットなどを全て持っている増田健史さんが
寝坊してぎりぎりになるというのである。

 東海道線のホームでビールを買って
待っていると、
 増田健史が走ってきた。
 発車1分前。ぎりぎりである。

 早朝の入稿で、ほぼ徹夜明けの大場旦は、
うつらうつら始めた。
 シューマイを食べながらビールを飲んでいると、
横浜あたりで満席になった。

 修善寺に前回来たのは大学院生の時だった。
 だから、十数年ぶりである。

 前回はどこかの安宿に泊まったのだと思うが、
その時に羨望の目で眺めた新井旅館を増田健史
が予約していた。

 荷物を置き、あたりを散策する。
 射的場で、力士と、青い花柄ブタ、カエルの置物を
落とした。

 天平スタイルの風呂に入り、湯上がりのビールを飲む。
 そのあたりから、本格的に議論が始まった。
 夕食を終え、「カラオケスナック」に行くが、
カラオケは一曲もやらずに、柄谷行人がどうの、
マルサスが、マルクスが、ダーウィンが
どうのと議論をしている。

 親切にいろいろ赤ワインやビールを持って
きて下さったおねえさんは、一体
どんな客だろう、と不思議に思ったでしょうね、
と出た後で増田健史が言う。
 なるほど。そんなメタ認知は立ち上がらなかった。
 
 1時くらいまで議論して、寝た。
 風が大分強くて、何回も目が覚めた。
 高浜虚子も泊まったという部屋の周囲で、
いろいろな音がする。

 あやめ風呂に入って朝日を見ていると、
大きな鯉が泳いできた。

 タイマーで撮影した写真を見ると、
自分だけ赤い顔をしている。
 このあたりには、イノシシが出るらしい。
 

(左から)
大場旦、茂木健一郎、増田健史

12月 5, 2004 at 11:35 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/04

齋藤孝、Urb

<齋藤孝さん、ありがとう>

 今週号のAERA(2004.12.6号)の
「齋藤孝のサイトー変換」で、齋藤さんが
「脳と仮想」を取り上げてくださっていました。
 
 理系で文系、文理両立で生まれる発想が、脳科学の
最先端を開く。

 一部抜粋

 なかでも僕が気に入ったのは<「長島茂雄
っぽい感じ」>というのもクオリアだという一説。
大技だ。
 理系的に脳や遺伝子の話をされるとどこか
むなしくなるが、この本はそうではない。
 簡単に言ってしまえば、本作にはあらゆる雑学
が脳の話に収斂する気持ちよさがあり、それは
図らずも「心とはなにか?」という命題の答えに
接近する快感を生む。
 この本を読むと、文系と理系を分ける愚かしさが
沁みてくる。切り離して考えるのはもったいなさ
すぎるというメッセージが残るのだ。

<Urb アーブ>

ただいま発売中のUrb創刊第2号
(グヴィネス・バルトロウの表紙のやつ)
の125ページに、

 ”脳のモードチェンジ”で効果的に気分転換

と題して、私がパズルやっているところとか、
歩いているところとか、好きなピエール・
マルコリーニのチョコレートとかがフィーチャー
されている記事が掲載されています。

http://www.beasup.com/urb/

12月 4, 2004 at 09:00 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

愛することで、弱さが顕れるとしても

2004年12月7日発売の「文學界」
2005年1月号に、茂木健一郎「脳のなかの文学」
連載第10回 「愛することで、弱さが顕れるとしても」
が掲載されています。

 一部抜粋

 しかし、学問の方法論を遵守するということと、何かを愛するということがしばしば相容れないことも事実である。
 誰でも、自分の子供は特別な存在であると思う。では、自分の子供が確かに他の子供とは違うということを、客観的に、反証可能な形で示してみろと言われても、それは親の愛の本質とは関係がないと誰もが思うことだろう。

 己れの子が己れの家庭にのさばっている間は天にも地にも懸替のない若旦那である。この若旦那が制服を着けて学校へ出ると、向うの小間物屋のせがれと席を列べて、しかもその間に少しも懸隔のないように見えるのはちょっと物足らぬ感じがするだろう。
       (夏目漱石  『趣味の遺伝』)

 自らが愛するものが、不特定多数の集合の中に置かれた時に平凡に埋没してしまう。そのような認識の瞬間によぎる寂しさを、誰もが経験したことがあるはずである。『吾輩は猫である』と同時期に書かれた『趣味の遺伝』の中の一節には、自分が愛する対象が広い世界の中で客観視されてしまうことの切なさが捉えられている。
 文学が、人間の個別の生が普遍なるものに出会う現場の消息を描くものであるとするならば、主観と客観の狭間で愛が内包する根源的矛盾を避けて通ることはできないはずだ。恋愛を描くのが文学の中心課題だと言いたいのではない。坂口安吾や丸谷才一の小林秀雄批判が正当であること。それにも拘わらず小林秀雄の愛に殉じる姿勢がその批判を超えてしまうこと。そのような事情をどのようにとらえ、そこから何を抽出するか。このやっかいな問題を考える精神運動の中にこそ、人間にとって愛とは何であり、文学とは何かを考えるヒントが隠されている。


http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

12月 4, 2004 at 08:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Lecture Records

朝日カルチャーセンター 公開講座 脳とこころを考える ー美しいと感じる脳ー 対談

2004.12.3 布施英利 × 茂木健一郎 対談 「芸術と科学を巡って」

音声ファイル (mp3、 55MB、120分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「芸術」のセクションにあります。

12月 4, 2004 at 08:22 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

布施英利さんとの、本当に愉しい対話に癒されて

ここのところ、やることがあまりにも多すぎて、
考えてみると、昨日のコンサートで、二時間
ぼーっと何もしないで座っているなどという
時間の流れは本当に最近はないのだった。

 「ロゴス」に心惹かれる理由も、そこに
あるのかもしれない。
 さもなくば、カオスの中に私の感情は沈む。

 田谷文彦の論文、reviewerのコメントへの
対処を朝から一緒にずっとやっていたが、
そのうちゼミの時間になってしまい、
 張さんと小俣の紹介する論文を
だーっと読み、田辺史子の記憶の実験計画を
聞いている間にちょうど時間となりました。

 新宿に移動して、住友三角ビルの
1Fのアートコーヒーで幻冬舎の大島加奈子
さんと本の打ち合わせをしているうちに、
またちょうど時間となりました。

 そして、外に出ると、そこにちょうど
布施英利さんがいらっしゃいました。

 一緒に朝日カルチャーセンターのある
48階まで上がり、簡単な打ち合わせをする。

 対談は、最高に楽しかった。
 具体的なエピソードのエラン・ヴィタール
に満ちているだけでなく、
 布施さんが、エッセンシャルな問題に
寄り添うように、常に精神運動してくださった
からである。

 対談の記録の音声ファイルは、私の
人生にとっても宝物のようなものである。
 布施さんとはこれからも数限りなくお会いする
だろうけれど、
 昨日の生の現場の文脈は、二度と再現しない。

 音声ファイルを残すことは、つまりは、
人生の一回性に対する科学的態度である。

左から茂木健一郎、布施英利


 講座終了後、布施さんも交えて忘年会。
全部で20人いた。
 後から植田工と筑摩書房の増田健史も乱入。
 増田さんは、私が、「来年から集英社の
『青春と読書』の連載が始まることになりました」
と言ったら、「なに〜 てめ〜、オレの
仕事をちゃんとやるんだろうな」と怒って、
ビールを沢山飲んだ。
 
 大丈夫です。ロゴスをもってベストを尽くします。
竹内薫も言っているように、光のスピードを
超えては動けないけれど、まあとにかく朝から
夜まで一生懸命働いていますよ。
 
 その激怒ビール大量飲み増田健史、NHK出版の
大場旦と、この土日は修善寺の温泉へ、
男三人遊興の旅に出かけるのである。
 温泉から帰ってきたら、まずは田谷の
論文を終わらせて、それからまたひたすら仕事、
愉しいワーカホリック。

12月 4, 2004 at 08:21 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/12/03

布施英利さんとの対談(本日)

本日(2004年12月3日)

朝日カルチャーセンター 講座

「脳とこころを考える」 ー美しいと感じる脳ー
(全5回)

第5回 (この回だけの参加もできます) 

対談 布施英利 × 茂木健一郎

午後6時30分〜8時30分 新宿住友ビル48階

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture17.html

12月 3, 2004 at 08:12 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

Lecture Records

東京芸術大学 美術解剖学 後期第5回
2004.12.2.

生の現場における一回性の文脈(mp3, 17.9MB, 78分)

藤本徹、杉原信幸、植田工、蓮沼昌宏などとの
議論あり。

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「芸術」のセクションにあります。

12月 3, 2004 at 08:12 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

芸術と人生は、流れてひとときもとどまらず

芸大に行く前に、9月1日にリニューアル、
グランド・オープンした東京国立博物館の
日本館を20分でばーっと見た。

 芸大の音楽学部と美術学部の間の道に入ったら、
正門前にたくさんのテレビカメラが来ている
のが見えた。
 北野武さんが教授になるというので、
そのニュースの取材らしい。

 その件については、布施英利さんから
だいぶ前から教えていただいていたが、
秘密であった。

「いやあ、言いたくて仕方がなかったんだけど、
これでようやく言えるようになりました」
と布施さん。
 
 授業は、私が京都芸術造形大学での束芋さん、
宇川直宏さんとの鼎談を受けて考えはじめたことを
巡って議論。
 反文脈主義を一部修正して、自分の生の現場、
その一回性に寄り添う文脈は良いのではないか、
という話をした。
 村上隆さんの「オタク」、
「スーパーフラット」は、一種の文脈僭称ではないか。
 しかし、村上さんには、村上さんならではの
固有の切実な一人称の文脈があるのではないか、
そんなことを議論した。

 美術解剖学に出席している学生の中では
一番の理論家、藤本徹は、ずっと金沢21世紀美術館
で運営の手伝いをしていたが、 
 昨日は久しぶりに授業に顔を出したので、
ずいぶん議論が充実、白熱した。
 そこに杉原信幸も絡んで、だいぶ
深い話になっていったが、
 P植田に話を持っていったら、案の定、
「そっち方面」の話題に落ちていった。

 mp3をお聞きになる方は、最後の
10分で急に話題が落ちるので、ご注意
ください。

 大浦食堂でしばらく歓談。
蓮沼、杉原、寺町のトリオの作品!を
見せてもらった後、
 池袋に移動。

 ヨミウリ・ウィークリー編集部から
ご招待いただいた読売日本交響楽団のコンサート。

 ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮で、
ドヴォルザーク 交響曲8番
ロドリーゴ ある貴紳のための幻想曲
ラヴェル <ダフニスとクロエ>第二組曲。

 ロドリーゴのギターソロは、村治香織。

 ここのところ、コンサートに行く
時間の余裕もないような感じだったが、
半ば強制的に何もせず音楽に没入していると、
なるほどこれは最上のヴァカンスであって、
精神が開いていく。

 ギターソロは女の人でもあのような足置きを
使ってああいう格好で引くのかと面白かった。

 オーケストラと軍隊の類似性について考える。
 どちらも一糸乱れぬ行動を旨とするのであるが、
片方は人を殺すのであり、一方は美に捧げられている。
 いずれにせよ、そもそも一糸乱れぬ行動が
できるという点に、人間のすばらしさも、
恐ろしさもある。
 チンパンジーだったら、そうはいかない。

 終演後、
 たまたまバックステージを通りかかったら、
ほっとした顔の楽団員が、何人かの「出待ち」
のファンと話していた。
 いい光景だった。

 ヘンデルのメサイアでも聞きに行きたい
ものだと思う。
 日本でも、ハレルヤ! コーラスの前に、
みんな起立するのだろうか?
 ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール
でメニューインの指揮でメサイアを聞いた
時には、
 みんなその前に立ち上がって、伸びをして、
まるで野球の7th inning stretchのようだった。

 誰か、日本のメサイア事情に詳しい方、
ご教示ください。

12月 3, 2004 at 08:11 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/12/02

おいしいこと、自然に帰ること

Webマガジン enの連載
茂木健一郎 「おいしさの解剖学」 第9回が
公開されています。

http://www.shiojigyo.com/en/column/index2.cfm

12月 2, 2004 at 08:06 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

美術解剖学 「生の文脈の一回性」

本日(2004年12月2日)

東京芸術大学『美術解剖学』講義 
後期第5回

 生の現場における一回性の文脈について考えます。自らが置かれた文脈の切実さをいかに引き受け、歴史性の中でオリジナルな作品を生み出すことができるか、ということについて議論します。  
15:35 〜 17:00

美術学部 中央棟 第8講義室

12月 2, 2004 at 07:59 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

チンパンジーがもたらした認知的変容

京都大学霊長類研究所二日目。

 思考言語分野の友永雅己さんのご好意で、
授業をする前にチンパンジーの「クロ」(メス)
とその子供の実験を見学させていただいた。

 思考言語分野は、チンパンジーのアイちゃん
の研究で著名な松沢哲郎さんが教授を
され、友永さんは助教授である。

 松沢さんにもご挨拶した。

 進行中の実験内容については、もちろん
ここには書けないけれど、
 いろいろ「メタ・レベル」でおもしろい
ことがあった。

 一つは、チンパンジーの実験は、さまざまな
細かいノウハウの蓄積なのだな、という
ことである。
 脳科学の研究でしばしば使われるマカク猿よりも
知能が高いチンパンジーだが、
 だからこそ実験がかえってやりにくくなる、
ということがある。
 つまりは、そう簡単には言うことを
聞いてはくれないのだ。

 ケージに母と子供が入った時にまっさきに
子供が食べるための果物を置いておくとか、
子供が食べている間に母親に別に果物を
あげるとか、
 母親はスノコの上に座って実験を
するのが好きだとか、
ご褒美の食べ物は、リンゴ、リンゴ、リンゴ、
リンゴ、干しぶどう、とインターバル
であげるとか、
 本当に細かいノウハウが詰まっていた。

 いろいろ考えたけれど、一つ不思議な
ことは、
 なぜ正答率がチャンス・レベルよりも
高く、完全な正答よりは低い、という状態が
チンパンジーの中では続くのか、ということである。
 その時、チンパンジーの脳の中では
何が起きているんだろう。
 シンボリックな思考をする成人の人間の場合は、
チャンス・レベルか、それとも「わかった!」
と100%に近くなるか、いずれかだと
思うのだが。

 いろいろと、考えるきっかけをいただいた。
 友永さん、ありがとうございました。
 
 授業を終わり、正高信男さんに明治村
に連れて行っていただく。
 夏目漱石の旧居が見たかったのである。
 
 『吾輩は猫である』を執筆した二年間
住んでいた家。森鴎外も時期を異にして
住んだが、そっちの方は全く関心がない。

 漱石旧居の縁側には日が差していた


 大変興味深く見たが、
 漱石その人の気配を感じたか、といえば、
そういうことではない。
 先日のワーグナー協会の例会で、バイロイト
に行ってもワーグナーその人の気配はなかった、
という話をしたが、
 明治村も同じことである。
 生の文脈は、その場限りで消える。

 なるほど、こういう間取りだったかとか、
ここが書斎だったかとか、
 もっと知的な回路を通して生まれる感銘が
ある。
 それはそれで悪くない。

 数年前に無理をして手に入れた、
漱石がはがきに描いた絵

http://www.qualia-manifesto.com/soseki.html

は「猫」執筆時とは重ならないようだが、
こちらからは、漱石の生命のゆらめきが伝わって
くる。

 このところスケジュールがタイトで
睡眠不足が続いていたので、
 帰りの新幹線は熟睡。
 
 東京駅で、行き交う人を見ると、なるほど、
皆サルの一種に見える。
 チンパンジーをたくさん見たかららしい。
 フィールドをやると、もっと、人間が
サルの一種だという感覚が強くなるのだろう。
 正高さんが『ケータイを持ったサル』を書いた
感覚が少し判ったような気がした。

12月 2, 2004 at 07:46 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2004/12/01

ケータイを持った正高信男さん

東京駅でカツサンドを買ったが、
本当はお金を払っている時に気が付いた、
シュウマイの方が食べたかった。
 
 研究所内の宿泊施設でこれを書いている。
まだ、食べられなかったシュウマイの
亡霊がそのあたりを漂っているような気がする。

 霊長類研究所にくるのは、はじめてであった。
木で組み立てられたいくつものピラミッドが
あり、その上に猿がたたずんでいる。
 有名なチンパンジーのアイちゃんはどこに
いるんだ、と聞いたら、
 「あそこらへんに佇んでいる中に
いるはずだ」という。

 普段は、その他大勢と一緒にいるらしい。
来訪者に、アイちゃんはどれだ、と聞かれるので、
適当に「あれです」と答えると、皆喜んで
帰っていくのだそうだ。

 授業は、メタ認知について実質的な
議論ができて良かった。
 
 私の提起した問題点は、認識における
「同一性」の保証の機構を考えると、
そもそも「認識=メタ認知」であって、
いわゆる、自分のinternal stateを認識する
という意味での「メタ認知」と本質的な
区別はないのではないか、ということだった。

 赤い円をみたらボタンを押す。
 自信があるからボタンを押す。

という二つのプロセスにおいて、「赤い円」
(いわゆる「外部」にあるもの)
と「自信がある」(いわゆる「内部」状態)
の同一性が成立しているメカニズムは
同じだろう、ということだ。
 
 授業の後に行われたPsychology Seminarにも
出席したが、おもしろかった。 
 霊長類研究、幼児研究の専門家がこれだけ
集まると濃い議論ができる。

 
「ケータイを持ったサル」

ですっかり時の
人になった正高信男さんの研究室の皆と
飲み会へ。
 犬山の夜は暗い。寒い。周囲は静かな
住宅地で、ここならば研究に専念できるだろうね、
と言うと、京都に帰りたいと、私の横を
歩く人は言った。

 飲み会は霊長類研究所に関する様々な
「隠された真実」が明らかになり、
オモシロイことこの上なかったが、
 私のデジカメが捉えた「真実」はこれである。

 愛用のケータイを持ち、にっこり笑う
正高信男さん

 なんと、正高さんご自身が最近写真付き
ケータイを手に入れて、使いこなしているという
ことが明らかになったのである。
 
 12月7日から放送されるNHK人間講座
正高信男 人間性の進化史の
テキストをいただいた。

12月 1, 2004 at 07:44 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)