文脈に抱かれ、自由を夢見ること
青土社の「ユリイカ」2004年12月号
特集 宮崎駿とスタジオジブリ
http://www.seidosha.co.jp/eureka/200412/
に
茂木健一郎 文脈に抱かれ、自由を夢見ること
が掲載されています。
一部抜粋(全文は、「ユリイカ」にてお読み下さい)
しばしば、子供の方が仏性に近い、というような言い方がされる。つまりは、子供の方が、世界の成り立ちの底が抜けていることを、ごく当たり前のこととして知っているということではないか。
幼稚、という言葉はすでに進歩史観の手垢が着いた言葉である。それは、マーケティングにおいて機能する言葉ではあっても、世界について根本的に考える際に役立つ概念ではない。宮崎アニメを生み出した日本の文化的脈絡を、「悪い場所」とか「幼稚力」などという言葉を用いずに記述することに努めることは、昨今の世界情勢と無関係ではあり得ないのではないか。
乱暴な言い方をすれば、世界で一番大人なのは、きっとアングロ・サクソンなのだろう。地位が人をつくる。鶏が先か、卵が先かは知らないが、大人であることは、支配のヒエラルキーの上に立つことによって放っておけば醸成される性質である。ヒエラルキーを握るのに失敗したものが、子供であり続けたとしてもそれは適応というものである。
(中略)もちろん、宮崎駿の作品を夢中になって見ている子供たちは、そんな七面倒くさいことは考えなくて良い。『ハウルの動く城』で、少年のハウルが住む美しい草原を、顔をかがやかせて見つめる子供にとって、アングロ・サクソンや日本の戦後といった文脈が、どんな関係があろう。人並みのほろ苦い世間知からも逃れられず、子供の頃に聞いた不思議な鈴の音も忘れられないでいる中途半端な大人だけが、このような文章を書いていればいいのである。
11月 27, 2004 at 08:57 午前 | Permalink
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