一人称的に、文脈を引き受けること
今は丑三つ時あたり。
この時間まで起きているのではない。
仮眠してさっき起きて、これから朝まで
ずっと仕事である。
今日は、ソニー教育財団の仕事で、埼玉県の
蓮田まで行く。
朝から夜まで、一日仕事である。
どちらかと言えば楽天的で、仕事もいろいろ
引き受けてしまう私だが、今週だけは懲りた。
あと二つ。これを終わらせて、やっと日常に
戻ることができる。
仕事の多重債務者も結構たいへんだと身に染みた。
相変わらず文脈のことを考えている。
ここのところ、95年から97年のケンブリッジ
時代のことをよく思い出すが、
あの頃の文脈が今と全く違うから、
思い出して精神がバランスをとろうとしている
のだろう。
人は、自分が置かれた文脈の中で精一杯
生きる。
それ以外に人生の歓びはないし、しかし
だからこそ凄まじき世の中である。
養老孟司さんにあるお仕事を依頼しなければ
ならず、大変心苦しかったのだけど、
幸いお受けいただくことができた。
養老さんが今引き受けている文脈の大変さ
を考えると、申し訳ないと
思う。
ケンブリッジのアカデミック(学者)が
引き受けている文脈は、静かなものである。
しかし静かな中にも大変さはあって、
たとえば、くだらなくも切実に、
金があまりない。
もともとイギリスの学者というのは、資産の
ある貴族がやるものだったのかもしれないが、
サッチャー以来、本当にひどくなった。
日本の給料をもらいながらケンブリッジで
生活していたら、かなりリッチである。
しかし、日本から来ている英文学や
なにやらの先生たちを、私はあまり好きでは
なかった。
今自分が引き受けたいと思っている
文脈は、静かに、意識に関する「種の起源」
や「プリンキピア」に相当する本を書く
ことにチャレンジする時間を持つ、という
ことである。
誰にも連絡せず、世間から放っておいて
もらって、かってにやらせてもらう。
まだ期が熟しているという感じはしないが、
人生の中で絶対にやりたい。
文脈というのは結んで解けるもので、
1年もあれば実は十分である。
ただ、問題についてはずっと考え
続けていなければならない。
勝負する時は、ケンブリッジに戻るか。
その時は、いろいろなものよ、サヨウナラ。
このような、一人称的に自分の生として
引き受ける文脈と、
村上隆がマーケティングとして言っている
オタクだのSuperFlatだのが別ものであることは
言うまでもない。
だいたい、本物のオタクには、一人称的に
引き受けている切実な文脈があったろう。
ムラカミのは、文脈僭称である。
さて、仕事に戻ることにいたします。
仕事多重債務危機だった今週、
SeinfeldのDVDには
気分転換に随分助けてもらった。
Get out of here! (いい加減にしろよ!
冗談言うなよ)
みたいなAmerican Slangも勉強しました。
ありがとう、Jerry Seinfeld.
11月 26, 2004 at 02:52 午前 | Permalink
この記事へのコメントは終了しました。
コメント