« 茂木健一郎×島田雅彦対談「脳内現象と快楽」 | トップページ | 美術解剖学、本日休講 »

2004/11/25

最後の床屋

 先週末、11月14日の日記で書いた八百屋
さんに行って、
 大玉の梨をふたたび買ったら、おばさんが
ちゃんと覚えていて、
 「おいしかった?」
と聞いてくれた。

 さすがである。どの客が何を買ったか、
覚えている。
 世界がコンビニだけになってしまったら、
そのような接点がない機能だけの世界になる。
 それで果たしていいのか?

 自分で髪の毛を切ってしまった瞬間のことは
よく覚えている。
 95年の歳末、ケンブリッジの下宿で
すぱっと切ってしまった。
 それ以来、床屋には行っていない。

 あっ、切りたい、と思ったら、
シャワーを浴びる前に風呂場でばさばさ切って
しまう。
 大分慣れてきて、3分で作業終了である。
 気が楽になったが、床屋さんとの会話が
懐かしい、という気持ちもほんの少しある。
 
 理化学研究所時代に行っていた床屋、
すなわち、今のところ我が生涯の最後の床屋は、
池田さんというおじさんで、面白い
話をいろいろしてくれた。
 今でも、もっと聞きたかったと思うのは、
趣味で養蜂をやっていたことで、
 毎回少しづつ蜂の秘密を聞き出していたら、
イギリスに留学することになってしまった。

 帰国して、しばらくして理研から和光市駅
に向かう道にあるそのビルの前を通ったら、
 バーバー池田はいつの間にかなくなっていた。
 引退するにはまだ早い年だったから、
きっとどこかに移転したのだろう。

 今でも、床屋だけは客と店の人の間に
機能だけではないコンタクトがある場所では
ないかと想像するが、何しろ最近
行っていないので判らない。
 こんなことを書くと、世間の人が
「そうか、床屋に行かなくてもいいんだ」
と思って、商売妨害になるのではないかとも
懸念するが、 
 冷静になって考えてみると、自分で
切ってしまえ、もじゃもじゃの髪型で
いいや、と割り切れる変人は、
 世にそれほどいるわけではあるまい。

 ケンブリッジで最初にハサミを
入れたとき、随分悪いことをしているような
罪悪感があったものである。

 やってもやっても仕事の山が
減らない気がする。じっと手を見る。

11月 25, 2004 at 05:00 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 最後の床屋:

コメント

床屋、ではないのですが、私のよく知っている美容師は15年前、3年前、現在、のヘアスタイル雑誌を出してきて比べて見せたり(時々エジプトのパピルスの絵を出してきたり)、マイクロスコープで毛穴を見せられたりします。
私はキレイにして欲しいだけなのだけど、どこをどのように、と言われると~機能的にさっさと出荷して欲しい時と「特別に扱って」欲しい時と、かと言って他人の評価は気になるし、美しくなるのは大変です(笑)。こちらにある音声ファイルなどなどで美についてヒントをいただいて考えさせられております。一礼。
↑かくいう私も美容師なのですが、こちらも相手がいるうえで考えることと感じることと動作を同時にしないといけないので大変かもしれません。私も出来るなら自分で自分をカットしたいです。

投稿: jacuzzi | 2004/11/26 1:36:59

私がよく行く床屋は、昔住んでいたマンションのそばにあるところで、今の自宅からはクルマで30分くらいの距離です。床屋は地域コミュニティのハブになっているようなところがあって、そこでは「○○さん(私にとっては昔の知り合いになります)が△△したらしいっすよ」みたいな話しが次々と繰り出されて、とても楽しく、また懐かしい気持ちになります。

決してウデがいい床屋だとは思えないのですが(何しろ客のオーダーをまったく無視して自分の好きなようにカットしてしまう)、それでもそこに行くのは、やはり、彼との会話が楽しいからでしょうね。

投稿: takeda | 2004/11/25 10:05:12

この記事へのコメントは終了しました。