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2004/11/15

子供のままでいよう。

今月やらなくてはいけない仕事を数え上げると、
絶対にやるのは不可能だと思う。
 そうは言ってもどうすることもできないので、
ただひたすら「ロジック」を働かせて、
目の前のことを淡々とこなし続けている。

 そんな中、歩きながら難しいことを
考えている時間が一番幸せだ。

 私の使っているPowerBookの右手前底面の
ぽっちがとれていて、そのまま使うと
かくんとなる感じになる。
 名刺3枚くらいを挟むと、ちょうどいい。

 名刺3枚分の違和感。微妙なニュアンスだが、
同じことが思考でもあるように思う。
 違和感は大切で、それが、創造をすべり
こませるべき隙間を教えてくれる。

 クオリアの問題を考え続けているのも、
そこにはっきりとした違和感があるからで、
それが名刺3枚分なのか、それとも段ボール
10枚分なのか、よくは判らないが、
 我々の今の公式的世界観と、意識があるという
事実の間に
 ギャップがあることは事実だ。

 思うに、子供のころは、心の中の微妙な
ニュアンスの差に導かれて
生きていたのではなかったか。
 まだ理屈など発達していなかったから、
 ちょっとした心の中の動きに、自分の世界
をゆだねていたように思う。

 砂場で手で砂を集めて山をつくる時の、
手の裏のなんともいえない感触。
 ちぎった葉っぱの、にゅるにゅるとした
触感。
 知らないお兄さんとしゃべるときの、
ちょっと鼻がつんとするような感じ。
 夕暮れになって、なんとなく寂しい思いが
する中、なおも遊ぶときの、名残惜しい感じ。

 最近、どうも、あのような感覚を理屈経由
ではなしに持ち続けることが創造性の秘密だと
いう気がしてならない。
 創造的な人というのは、つまり子供っぽい
人のことではないか。
 創造的であろうとすれば、ピーターパンで
いるしかないんじゃないか。

 先日、
 『ユリイカ』12月号の宮崎駿特集の原稿を
書いているときも、そんなことばかり気になって、
 認知科学の「発達」という概念はひょっとしたら
ダメなんじゃないかと思っていた。

 昨日読了した米本昌平さんの「独学の時代」
に書かれていたドリーシュの生気論や、
チェンバースの理神論には、われわれの
世界観が、物理主義、進化論で塗りつぶされる
前の思考の香りのようなものがあって、
 パラダイム・シフトをするならこのあたりだな、
という名刺何枚分かの臭いがする。

 子供から大人になることが、発達などでは
なく、堕落なのではないか、というアンチテーゼを、
しばらく胸の中に揺り動かしてみていようと思う。

 明け方、自分のケンブリッジ時代のボスの
ホラス・バーローが目の前に出てきて、
 学部長の候補について、
 Yes, he could be the man.
No. he could not do it. It is not that kind of
task.
 などと論評する生々しい夢を見る。

 近頃でこそ、鮮明な夢をみるとびっくりするが、
 子供の頃は、全てのマテリアルが夢でできて
いたような気がする。
 
 サンタクロースがいるのかいないのか、それが
判然としなかった、あのトワイライトの感覚
だけでも、決して忘れずにいようと思う。

11月 15, 2004 at 05:48 午前 |

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