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2004/11/13

合理を貫き、官能を生きること

11月10日発売
新潮社 小林秀雄全作品 第26集
信じることと知ること

http://www.shinchosha.co.jp/zenshu/kobayashi_zensaku.html

に、巻末解説「合理を貫き、官能を生きること」を
寄稿させていただきました。

 一部引用(全文は、上記書籍をご参照ください)

 近代を乗り越えるのに、近代を否定する必要はない。むしろ、近代の中に飛び込み、近代の論理を突き詰めていった時に、近代を超えるものが垣間見えてくる。
 その意味において、小林は、デカルトの正統な継承者だったと私は考える。印象批評などという曖昧模糊としたヴェールに包んでしまっては駄目だ。小林の一見感性的な物言いの背後にある、きわめて緻密な論理性こそを見るべきなのではないか。
 『信じることと知ること』に引用された、白い鹿の挿話が、論理を経由した後に生まれる何か未知なるものの気配を示唆して見事である。
 猟人が、白い鹿と逢う。白鹿は神である、という言い伝えがあるので、もし傷つけて殺し損なえば、必ず祟りがあるだろうと思うが、名誉を重んじる猟人なので、あえて撃つ。手応えがあるのに、何故か鹿は動かない。ひどく胸騒ぎがして、普段から魔除けとして身につけていた黄金の弾で撃つけれども、それでも鹿は動かない。
 あまりにも怪しいので、近くに寄って見ると、よく鹿の形に似た白い石だった。
 近代の科学主義者は、ここまで読んで、それ見たことか、単なる錯覚だったのさ、と嘯くだろう。しかし、この猟人は違う。数十年の間、山中に暮らしてきた者が、石と鹿を見誤るはずがない。これこそ、まさしく魔障の仕業であると、この時ばかりは猟を止めたいと思った、というのである。
 白い鹿だと思ったものが、単なる白い石だった。そのような近代合理主義の説明がついた後に、尚も残る何か。いや、合理的な説明が見事につくがゆえに、益々濃く、深く忍び寄ってくるなにものかの消息。
 それこそが、小林秀雄が『信じることと知ること』をはじめとする講演の中で追い求めていたものであり、小林の生涯の全仕事を貫く、誠に重いモティーフだったのである。
(中略)
 小林秀雄は遙かにある鬼籍の人になってしまったが、小林秀雄の魂は、彼の残した文章を読み、講演を聴く時によみがえってくる。

 例へば、諸君は、死んだおばあさんを、なつかしく思ひ出すことがあるでせう。その時、諸君の心に、おばあさんの魂は何処からか、諸君のところにやって来るではないか。これは、昔の人がしかと体験していた事です。それは生活の苦労と同じくらい彼等には平凡なことで、又同じように、真実なことだった。(『信じることと知ること』)

 今日の私たちも、日々、生活の苦労をしている。それと同じくらい平凡で、真実なこととして、小林の残したメッセージをなつかしく思ひ出したらどうか。批評の神様などと、神棚に上げておくのはもったいない。合理的であり、なおかつ官能的であるということはどういうことかと考え、自ら実践した偉大な先達としての小林秀雄の魂を、日々の生活の苦労の中で、折りにふれ呼び返したらどうか。
 インターネットでは、白い石はいくら検索しても白い石のままである。時には、白い石を白鹿と見間違える。そんなことが起こらなくなった人生に、何の生きる甲斐があろう。
 小林秀雄の文章は、白い石を白鹿に変える魔法を私たちに教えてくれるのである。

11月 13, 2004 at 02:42 午後 |

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コメント

どこに何を置いてあるか自分でもぜんぶは把握していませんが、ファイル名が同じやつは同じだと思います。

投稿: | 2004/11/14 6:55:17

何となく興味を持って、音声ファイルを聞かせて頂いているのですが、2003年の東大と芸大のファイルが二カ所にあるのですが、これは全く同じ内容のものと考えていいんですよね。

投稿: | 2004/11/13 19:56:38

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