アートの最良の現場
ここのところ、例の文脈主義vsクオリア原理
主義の問題から少しずれた問題が気になっていて、
その問題のまわりには、「ロゴス」だとか、
「論理」だとか、「内面」とかがある。
一つだけはっきりしているのは、
アートも美も、その実体は流通しないものとして
「私」の内側にあるのだ、ということだ。
目を閉じて自分の内側にあるものに注意を
向けるとき、そこになにやら心躍らせる気配として
あるもの。
それが本当の美であり、アートであり、
あえて言えば生命の躍動だ。
その、内なるアートは、ぶるぶると震えながら
形を変え、いつも何やら変貌の気配を漂わせて
いる。
それに対して、長谷川等伯の「松林図」しかり、
絵だけじゃなくて、モーツァルトの音楽だって
そうだけど、定まった形をとって流通している
ものは、どうも、内面にあるぶるぶるとしたアート
の原型質にピンをぐさっと刺して標本にした
ような気配を漂わせている。
オルセー美術館に行くといつも同じモネがある。
これはまさに標本である。
最近内なるロゴスが気になっているのも、
それが本来のアートの現場であるという
確信が強まっているからだ。
もし、ある人が、世界の中で生きているうちに、
動き、はたらきかけ、感じ、見て、傷つき、揺れ、
吸い込み、吐き出し、よろめき、走り、立ち止まり、
そして内側にあるロゴスの姿をつくることが
できたとしたら、それ以上の美の達成
はないのではないか。
もちろん、それは「はい、これが作品です」
と人に見せられるものではない。
しかし、それでいいんじゃないかな。
他の誰にもわからなくても、その人の内面に
確かにある美しいものの原形質がある。
それが最良の達成なのではないか。
それに、もしそうなったなら、必ず
外にその残り香が放出されて、
桃李いわざれども、下自ずから蹊(こみち)を成すはずだ。
ソクラテスも、仏陀も、孔子も、古来
聖人と言われてきた人たちは、その内なる
ロゴスにこそ最良のアートの達成があったのだと
思う。
そんなことを思いながらも、身体だけは
忙しく動いている。
重要会議があったので、珍しく白いシャツを
着た。
学生たちと、北米神経科学会を振り返って
いろいろ議論した。
ある雑誌の取材を受けて、一時間話した。
研究所に行きつつ、久しぶりにJames Joyce
のDublinersをひもとく。
第一話のThe Sistersからしびれる。
老人が死んだ、という話が書いてあって、
最後の一ページで、彼が教会で間違って
chaliceを壊してから、様子がおかしくなった、
一人で懺悔室に閉じこもり、静かに自分に向かって
笑っているところが目撃されていた、
本当はあの少年のせいだったのに、などというような
ことがさらりと書いてある。
痛ましくも恐ろしい。chaliceは、人生の何の
象徴か。
Joyceがこれを書いたのは20代前半で、
出版にはそれから10年かかった。
しかし、教会にあるchaliceはどんな
形をしているのか、読みながらも曖昧模糊として
変貌し、どうもよく判らない。
私の人生にはchaliceの標本が欠けているらしい。
11月 2, 2004 at 06:22 午前 | Permalink
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コメント
あ、Holy Grail のことなんですね、chaliceって。
ふっふ。インディ・ジョーンズの最後の聖戦にいっぱい
出てきたやつですな。
(辞書引く前にイメージ・ググりをやりました)
キリストはcarpenterだから、木製のはず!ってやつ。:-)
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「どうもよく判らない」「標本が欠けているらしい」という
レトリックの理解はひとまずおいておきましての
チャチャでございます。失礼をば。:-)
投稿: Kimball | 2004/11/02 17:08:13