アートにロゴスを。
椿昇さんから、パレスチナに行ってきて
報告会をやるから、来ませんかというメールを
いただいた。
会場はにしすがも創造舎。西巣鴨駅の近く
で、小学校の校舎を改造してある。
5月に松岡正剛さんの花・コムでお会いして
椿さんのことはすっかり信用していたので、
行きます! と出かけていった。
直前まで、新潮社から今度出る「四色問題」
のゲラを見ていた。私が訳の
最終的確認をやることに
なっている。西巣鴨駅に着く直前に見終わって、
北本壮さんがゲラを取りにきた。
なんだか綱渡りの生活。
さて、にしすがも創造舎の会だけども、
タイトルが椿さんらしく、
「自己責任でパレスチナに行こう!」
である。
生温い世間にがーんと一発のタイトル。
椿さん曰く「アーティストというのは、
何かへんな雰囲気になったな、と思ったら、
素早く動かなくてはならない。「自己責任」
という言葉が妙な形で使われそうになったら、
それを乾いた笑いに転化しておくことが重要
なんだ」
また曰く「アンチとか、政治とか、そういう
ものに絡めとられているうちは本当の芸術
表現はできない。人間の本質に降りて
いくことができた時、初めて芸術になる」
一々同意である。
パレスチナの人たちのジョークのセンスは
ぴか一だという。
過酷な現実を乾いた笑いで吹き飛ばす。
切ない。
椿さんが今回注目したのは、イスラエル政府が
張り巡らした「壁」に、あたかも向こうの景色が
透けて見えるように描かれた絵。
椿さんは、このアパルトヘイトの壁を巡らして、
パレスチナ人はもちろん傷ついているけれども、
イスラエル人も同時に傷ついているんじゃ
ないか、と言う。
どうもそのあたりに、人間の本性にかかわる
問題がありそうだと。
そのあたりから、パレスチナの人たちとの
共同プロジェクトを進めるのだそうである。
壁の上に見える風景に合わせて、もし壁がなかったら
こういうように見えた、という景色を描いた絵を
前に語る椿昇さん
会場の
人たちが、パレスチナがどうの、アラファトがどうの、
とあの特定の地域のことばかりを言い立てていたのに
対して、椿さんが、「別にパレスチナじゃなくても
いいんだ。重要なのは他者に対する関心を抱く
ことだ」
と言ったのにも激しく同意。
どうも、個物としての個物にとらわれる
人が多すぎる。なぜ、普遍としての個物をみないか。
目の前のサンドウィッチは、個物であると同時に
普遍だろう。
最後に自己紹介タイムになって、私は
掠れ声しかでない状況だったのだが、
それまでの流れでマグマがたまっていたのだろう、
「なんでアートに群がってくる若者たちは、
これってアートだよね、みたいなキモチ
悪い雰囲気を醸し出しているのか、なぜ、
日本のアート業界には、ロゴスがないのか」
みたいなことをぶちまけてしまった。
椿さんはそれに対して聖書や論語などを
引用して見事に反応してくださったのだが、
会場にいた学者さん(漢字をやっている人らしい)
が、「ロゴスを追求するかどうかはその人の
選択でしょう」などといかにも大学の講壇学者が
いいそうなくだらないことを言ったので、
オレは切れて普段だったら機関銃のようにまくしたてる
ところだったが、何しろ声が出ない。
ぱっ、ぱっ、と短いセンテンスを言うことで
我慢したが、オレが言いたかったのは、
大学でやるような「定まった」学問には
ロゴスがあって、アートにはロゴスがない、
というようなくだらない話じゃなかった。
椿さんが、「ロゴスを突き詰めていった後、
これ以上どうしょうもない、という時にアートが
降りてくる」と言ったのだけども、
その「これ以上どうしょうもない」後に
立ち現れる精神運動も含めて、広い意味での
ロゴスなのである。
もっとも感性的に見えるアートの中に、緻密な
ロゴスを見る。これ以外にこれからのアートが
進むべき道があるだろうか。
そうか、オレは芸大の授業で、強靭なロゴスを
持ったアーティスト養成ギブスになればいいのだと、
自分のミッションを自覚。
声が出ないよ〜、とふらふらしていたら、
本駒込で、「木蝶」という奇妙な店&Cafeを発見。
おそらく東京でも奇妙さ何本指に入る
のではないか。
こういうのをセレンディピティと言う。
これからは一つ
セレンディピティを鍛えよう、とノドイタ人間が
思う朝であった。
11月 7, 2004 at 08:17 午前 | Permalink
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