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2004/11/30

京都大学霊長類研究所集中講義レジュメ(予定)

2004.11.30〜 2004.12.1.

茂木健一郎

Part I 2004.11.30. 13:30〜16:00、

クオリアと心脳問題
Visual Awareness
Critical analysis of Crick & Koch model
Noise, Contingency
ミラーニューロンからcontingency neuronへ
Reclaiming Homunculus
Active Vision
視聴覚統合

Part II 2004.12.1 10:00〜12:00 

ボディ・イメージ
microslips
Volume perception
メタ認知 
言語

Part III 2004.12.1 13:00〜16:00

感情
神経経済学
Robust Contingency Handling
Contingencyのperceptionは、Agencyに依存する
他者とのコミュニケーション
Spontaneous neural activities
dynamical adaptabilityとcognitive stabilityの両立

11月 30, 2004 at 06:44 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

今日の反省

 アメリカ占領下での日本の戦後復興を扱った
John Dowerの名著Embracing Defeatの
翻訳
「敗北を抱きしめて」
で著名な、歴史学者の三浦陽一さんが研究所に
いらっしゃる。

 とは言っても、イラクの占領政策について
議論するためではない。三浦さんが考案された
という「画期的な英語取得法」について
お話いただき、議論するためである。

 現在
 開発中、ということで内容について詳細を
記すのはやめるけれども、
 手の動きをうまく取り入れ、ボディ・イメージ
と言語処理プロセスのカップリングを目指した
もののようであった。

 御著書から想像していた三浦さんと、
現実の三浦さんのギャップに驚く。
 学生たちも、ペンギンのような身振りを
しながら「アーウーイー!」と英語の発音を
実演して見せる三浦さんに衝撃と感銘を
受けていた。

「ミウラ・メソッド」をレクチャーする
三浦陽一さん

 動画は、クオリア日記Archives

http://www.qualiadiary.com/


のAwesome things that came my way
のセクションにあります。

 ちょうど議論が始まったところで、
日経WOMANの柿本礼子さんが取材に
いらして、私は中座。

 一ヶ月で
 脳を変えるにはどうすればよいか、
という取材趣旨ではあったが、
 取材後半は、メディア状況についての
脱線トークの様相に。
 「わかりやすく単純なものだけが売れる」
という状況を打破して、いかに知に対する
リスペクトを回復させれば良いか。

 「取材のおみやげ」に渋谷、Deacadence du
Chocolatのチョコレートをいただく。
 クレヨンのように、カカオが35%から80%
までのチョコレートが並んでいる。
 35%と40%を食べながらこの日記を書く。

 三浦陽一さんとアシスタントの上野さん、
それに研究室の面々で五反田の「あさり」へ。
 
 ミウラ・メソッドのトライアルで異彩を放って
いた関根崇泰が目をつけられ、お前、教育
番組でミウラ・メソッドの実演をすれば
いいじゃん、などといじられる。
 しかし、あのお兄さんの目つきがコワイ、
と子供が泣き出し視聴者からクレームが
くるのではないかという冷静な意見も。

 三浦さんに途中で失礼して、神楽坂の
「竹兆」へ。
新潮社の北本壮さん、それに竹内薫夫妻との
会食。

 北本さんと、来年に向けて、某極秘
プロジェクトを立ち上げたのであった。

 束芋さんから、先日の京都芸術造形大学
レクチャーに対するお礼状をいただく。
 なんという名前か判らないけど、
折りたたまれた和紙のようなものに
さらさらときれいな文字が書かれている。

 今日の反省。消える魔球は水に弱い。
茂木の字は汚い。
 束芋さんのお手紙は、それ自体が
アート作品のようであった。
 情報を抽象存在としてとらえるのではなく、
固有の実体をもったものとして
とらえ、fine tuneすることの必要性を
痛感する。

 今日、明日と二日間、京都大学
霊長類研究所で集中講義。犬山に行くのは
久しぶりである。

 今、80%も食べてしまった。ほろ苦い。

11月 30, 2004 at 06:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/29

Lecture Records

2004.11.28. 六本木ヒルズ Artilligent School 講演

「クオリアをデザインする」

ITの成長の限界、クオリアのプレミアム、脳の感情のシステム、記憶と創造性、 文學界連載、セレンディピティ、質疑応答「セレンディピティとは何か」、「私のセレンディピティ」

音声ファイル (mp3, 25.1MB、110分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「クオリアと経済」のセクションにあります。

11月 29, 2004 at 07:48 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

セレンディピティの成り立ち

セレンディピティという言葉の起源について


六本木ヒルズのArtilligent Schoolで、
「クオリアをデザインする」というタイトルで
講演。
 聴衆の多くが、静岡大学の小二田誠二先生の
学生さんたちだった。

 文学専攻の人が多い、と聞いて、
急遽「文學界」の今までの連載と取り上げた
作品の一覧表を作成。
 坊ちゃんの「赤シャツ」問題と、最新の
小林秀雄と坂口安吾の関係から「愛することに
よって弱さが顕れる」ことを論ずる回に
ついて詳しく説明した。

文學界
「脳のなかの文学」  連載 (2004年4月号〜)
第1回 「世界を引き受けるために」  ペンギン、夏目漱石
第2回 「有限の肉体に可能性として宿る無限」 綿矢りさ 「蹴りたい背中」
第3回 「日常の由来するところ」 坊ちゃん 「赤シャツ」問題 
第4回 「クオリア原理主義」 現代アートにおける文脈主義
第5回 「閉じた空間の中で豊饒の海を夢見て」三島由紀夫 「豊饒の海」論
第6回 「見られることの喜びと哀しみ」2チャンネル、タレント論
第7回 「「スカ」の現代を抱きしめて」 舞城王太郎 「好き好き大好き超愛している」
第8回 「観念のリアリティに殉じて」村上春樹の小説
第9回 「感じるものにとっては、悲劇として」イギリスBBCのコメディThe Office
第10回 「愛することによって、弱さが顕れるとしても」小林秀雄、坂口安吾、

最後は、Horace Walpoleが「セレンディピティ」
(偶然幸運に出会う能力)という言葉を発案した
手紙を紹介、セレンディピティが高い人と
低い人はどこが違うのか、自分の人生の
中で最大のセレンディピティは何で
あったかと質問した。

 それに対する学生たちの答えが面白かった。
 mp3の最後の20分くらいにある。

 私が一応用意していた「答え」は、
偶然の出会いは誰にでもあるけれども、
その時にその出会いに「気づいて」、
いろいろ考え、吸収して自分のものに
することができるか、つまりは
「偶然」を「必然」にすることが
できるか、というものだった。
  
 脳は外界といろいろやりとりしながら
変化して行くオープン・システムである。
「セレンディピティ」はopen dynamical
systemの脳の本質に関わる能力だ、ということ
になる。
 
 そうしたら、ある学生が、「自分がある
能力を持っていることに気が付いたこと」
がセレンディピティだと答えた。 
 これは大変面白かった。
 普通、外部性はトポロジカルに脳の
「外」から来ると思うけれど、脳の「内」
から来る偶然的要素もあるということだ。
 そこにメタ認知が絡んでくる。

 懇親会で小二田先生と話す。
 小二田さんは、江戸時代の「大岡政談」
などの文学がご専門。
 「日本近世文学会」というのがあり、要するに
江戸時代の文学を研究するらしい。

 小二田さんが、歴史認識について、
あるイベントが起こった時に、人々が
それに注目して、そこに至る物語が
時間を逆行してつくられるのではないか、
という仮説を言われる。

 ちょうど、うとうとしている時に、目覚まし
が鳴った時の意識の中の時間の知覚問題として
最近考えていたことに重なって、興味深かった。

 六本木周辺は実はそれほど超高層ビルはなく、
ヒルズから下を見下ろすと、まるでトンビに
なったような気分であった。

11月 29, 2004 at 07:31 午前 | | コメント (2) | トラックバック (3)

2004/11/28

テレビゲームは本当に脳に悪いのか

明日(11月29日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年12月12日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第31回

テレビゲームは本当に脳に悪いのか

が掲載されています。

 先進工業諸国で平均IQが上昇していく「フリン効果」や、テレビゲームを脳の情報処理能力の向上に利用しようとするアメリカの研究、「ゲーマーとしての養老孟司」などの話題を紹介しています

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

11月 28, 2004 at 08:54 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

Lecture Records

2004.11.27.
日本ワーグナー協会例会講演
「ワーグナー、その可能性の中心」

音声ファイル1 ワーグナーにおける仮想(mp3. 11.6MB、50分)、
音声ファイル2 ワーグナーと宗教的体験(mp3, 4.1MB、18分)、
音声ファイル3 ワーグナーの反現代ー文脈主義を超えて+質疑応答 (mp3, 15.MB 76分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「芸術」のセクションにあります。

11月 28, 2004 at 08:30 午前 | | コメント (0) | トラックバック (3)

ワーグナーと芸術の革新

ワーグナーを最初に聴いたのは高校生の
時だったが、
 大変な影響を受けた。

 大学に入ると、しばしばワーグナーを聴きに
行って、その度に
 今は東京工業大学で独文学をされている
山崎太郎さんと会場で顔を合わせた。

 その山崎さんに誘われてワーグナー協会の
例会で喋った。
 考えてみると、ワーグナーという男は、
今私が考えている芸術の革新の問題においても
鍵になると思った。
 
 私が抱えている問題とは、たとえば矮小化
して言えば、、
「芸術新潮」とか「美術手帖」を定期購読していても、
なぜか読む気にならないのはなぜか、という
問題である。
 つまり、そこに蓄積して深化していく
フィロソフィーがないからだな、と思った。

 人間とはこうあるべきだとか、こうありたい
というフィロソフィーがない。
 だから、出来損ないのカタログみたいな
ものになってしまう。
 結果としてつまらない。
 
 部分的には、ちょっと気の利いたことを言って
みるものの、実は単なる部分美のカタログに
過ぎない。
 これって、今のアート業界の本質的欠陥じゃ
ないのか。

 ワーグナーには、いろいろくだらない文脈が
ついているけれども、 
 そのような文脈を取り払った時に
見えてくるのは、
 まさに、人間の魂の幸福の問題を真摯に
考えた男の肖像である。
 
 たとえば、今回の例会で取り上げた
「パルジファル」一つにしても、
 たいへんな魂の問題が扱われている。

 形骸化した宗教団体において、形式としての
儀式が行われていることの恐ろしさ、
 その中で、真の魂の悩みを抱えている男が
いても、みな共感も反省もしない。
 
 何も知らない愚か者がそこにやってきて、
全てを目撃するが、すぐには何を自分が
体験したのかわからない。
 その意味がわかったのは、
聖杯につかえる男の苦しみが何に由来しているのか
を自ら体験した時であった。

 結局、魂の苦しみは、それをもたらす
原因となったものによってしか癒されない、
 と聖槍をとりかえす。

 現代の認知科学の視点から見てもアクチュアルな
問題が扱われているし、
 似たようなラジカルな目で、
 グーグルやスパムや携帯にまみれた現代を
見通すことは必ず可能なはずだ。

 現代では、ワーグナーくらいの魂の深みに
降りていっているのは、マリーナ・アブラモヴィッチ
くらいか。

 ちょっと気の利いた文脈主義や、政治的
コメントといったスパイス付きの
アートだけじゃ、浮かばれないよ。

11月 28, 2004 at 08:29 午前 | | コメント (0) | トラックバック (3)

2004/11/27

文脈に抱かれ、自由を夢見ること

青土社の「ユリイカ」2004年12月号
特集 宮崎駿とスタジオジブリ

http://www.seidosha.co.jp/eureka/200412/

茂木健一郎 文脈に抱かれ、自由を夢見ること

が掲載されています。

一部抜粋(全文は、「ユリイカ」にてお読み下さい)

 しばしば、子供の方が仏性に近い、というような言い方がされる。つまりは、子供の方が、世界の成り立ちの底が抜けていることを、ごく当たり前のこととして知っているということではないか。
 幼稚、という言葉はすでに進歩史観の手垢が着いた言葉である。それは、マーケティングにおいて機能する言葉ではあっても、世界について根本的に考える際に役立つ概念ではない。宮崎アニメを生み出した日本の文化的脈絡を、「悪い場所」とか「幼稚力」などという言葉を用いずに記述することに努めることは、昨今の世界情勢と無関係ではあり得ないのではないか。 
 乱暴な言い方をすれば、世界で一番大人なのは、きっとアングロ・サクソンなのだろう。地位が人をつくる。鶏が先か、卵が先かは知らないが、大人であることは、支配のヒエラルキーの上に立つことによって放っておけば醸成される性質である。ヒエラルキーを握るのに失敗したものが、子供であり続けたとしてもそれは適応というものである。
 (中略)もちろん、宮崎駿の作品を夢中になって見ている子供たちは、そんな七面倒くさいことは考えなくて良い。『ハウルの動く城』で、少年のハウルが住む美しい草原を、顔をかがやかせて見つめる子供にとって、アングロ・サクソンや日本の戦後といった文脈が、どんな関係があろう。人並みのほろ苦い世間知からも逃れられず、子供の頃に聞いた不思議な鈴の音も忘れられないでいる中途半端な大人だけが、このような文章を書いていればいいのである。

11月 27, 2004 at 08:57 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Lecture Records

2004年11月27日 
第3回ソニー科学教育研究会全国大会
埼玉県蓮田市蓮田南中学校講演
「心と脳の不思議」

科学の醍醐味とは? アインシュタイン、脳のしくみ。コンピュータと脳の違い、チューリング、感情、ドーパミン、神経経済学、安全基地、他者との関係、養老孟司はゲーマー、ゲーム脳、質疑応答

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「サイエンス」のセクションにあります。

11月 27, 2004 at 07:28 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

故郷で出会った人々

故郷に帰るというのは、妙な気分である。
 ソニー科学教育研究会全国大会
で講演するため、
 蓮田南中学校に行った。
 蓮田というのは育った春日部のとなりで、
森がたくさんあったから、よく自転車に乗って
蝶を捕りにいった。

 中学校1年生の時の担任の先生は
石塚先生だった。
 南米に何年か留学されていて、サッカーが
得意でよくボールを二つ使ったゲームを
やらせてくださった。
 その石塚先生が今は校長先生になってご健在
と聞いて、驚いた。
 驚いているうちに石塚先生本人が
やって来られた。

 「ケンイチロウは、ほんと勉強しなかったよなあ。
なんで勉強しないのに一番なんだって、みんな
で不思議がってたんだよ。それが、こんなに
立派になって」
 と世辞を言われ、なんだか照れくさい。
 
 石塚先生が担任してくださった中学一年の
時というのは、私の「道化時代」で、ふざけて
冗談ばかり言っていた。
 今でもその名残はあるけれども、
あの頃は、全身全霊コメディアンをやっていた。
 おそらくは、思春期の入り口で、自分の自我を
守り、確立するための通過儀礼だったんだと
思う。
 特に、女の子とまともに喋ることができず、
まるで吉本のお笑い芸人のようだった。

 17年ぶりの再会! 石塚先生と、蓮田南中学校にて

 そのあとも、いろいろ昔の先生の消息が。
 目を回しているうちに、自分の講演の番になった。

 両親の家は、春日部高校からすぐのところに
あった。
 地元の人は、みな、春日部高校を
「カスコー」と呼ぶ。

 懇親会で、カスコーで野球をやっていたという
大関健道さんと、「いやあ、子供のときは、
よくグラウンドに忍び込んで、転がっている
硬球を持ってきちゃったりしてたんですよ」
などと喋っているうちに、
 昔カスコーに蜘蛛の凄い人がいたことを
思い出した。
 私は学生科学展でずっと蝶のことをやって
いたけれども、そのすごい人は蜘蛛のことを
やっていて、私よりちょっと年が上だった。
 
 カスコーの文化祭の度に、科学部に行って、
「おお、スゲー!」と感動していたんですよ、
と大関さんに言っていたら、なんと本人が
歩いてやってきた。
鈴木勝浩さんである。
 クモの研究で、総理大臣賞までとった人である。

 鈴木さんが研究していたクモは、ハエトリクモの
ような狩りをするクモで、
 ちょうど私はこのところクモに目覚めていたので
(だって、巣もつくらないでそこらへん
うろうろしていて、パッと捕まえちゃうんだから、
すげーやつらだ)、いろいろ聞いてしまった。

 昨日の大会で、
 水素燃料電池についてオモシロイ授業を
されていた
 蓮田南中学校の小森栄治さんをはじめ、今理科教育は
すごいことになっていて、
 科学をタレントが絡んでふざけるための
ネタとしてしか使わない民放の堕落番組や、
なんちゃってアーティストを気取る若者たちの
跋扈によって科学離れとか言われているけど、
科学の大逆襲は実は近いと見た。

 だって、人間は結局快楽原理で動くからねえ。
見た目ばかり気にしていて、内面にロゴスが
ないやつらなんて、ぜんぜんセクシーじゃねえじゃん。
 ロゴス・レスの人たちの化けの皮がはがれれば、
内面エステのためにだーっとサイエンスに
流れてくるよ。恋愛偏差値を高めるためにもね。

 もう一つ重要なこと。アメリカのように、
科学的マインドがこの世で成功する
パワーポリティックスと結びついている、
というようなメッセージを出すことが重要
じゃないか。 
 ロゴスがない、なんちゃってアーティストに
パワーなんてないだろう。
 サイエンスはパワーなんだよ。
 サイエンスは、無害な白衣をきた良い人が
試験管ふってやっている暇つぶしじゃないんだよ。

 E=mc2とピカソの絵のどちらが世界を
変えたか、考えてみろよ。
 
 ちょっと脱線してしまったが、私が言いた
かったのは、久しぶりの故郷は、しみじみと
懐かしい味がした、ということであった。 

 今夕は、日本ワーグナー協会例会にて
ワーグナーへの愛を語る。

11月 27, 2004 at 07:16 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/26

一人称的に、文脈を引き受けること

今は丑三つ時あたり。
 この時間まで起きているのではない。
 仮眠してさっき起きて、これから朝まで
ずっと仕事である。

 今日は、ソニー教育財団の仕事で、埼玉県の
蓮田まで行く。
 朝から夜まで、一日仕事である。

 どちらかと言えば楽天的で、仕事もいろいろ
引き受けてしまう私だが、今週だけは懲りた。
 あと二つ。これを終わらせて、やっと日常に
戻ることができる。
 仕事の多重債務者も結構たいへんだと身に染みた。

 相変わらず文脈のことを考えている。
 ここのところ、95年から97年のケンブリッジ
時代のことをよく思い出すが、
 あの頃の文脈が今と全く違うから、
思い出して精神がバランスをとろうとしている
のだろう。

 人は、自分が置かれた文脈の中で精一杯
生きる。
 それ以外に人生の歓びはないし、しかし
だからこそ凄まじき世の中である。

 養老孟司さんにあるお仕事を依頼しなければ
ならず、大変心苦しかったのだけど、
幸いお受けいただくことができた。
 養老さんが今引き受けている文脈の大変さ
を考えると、申し訳ないと
思う。

 ケンブリッジのアカデミック(学者)が
引き受けている文脈は、静かなものである。
 しかし静かな中にも大変さはあって、
たとえば、くだらなくも切実に、
金があまりない。
 もともとイギリスの学者というのは、資産の
ある貴族がやるものだったのかもしれないが、
 サッチャー以来、本当にひどくなった。

 日本の給料をもらいながらケンブリッジで
生活していたら、かなりリッチである。
 しかし、日本から来ている英文学や
なにやらの先生たちを、私はあまり好きでは
なかった。
 
 今自分が引き受けたいと思っている
文脈は、静かに、意識に関する「種の起源」
や「プリンキピア」に相当する本を書く
ことにチャレンジする時間を持つ、という
ことである。
 誰にも連絡せず、世間から放っておいて
もらって、かってにやらせてもらう。

 まだ期が熟しているという感じはしないが、
人生の中で絶対にやりたい。
 
 文脈というのは結んで解けるもので、
1年もあれば実は十分である。
 ただ、問題についてはずっと考え
続けていなければならない。
 勝負する時は、ケンブリッジに戻るか。
 その時は、いろいろなものよ、サヨウナラ。

 このような、一人称的に自分の生として
引き受ける文脈と、
 村上隆がマーケティングとして言っている
オタクだのSuperFlatだのが別ものであることは
言うまでもない。

 だいたい、本物のオタクには、一人称的に
引き受けている切実な文脈があったろう。
 ムラカミのは、文脈僭称である。

 さて、仕事に戻ることにいたします。
 仕事多重債務危機だった今週、
 SeinfeldのDVDには
気分転換に随分助けてもらった。

 Get out of here! (いい加減にしろよ!
冗談言うなよ)
みたいなAmerican Slangも勉強しました。
 ありがとう、Jerry Seinfeld.

11月 26, 2004 at 02:52 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/25

ワーグナー、その可能性の中心 レジュメ

今週末のワーグナー・ゼミナールのレジュメを、主催の山崎太郎さん(ドイツ文学)にお送りした。
当日、この通り行くとは思えないが、一応の予定である。

http://www.wagner-jp.org/yotei/reikai/reikai.html

ワーグナー、その可能性の中心 ー仮想を巡ってー 

2004.11.27. 第250回ワーグナー・ゼミナール
茂木健一郎  kenmogi@qualia-manifesto.com

*認知科学者としてのワーグナー
バイロイトの墓 不可視の表象としての仮想 反現代 

*他者 ゼンタのバラード ジークフリートの恐れ 救済者に救済を トリスタンとイゾルデの毒 樋口一葉 脳内現象 心の理論 

*断絶の彼岸 イゾルデの愛の死 ローエングリーンの禁忌 タンホイザー

*認知革命の構図 聖なる愚か者 ブリュンヒルデ的転回 ワルターとハンス・ザックス ディレッタントの革命 無限旋律 

*『感想』 蛍 小林秀雄のワーグナー体験、ジークフリートは死なない

*音楽を超えて モーツアルトとワーグナー 精神運動としての芸術 

*心理ドラマと祝祭 至高の瞬間 小津安二郎 マイスタージンガー三幕

*愛と救済 マキャベリ的知性からの休暇 ロゴスとパッション

*ワーグナー、その可能性の中心 現実と仮想 クオリア 文脈主義を超えて

参考文献  茂木健一郎 『脳と仮想』 新潮社 (2004年) 

11月 25, 2004 at 06:18 午後 | | コメント (0) | トラックバック (3)

美術解剖学、本日休講

本日の東京芸術大学「美術解剖学」
の授業は、休講とさせていただきます。
 来週から、通常通り行います。

 茂木健一郎

11月 25, 2004 at 05:06 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

最後の床屋

 先週末、11月14日の日記で書いた八百屋
さんに行って、
 大玉の梨をふたたび買ったら、おばさんが
ちゃんと覚えていて、
 「おいしかった?」
と聞いてくれた。

 さすがである。どの客が何を買ったか、
覚えている。
 世界がコンビニだけになってしまったら、
そのような接点がない機能だけの世界になる。
 それで果たしていいのか?

 自分で髪の毛を切ってしまった瞬間のことは
よく覚えている。
 95年の歳末、ケンブリッジの下宿で
すぱっと切ってしまった。
 それ以来、床屋には行っていない。

 あっ、切りたい、と思ったら、
シャワーを浴びる前に風呂場でばさばさ切って
しまう。
 大分慣れてきて、3分で作業終了である。
 気が楽になったが、床屋さんとの会話が
懐かしい、という気持ちもほんの少しある。
 
 理化学研究所時代に行っていた床屋、
すなわち、今のところ我が生涯の最後の床屋は、
池田さんというおじさんで、面白い
話をいろいろしてくれた。
 今でも、もっと聞きたかったと思うのは、
趣味で養蜂をやっていたことで、
 毎回少しづつ蜂の秘密を聞き出していたら、
イギリスに留学することになってしまった。

 帰国して、しばらくして理研から和光市駅
に向かう道にあるそのビルの前を通ったら、
 バーバー池田はいつの間にかなくなっていた。
 引退するにはまだ早い年だったから、
きっとどこかに移転したのだろう。

 今でも、床屋だけは客と店の人の間に
機能だけではないコンタクトがある場所では
ないかと想像するが、何しろ最近
行っていないので判らない。
 こんなことを書くと、世間の人が
「そうか、床屋に行かなくてもいいんだ」
と思って、商売妨害になるのではないかとも
懸念するが、 
 冷静になって考えてみると、自分で
切ってしまえ、もじゃもじゃの髪型で
いいや、と割り切れる変人は、
 世にそれほどいるわけではあるまい。

 ケンブリッジで最初にハサミを
入れたとき、随分悪いことをしているような
罪悪感があったものである。

 やってもやっても仕事の山が
減らない気がする。じっと手を見る。

11月 25, 2004 at 05:00 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/24

茂木健一郎×島田雅彦対談「脳内現象と快楽」

本日(11月24日)発売の講談社
Bravo Business(ブラボービジネス)
第3号に、

茂木健一郎×島田雅彦対談「脳内現象と快楽」
が掲載されています。

 グローバリズムの奔流に対抗する智慧、
脳内快楽主義とは一体何でありましょうか?

http://www.joseishi.net/frau/news/111.html

11月 24, 2004 at 06:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

W増刷

NHKブックス 『心を生みだす脳のシステム』
NHKブックス 『脳内現象』

の増刷がそれぞれ決まりました。

『心を生みだす脳のシステム』は10刷、
『脳内現象』は3刷です。

皆様のご愛読に感謝いたします。

11月 24, 2004 at 05:29 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

ぱっと入るタイミング

学生の時など、何かやらなくてはならない
ことを前にしてうだうだしていることが
よくあった。

 そのうだうだの状態から、とりかかる気に
なるまでの移行期が、モチモチして香ばしかった。

 最近は、ぱっと始める。うだうだしている
時間がないのだ。
 人間というのは不思議なもので、ぱっと
始めると、ちゃんと身体と頭がついてくる。
 プロとしては当然のことかもしれないが。

 それでも、強度の高い仕事を終えると、すぐに
切り替えて次の仕事、というわけにはいかない。
 散歩をしたり、ビールを飲みながらアメリカの
TVコメディSeinfeldを見たりして気分転換する。

 Seinfeldは、アメリカのコメディの最高峰と
誉れが高いシリーズであるが、BBCのコメディと
比べると面白い。
 アメリカはイギリスの親戚だが、かなり性格の
違うイトコくらいかと思う。
 私はやはり前回の文學界連載でも取り上げた、
The Officeをはじめとする
BBCのコメディの方が好きだが、
アメリカなまりの英語に慣れる上では
Seinfeldは便利だ。
 
 ちなみに、The OfficeもSeinfeldも英国の
アマゾンから買うのが、同じregion 2で便利。
 PAL方式なので、テレビではダメだが、
DVDの付いたパソコンならば問題なく見られる。
 英語の字幕を表示させて見れば、英語が苦手
な人でも(きっと)なんとかなる。

Seinfeld

The Office (complete box set)

The Office series 1

The Office series 2

The Office Christmas Specials

 最近、「タイミング系」に対する関心が
高まっていて、
 気分転換に一人バレーボールをやったりする。
小さなソフトボールを、右手と左手で
交代で打つのだ。 
 小学生の時など、よくそんな一人遊びをしていた。
 
 なぜ、タイミング系に興味があるかというと、
それが大げさなようだが創造性とか発想力に
資する(すなわち、そのような脳のメカニズムを
鍛える)という理屈が、ぱーっと見えてしまった
からだ。
 同時に、なぜ筋トレが詰まらないかも判った。
筋トレは、脳の創造性に全く寄与しない。
 どうりで、腕立てふせや腹筋をやっても、
三日坊主で終わるはずだ。

 ぜひ、室内で出来るタイミング系のエキササイズを
何か開発したいと思って、
いろいろ試している。
 今のところ、両手バレーボールが一番面白い。

 あまり、やっているところを他人に見られたくは
ないけれども。

 仕事にぱっと入るのも、一つのタイミングだ。

 小林秀雄が、禁煙したらリズムがとれなくなって
仕事ができなくなった、というのもよくわかる。
 私の場合は、コーヒーやチョコレートか。

11月 24, 2004 at 05:27 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/23

愛が人の心を癒やす理由

11月22日から発売中のヨミウリ・ウィークリー
2004年12月5日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第30回

愛が人の心を癒やす理由

が掲載されています。

 愛する人を前にして、脳の批判的判断を行う部位の活動が低下することの意味について考えています。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

11月 23, 2004 at 06:23 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Constitutional Crisis

ゆえあってインド出張は中止、
静かに仕事をして3日間くらしていた。

 われに返って見ると、インドに行っている
暇がないくらい仕事が溜まっていたので、ちょうど
良かったかもしれない。

 ちょうどいい、と日記を書かずに潜伏して
いたので、
お問い合わせいただいた方々にはご心配を
おかけしました。

 関係者の方々へー>ということですので、
ゲラ等、いつもの宛先にお送りいただいて
大丈夫です。

 仕事をしながら考えていたのが、
constitutional crisisと創造性の問題である。

 英語でconstitutionとは、国の成り立ちの
ことであって、十七条憲法のような「条文」
のことではない。
 constitutional crisisとは、つまり
国の成り立ちの危機のことであって、
 根本的な政体が揺らぐことである。

 ある一国にとってのconstitutional crisisとは、
日本で言えば明治維新や第二次大戦の敗戦のように、
それまでの政体が揺らぎ、崩壊して、
 新たな政体ができあがるまでの過渡期を指す。
 過渡期が、政治的にはもっとも創造的な
時期でもあることは言うまでもないだろう。

 ちょうどemergency(危急)
とemergence(創発)が語源を共通とするように、
 crisisにも何か創発的意味合いがないか、
と語源を調べてみると、やはり、「病気における
ターニング・ポイント」という意味に加えて、
「判断する、分離する、決定する」をも意味する。
 
 constituional crisisは、何も国だけのことでは
なくて、個人にも当然ある。
 そして、危機が創造と結びついて
 自分がどのような組織に属するのか、属さない
のか、何をして生活するのか、どのような
人たちと行き来するのか。
 このようなことが固定化してしまっている
人に、本当の意味での創造性はないのでは
ないか。

 もともと、人間はconstitutional crisisの
中に生まれ、その中に死んでいくのではないか。
 生まれ落ちた時、自分が何故この世界に、
この親の元に生を受けたのか納得できる
人などいるか?
 思春期の自我の確立への苦闘、
 老年期の老いとの戦い。

 自分が社会の中で何者である、と判った
ふりをしている人をおじさん、おばさんと言う。
 constitutional crisisを引き受けて生きている
人は、いつも心が揺らいでいるし、いつまでも
青年だ。

 インドがなくなってせっかく空いた時間だが、
何しろ仕事が山積していて身動きがとれません。

 こつこつと仕事をこなしつつ、
 胸には常にconstitutional crisisを秘めて
いたいと思う。

11月 23, 2004 at 06:19 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/19

美しいと感じる脳 第4回

本日
朝日カルチャーセンター 講座

「脳とこころを考える」 ー美しいと感じる脳ー
(全5回)

第4回 (途中回からの参加もできます) 

午後6時30分〜8時30分 新宿住友ビル48階

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture17.html

11月 19, 2004 at 08:08 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

Lecture Records

(Qualia Movement in the Arts)

束芋×宇川直宏×茂木健一郎 鼎談

「美、文脈主義、アウラについて」

2004.11.18. 京都造形芸術大学
(mp3, 33.5MB, 147分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「芸術」のセクションに音声ファイルがあります。

11月 19, 2004 at 08:06 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

宇川、束芋、茂木、トリオ漫才の巻

京都造形芸術大学の前で束芋さんと
会って、
 事務室に行った。
 そこで宇川直宏さんに会う。

 宇川さんにお会いするのは二年ぶりだろうか。
 工藤キキさんの紹介で二人でトークセッションを
やって以来である。

 宇川さんも一緒に教室に来て、
マイクが藤原裕三さんの分も含めて4つ
用意されているのを見た瞬間、
 ああ、そういうことかと思った。

 宇川さんもしゃべるということは、
漫才になる。
 用意してきたパワーポイントは3部構成だが、
その全部はとてもできそうにない。

 案の定、1部を終えたところでタイムアウト。
しかし、束芋さんも含めて、とっても楽しい
トリオ・漫才になった。
 
 授業終了後、千住博さん、宮島達男さん、
森村泰昌さんのシンポジウムに行く。

 森村さんがパフォーマンスをやって、その
後鼎談。
 宮島さんが、なんだかおもろいキャラクター
だなあという印象が残る。

 池上高志と桝本クン、それに京都造形芸術大学の
ナカタさんがやってきて、
みんなで飲みに行く。
 ナカタさんはデザインのヒトである。

 宇川さんの奥さんもいらして、談論風発。
とっても楽しかった。

 宇川さんは明日から韓国にVJをしに行く
というので、書画カメラを手に持ち、
なぜかPowerbookを箱ごと持ち歩いていた。
 箱ごとパッケージで持って行くのが
宇川さんの一つのパフォーマンスなのかと
思っていたが、
 単に新しいPowerbookというだけ
だったらしい。

 宇川さんと会うと、元気になる。
 そして、京都造形芸術大学は、楽しい
ところである。

 ホテルに帰って、ひたすら仕事をする。

Lecture Records

(Qualia Movement in the Arts)

束芋×宇川直宏×茂木健一郎 鼎談

「美、文脈主義、アウラについて」

2004.11.18. 京都造形芸術大学
(mp3, 33.5MB, 147分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「芸術」のセクションに音声ファイルがあります。

11月 19, 2004 at 07:31 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/11/18

美術解剖学、本日休講

本日の東京芸術大学「美術解剖学」
の授業は、休講とさせていただきます。

 茂木健一郎

11月 18, 2004 at 09:23 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

プチヴァカンス

おそらくは? 自分のせいだと思うのだが、
あまりにも忙しくて、ボーゼンである。

 お風呂に入って、バスタブの中で
ぼーっとしていると、これがプチヴァカンスだ!
と思う。

 昔バリ島で3日くらいぼーっとしていたら、
身体がぽかぽかしていて、忘れていたような
甘い夢と人生の希望を思い出した。
 ああ、ヴァカンスの効用とはこれか、と
思った。

 最近は、風呂につかってヴァカンスをする。
10分でも、ずいぶんいろいろな希望がわいて
くる。 
 本を読むのが好きだが、濡れるしヴァカンスに
ならないのでやめた。

 MXテレビの撮影は、西野さんがいろいろ
私に質問して、私がばーっと答えるという
インタビューで終わり。
 ずいぶんインテンシヴな会話で、
酸欠の金魚のようになった。
 その間、
 ソニー広報の尾花さんは、横で撮影をモニタ
しながら仕事をされている。

 研究所を出て、品川駅に歩く道で、
またプチヴァカンス。
 ナーンにも考えないで、ぼうっと品川
プリンスホテルを見上げていたら、
いつもよりきれいに見えた。

 こんな感じでいつも世界が見えていたら、
酒を飲まなくてもいいな、と思った。

 ホテル・オークラ、日本マーケティング協会
のサロンで講演。
 まずは食事をして、というのでみんな
白ワインと赤ワインが入っている。
 もちろん私も入っている。

 ロビーでしばらく仕事をして、
夜道に出た。
 虎ノ門の街は、きれいでピカピカしている。
 坂口安吾を読みながら帰った。

 安吾を読めるくらいには、アタマが回復していた。

 チョトスって、3種類あるけど、
全部おいしいね。

 今日は京都造形芸術大学
で授業をするために京都に行くのでありました。

11月 18, 2004 at 06:20 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/11/17

戦争に対する科学的態度

今時、ルールに則った「公正な」
戦争があるなどと信じているのは、
馬鹿かカマトトか、確信犯の詐欺師
だけだ。

 アメリカ軍が「公正に」戦争を
やっているといくら言ったところで、
東京大空襲と原爆を経た我々が
そんな虚言を信じるものか。

 もっとも、
 今はたまたまアメリカが悪者を
演じているが、
 同じことは、aggressionを遂行
するのに十分な武装をした者には
誰にでも起こりうることだろう。
 
 戦争に対する科学的態度とは、
問題の本質は悪意にあるのではなくて、
ある特定の状況にあると見抜くことだ。
 そして、そのような状況は
可能な限り避けるということである。

 詐欺師たちにだまされて、
公正でクリーンな戦争が可能であるという
非科学的迷信に陥ってはならない。

Military investigates shooting of wounded insurgent

11月 17, 2004 at 07:41 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

ふわっとよぎったもの


 Documentary Japanの煙草谷有希子さん
御来所。
 人間の声認識について、いろいろ議論。

 『脳と仮想』の取材で、Tarzanの中西陽子さんと、
石飛伽能さん御来所。
 現代における仮想のありかはどこに。

 夕刻、
 佐藤雅彦さんが、研究所にいらっしゃる。

 ぱりっとしていて、それで何となくかわいらしい
スーツを着た佐藤さんは、ご自身が何かの
キャラクターのようだった。
 トランプの王様のような感じ。

 まずは、主なアジェンダである一連の映像作品に
ついてディスカッション。
 わかるかわからないか、そのトワイライトに
ある微妙なニュアンスがふっとよぎる映像を
巡って、
 いろいろなことを考える。

 佐藤さんは、アインシュタインが少年時代
に見た磁石の例を出されていたが、何だか
わからない、ふわっとよぎるものに導かれて
人は探求を始めるのではないか。
 N極は北極を指すなどと、すぐに答えを
与えてはいけない。
 答えを与えられた方も、それで満足
するようではいけない。

 学生たちの前で、今までの代表的な
CM作品を引用しながら、即席講義をして
くださる。
 前回お会いした時もそうだったが、
あまりにもおもしろい話の連続で、
いろんなものがふわっとよぎる。

 やっぱりこの人は天才である。

 佐藤さんご自身が自覚されているか
どうかは判らないけれども、
 佐藤さんの世の中の認識の仕方は、
きっと他の人と微妙な形でずれていて、
そのずれに率直に寄り添うことで、 
 打率10割とでもいうべき驚くべき
成果が残ったのだと思う。
 
 自分のアタマの内と外をよぎるふわっと
した妙な感じをないがしろにしては
いけません。
 そこに全ての源泉がある。

 五反田の「あさり」で佐藤さんを囲んで
懇親会。
 あとから、芸大の油絵科のP植田もくる。
 植田は、佐藤さんと何やらアニメーション
の話をしていて、
 それならば一度ドローウィングを見せてみろ、
ということになったらしい。

 植田は、築地の事務所に帰る佐藤さんを
かいがいしくも送っていった。

 佐藤さん、ありがとうございました。

 ふっと我に還ってみると、
 私は土曜日からインドに行くのであるが、
それまでのスケジュールがむちゃくちゃである。
 しかも書かなくてはいけないものが山積している。
 佐藤さんの話を聞いて、ふわっとよぎった
ものからエネルギーが湧いてきたので、 
 一つがんばりたいと思う。

11月 17, 2004 at 06:31 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/11/16

思い出した魂の危機

MXテレビの西野淳一さんは、最終の
絵の仕上がりが頭にあって演出するヒトらしく、
 田谷や柳川、張さんと実験の議論をしている
風景を、いろいろ注文しながら撮影していった。

 『ガリレオチャンネル』
という番組。12月? に放送されるらしい。

 ゼミの風景も撮影して行ったが、
ゲーム理論を巡って、私と関根、田谷、恩蔵の
間に大激論が起こったので、
みんな撮影のことはすっかり忘れてしまった(笑)。
 別に演技でも何でもなかったのだが、
最初に突っかかってきた関根くんには、
アカデミー怪演男優賞を差し上げましょう。

 しかし編集で激論場面が残るかどうかは
わからない。
 水曜日には、再びインタビューの撮影あり。

 午後は、アメリカのロチェスター大学の
Daphne BavelierとAlexandre Pouget が
来てtalkしてくれた。

  Daphne Bavelierは、ビデオ・ゲームを
やると視覚的能力が上がるという論文を
しばらく前にNatureに発表した人で、
 話が、一貫してビデオ・ゲームがいかに
能力を鍛えるか、という話だったので、
 私は日本の「ゲーム脳」というヨタ話を
思い出してにやにやしてしまった。

 ポイントは、視野の中に同時に複数の
動くターゲットがある、という点にあるらしく、
 テトリスのような一つのピースが動く
だけのものよりも、状況が時々刻々と変化し、
敵が沢山現れる、アクション・ゲームの方が
有効らしい。

 General Intelligence(IQ)については
どうなんだ、と聞いたら、「ゲームをやる
ことと、IQの間には正の相関がある」と
またも自信たっぷりの答。
 またもや、どこかの国の「ゲーム脳」の
おっさんに聞かせてあげたいなあ、と思った。

 先進諸国の人々の知能指数が、年とともに
上昇して行くという「Flynn効果」というのが
あるが、このFlynn効果は、コンピュータなどの
情報機器の登場によって、人々がより多くの情報を
高速に処理するようになった、ということで
説明できる、というのがDaphneの説。

 説の当否は別として、コンピュータや
ビデオ・ゲームのような新しい情報環境を、
やれゲーム脳だ何だと「後ろ向き」にとらえる
日本のおっさんたちのメンタリティと、そこに
未来がある、と「前向き」にとらえるアメリカ
の精神風土の違いが、Daphneの研究にも
現れているように思った。

 Alexの話は、典型的なベイズ推計の神経回路網
モデルの話。
 私はケンブリッジにいる時この手の話は
さんざん聞いたから慣れているが、
 初めて聞く学生たちは、とまどい(と怒り?)
を感じたかもしれない。

 クオリアの問題を考えていたケンブリッジ時代、
ベイズ推計一派は私にとってはマイクロソフトの
ような巨大な敵で、
 しかもボスのHorace Barlowがその手の理論の
創始者と来ていた。
 周囲には、David Mackayや、John Robson,
Dan Rudermanらの、ベイズ一派の強者
たちがいた。
 
 Horaceは、私がクオリアの議論を吹っかけても
受けてくれる幅の広さを持っていたが、
 あとの人たちはがちがちで、ベイズに対する
異論反論オブジェクションは受け付けません!
という感じだった。

 昨日のゼミで、
 学生たちはAlexに突っかかっていたが、
 その様子を見ていて、
ケンブリッジ時代の私の孤立無援ぶりを
思い出してしまった。

 なにしろ、ケンブリッジ時代のセミナー参加者の
ほとんどが、ベイズ的手法ばんざいの人たち
だったのだから、大変だった。
 ノイズがあって、そこからシグナルを
どれくらい効率的に検出できるか。
 エンコーディングとディコーディング。
 なんてつまらない話だ、と思いながら、
こっちはまだクオリアについて有効な
(彼らでも使えるようなツール)を開発
していないのだから、
 効果的な反撃をうてなかった。

 ある夜、家までの暗い道を歩きながら、 
このままではオレはつぶされてしまう、
と本気で落ち込んだこともある。
 あの頃の私は、一つの魂の危機
(Spiritual Emergency)を迎えて
いたのかもしれない。

 ベイズ一派の自信は、相変わらず大した
ものである。
 昨日も、Alexはあたかも脳の本質はベイズ
推計にあり、とでも言わんばかりの話し振り
だった。
 しかし、暗いところで鍵を落としたのに、
見えないからと明かりの下を探しているような
話だなあ。

 ベイズ教の人にある種のことを言っても
暖簾に腕押しだということは、長い間の
苦い経験で良く知っている。

 最近は、単純に割り切って、ベイズ一派が
何を仮定して、何を説明しようとしているのかを
冷静に見るようにしている。
 彼らが説明できることもあるし、説明できない
こともあるだろう。
 一つだけはっきりしているのは、
ベイズ一派の使う数学がセクシーではないという
ことだ。
 
 しかし、お前の言っていることはセクシーでは
ない、というのは科学の議論ではないから、
 私はあくまでも前提、仮説、論証という
枠内で議論していた。

 Alexに突っかかっていた勇者どもに、
どれくらい私の気持ちが通じたかは判らない。
 しかし、突っかからないよりも突っかかった
方がいい。

 人、生まれた上には、時にはイノシシたるべし。 

11月 16, 2004 at 05:57 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/11/15

戦争の本質

ファルージャで起こっていることは
伝えられるよりも大分悪いと覚悟して想像する
べきだろう。
 自分が今ファルージャにいたら、と想像
したら、今月は仕事が沢山あるなあ、
さのヨイヨイ
どころの騒ぎではない。
 何もジョージ・ブッシュだけが特別に愚鈍で
邪悪だ、というわけではない。
 古来、指導者(支配者)というものは、
自分を安全圏において、他人を戦線に
送り込むものだ。

 佐藤皇太郎さんから「
QUALIAの忘年会に出ます」
とメールが来て、その際、
広島国際アニメーションフェスティバル
で入選したというご自身の作品『戦争の本質』
のURLを教えていただいた。
 アニメの中に出てくる男がブッシュだと
思って、まあ間違いはない。

http://www.docca.net/aastudio/production/animation_new.html

11月 15, 2004 at 08:31 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

脳をコントロールすべきか

本日(11月15日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年11月28日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第29回

脳をコントロールすべきか

が掲載されています。

 ロボトミー手術の開発に対してノーベル賞を与えた過ちを振り返り、人間の脳をコントロールすることの難しさについて考えます。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

11月 15, 2004 at 05:49 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

子供のままでいよう。

今月やらなくてはいけない仕事を数え上げると、
絶対にやるのは不可能だと思う。
 そうは言ってもどうすることもできないので、
ただひたすら「ロジック」を働かせて、
目の前のことを淡々とこなし続けている。

 そんな中、歩きながら難しいことを
考えている時間が一番幸せだ。

 私の使っているPowerBookの右手前底面の
ぽっちがとれていて、そのまま使うと
かくんとなる感じになる。
 名刺3枚くらいを挟むと、ちょうどいい。

 名刺3枚分の違和感。微妙なニュアンスだが、
同じことが思考でもあるように思う。
 違和感は大切で、それが、創造をすべり
こませるべき隙間を教えてくれる。

 クオリアの問題を考え続けているのも、
そこにはっきりとした違和感があるからで、
それが名刺3枚分なのか、それとも段ボール
10枚分なのか、よくは判らないが、
 我々の今の公式的世界観と、意識があるという
事実の間に
 ギャップがあることは事実だ。

 思うに、子供のころは、心の中の微妙な
ニュアンスの差に導かれて
生きていたのではなかったか。
 まだ理屈など発達していなかったから、
 ちょっとした心の中の動きに、自分の世界
をゆだねていたように思う。

 砂場で手で砂を集めて山をつくる時の、
手の裏のなんともいえない感触。
 ちぎった葉っぱの、にゅるにゅるとした
触感。
 知らないお兄さんとしゃべるときの、
ちょっと鼻がつんとするような感じ。
 夕暮れになって、なんとなく寂しい思いが
する中、なおも遊ぶときの、名残惜しい感じ。

 最近、どうも、あのような感覚を理屈経由
ではなしに持ち続けることが創造性の秘密だと
いう気がしてならない。
 創造的な人というのは、つまり子供っぽい
人のことではないか。
 創造的であろうとすれば、ピーターパンで
いるしかないんじゃないか。

 先日、
 『ユリイカ』12月号の宮崎駿特集の原稿を
書いているときも、そんなことばかり気になって、
 認知科学の「発達」という概念はひょっとしたら
ダメなんじゃないかと思っていた。

 昨日読了した米本昌平さんの「独学の時代」
に書かれていたドリーシュの生気論や、
チェンバースの理神論には、われわれの
世界観が、物理主義、進化論で塗りつぶされる
前の思考の香りのようなものがあって、
 パラダイム・シフトをするならこのあたりだな、
という名刺何枚分かの臭いがする。

 子供から大人になることが、発達などでは
なく、堕落なのではないか、というアンチテーゼを、
しばらく胸の中に揺り動かしてみていようと思う。

 明け方、自分のケンブリッジ時代のボスの
ホラス・バーローが目の前に出てきて、
 学部長の候補について、
 Yes, he could be the man.
No. he could not do it. It is not that kind of
task.
 などと論評する生々しい夢を見る。

 近頃でこそ、鮮明な夢をみるとびっくりするが、
 子供の頃は、全てのマテリアルが夢でできて
いたような気がする。
 
 サンタクロースがいるのかいないのか、それが
判然としなかった、あのトワイライトの感覚
だけでも、決して忘れずにいようと思う。

11月 15, 2004 at 05:48 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/14

脳科学から憲法問題を見ると

『ヨミウリ・ウィークリー』2004年11月7日号掲載
茂木健一郎 「脳の中の人生」 第26回
「脳科学から憲法問題を見ると」

 イギリスに留学していた時に一番驚いたのは、かの国における「ルール」の在り方である。

 ケンブリッジ大学にいた二年間、書いた書類は図書館の入館証の申請書類だけだった。一体私はどんな身分で大学にいるのか、私の給料はどこから出て研究費はどのように使うのか、きわめて緩やかなルールしかなかった。日本の大学ならば、身分は何で、お金の出入りはどうなっているのか、事細かにルールで決められる。しかし、ケンブリッジでは、そのような明文化されたルールは存在しないか、意識しなくても良いようになっていた。

 明示的なルールの代わりに何があったかと言えば、担当者の「判断」である。「判断する」と「裁判官」を表す英単語が同じ「ジャッジ」であることからもわかるように、イギリスでは人間の判断能力をルールと同じように信頼し、大切にする。

 周知のように、イギリスは非成文憲法の国である。昭和天皇も読まれたと言われるバジョットの名著「イギリス憲政論」を読むと、議院内閣や首相といった根本的な国家の成り立ちが、明文化されたルールではなく、その時々の為政者の判断の積み重ねによって作り出されてきたことがわかる。そもそも、イギリスでは「憲法」は慣習を含めた国の成り立ちを指すのであって、日本のように条文を指すのではないのである。

 人間の判断はルールでは書けないということは、実は人工知能の研究者が長年の努力の結果学んだ苦い結論である。ルールでしか動けないコンピュータが判断力で人間に追いつけない理由はここにある。

 人間が判断を下す時、脳の中では感情のシステムがフル回転する。判断の材料となる情報が完全に得られることはむしろ少ない。不確実な状況の中で、大脳辺縁系から前頭葉にかけての神経細胞のネットワークがある判断を選択する。判断を下す脳の仕組みはの詳細はまだ解明されていないが、一つだけ確実なことは、そのプロセスをルールで書くことはできないということだ。

 あまりにも厳格にルールに従おうとする時、人間は出来損ないの人工知能のようになってしまう。車は左側を、人は右側を歩く。そのような、どちらに決めてもいいようなことは、ルールで決めておけば良い。しかし、人生や、国家の将来を左右する大切なことに関する判断は、あらかじめルールで縛っておくことなどできない。これが、イギリス人が代々受け継いできた叡智である。

 ひるがえって日本はどうか? 私たちは、法律というものを、人間の判断を助けるガイドというよりは、厳格に守るべきルールとして考え過ぎていないか? 

 もちろん、為政者が勝手なことをやらないようにある程度の縛りは必要である。イギリスでも、「マグナ・カルタ」は、国王の権限を制限するために制定された。

しかし、権力者の横暴を警戒する余り、もっとも大切な判断の能力まで疑い、縛ってしまっては、人間の脳の持つ潜在能力を殺してしまうことになる。

 条文はよい国にするための方便であり、金科玉条ではない。

 理想を描いたとしても、それが人間の本性に反するものである時、不自由な社会ができる。この歴然たる事実を、現代の脳科学は再確認するのである。

11月 14, 2004 at 07:37 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

判断とルール

まだこんなことがニュースになっていると、
森山
和道さんの11月10日の日記
で知った。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/science/news/20041110k0000e040077000c.html

 森山さんも書いているように、確かに不正は
良くない。
 しかし、マスコミも良くない。
 事実だけを報道するだけだったら、中学生
新聞でもできるよ。

 「業者への預け金」という慣行が、どのような
事情から出てきたのか、そして、どれくらい広く
行われている慣行か、ちゃんと調べてみろよ。
 そうすれば、本質は、硬直化した官僚機構の
「ルール」にあることが判ってくるだろう。

 予算の単年度主義という「形式的ルール」と、
科研費をいかに有効に使うかという「実質的判断」
のどちらが大切か、文部科学省の人たちは、とくと
考えていただけないか。
 
 せっかく国を支えるという夢を持って中央官庁
の役人になったのだから、
 できそこないの人工知能のように振る舞うのは
やめて、自分たちの判断能力を十全に発揮するよう
になってほしい。
 もともと、優秀な人たちのはずなんだから。

11月 14, 2004 at 07:33 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

悔い改めた

近所にある、肉屋のとなりの
八百屋のおじさんは、
例外的に野菜とか果物に詳しいのだと
ばかり思っていた。


<<<
 家の近くに八百屋さんがあって、時々
買いにいく。
 おじさんがおしゃべりな人で、いろいろな
ことを教えてくれる。

 この時期はきゃべつはどこから入って
くるとか、
 梨は今まではどこから来ていたけど、
これからはどこから来るとか、
 こういう寒い日には、何となくみんな
値段が高くてもネギを買っていくものだから、
 多めに仕入れていくとか。
 素人にはとても想像できないような、
細やかな配慮がそこにある。
>>>
(クオリア日記
2004年10月30日分より)

 昨日、スーパーの近くにある別の八百屋さんで、
梨と柿を買おうと思って、
 おばさんと会話を交わした。

 「そこのでかい梨はなんですか?」
 「こっちがナントカで、こっちがナントカ」

どちらも知らない名前である。

 「ナントカの方はこんなにでかいでしょ。
こっちのナントカは、しゃりしゃり感がありますよ。
もちろん甘いことは甘いです。」
 手前にあったナントカの方を買った。

 「硬い柿がいいんですけど。」
と言うと、即座に、
 「それじゃあ富有柿ですね」
と、きれいに光る柿をすすめてくれた。

 八百屋から歩きはじめて、私は何だか
内心に強い衝撃を受けていることに気がついた。
 しまったあ!
という感じだった。

 God, have mercy on my soul!

 考えてみれば、相手は専門家なんだから、
その会話からいろいろ学ぶことがある
のは当然じゃないか。
 いくら科学技術が発達したって、食べ物の
質が産地や天候で影響されることは当たり前だ。
 それを目配りして目利きして良いものをとどける
ことが、専門性でなくて何であろう。

 ところが、現代の私たちはどうだ。
 スーパーやコンビニで、どこから来たのか
わかりもしないもんを、ちらっと見て、ぽいと
カゴに入れて買っている。 
 「あっ、柿か、こんな形でこんなもんだったら
いいだろう」
と買ってきて、
 包丁で適当に切って、「柿なんてこんな
もんだよね」と気にも留めずに食っている。

 それならまだいい。乳化剤保存剤たっぷりの
ヨーグルトに、「何てったってコスト・ダウン
ですからね。この程度入れとけば、消費者も
文句は言わないでしょ」などという大企業の
企画会議で規格が決められた、
舌の上でつぶすとあっという間に
溶けてなくなるようなセコさでスライスされた
フルーツを食って、「ああ、これは確かに柿だね。
これは確かにみかんのかけらだ。おっ、これは
メロンかな。ああ、規格化製品。いつも同じ味。
まろは満足じゃ」などとつぶやいて、
 人工化された食いもんの世界を生きている。

 スーパーやコンビニのジャスト・イン・タイム
や、エブリー・デイ・ロープライスなどという
惹句に踊らされ、「開いててよかった」などと
ほざいている。

 その間、八百屋のおじさんやおばさんは、
店の前を通り過ぎ、
コンビニやスーパーに入って「あっ、これは
りんごか。これはみかんか」などと思考停止して
買い物をしていく私たちを眺めながら、どんなに
寂しい思いをしていたことだろう。
 
 何がITだよ。何がネット上の仮想商店街
だ。
 ふざけんるんじゃねえ。

 偽物の情報概念に踊らされている間に、
おれたちは何だかとても大切なものを失いつつ
ありはしないか。

 オレは悔い改めた。

11月 14, 2004 at 06:53 午前 | | コメント (4) | トラックバック (1)

2004/11/13

合理を貫き、官能を生きること

11月10日発売
新潮社 小林秀雄全作品 第26集
信じることと知ること

http://www.shinchosha.co.jp/zenshu/kobayashi_zensaku.html

に、巻末解説「合理を貫き、官能を生きること」を
寄稿させていただきました。

 一部引用(全文は、上記書籍をご参照ください)

 近代を乗り越えるのに、近代を否定する必要はない。むしろ、近代の中に飛び込み、近代の論理を突き詰めていった時に、近代を超えるものが垣間見えてくる。
 その意味において、小林は、デカルトの正統な継承者だったと私は考える。印象批評などという曖昧模糊としたヴェールに包んでしまっては駄目だ。小林の一見感性的な物言いの背後にある、きわめて緻密な論理性こそを見るべきなのではないか。
 『信じることと知ること』に引用された、白い鹿の挿話が、論理を経由した後に生まれる何か未知なるものの気配を示唆して見事である。
 猟人が、白い鹿と逢う。白鹿は神である、という言い伝えがあるので、もし傷つけて殺し損なえば、必ず祟りがあるだろうと思うが、名誉を重んじる猟人なので、あえて撃つ。手応えがあるのに、何故か鹿は動かない。ひどく胸騒ぎがして、普段から魔除けとして身につけていた黄金の弾で撃つけれども、それでも鹿は動かない。
 あまりにも怪しいので、近くに寄って見ると、よく鹿の形に似た白い石だった。
 近代の科学主義者は、ここまで読んで、それ見たことか、単なる錯覚だったのさ、と嘯くだろう。しかし、この猟人は違う。数十年の間、山中に暮らしてきた者が、石と鹿を見誤るはずがない。これこそ、まさしく魔障の仕業であると、この時ばかりは猟を止めたいと思った、というのである。
 白い鹿だと思ったものが、単なる白い石だった。そのような近代合理主義の説明がついた後に、尚も残る何か。いや、合理的な説明が見事につくがゆえに、益々濃く、深く忍び寄ってくるなにものかの消息。
 それこそが、小林秀雄が『信じることと知ること』をはじめとする講演の中で追い求めていたものであり、小林の生涯の全仕事を貫く、誠に重いモティーフだったのである。
(中略)
 小林秀雄は遙かにある鬼籍の人になってしまったが、小林秀雄の魂は、彼の残した文章を読み、講演を聴く時によみがえってくる。

 例へば、諸君は、死んだおばあさんを、なつかしく思ひ出すことがあるでせう。その時、諸君の心に、おばあさんの魂は何処からか、諸君のところにやって来るではないか。これは、昔の人がしかと体験していた事です。それは生活の苦労と同じくらい彼等には平凡なことで、又同じように、真実なことだった。(『信じることと知ること』)

 今日の私たちも、日々、生活の苦労をしている。それと同じくらい平凡で、真実なこととして、小林の残したメッセージをなつかしく思ひ出したらどうか。批評の神様などと、神棚に上げておくのはもったいない。合理的であり、なおかつ官能的であるということはどういうことかと考え、自ら実践した偉大な先達としての小林秀雄の魂を、日々の生活の苦労の中で、折りにふれ呼び返したらどうか。
 インターネットでは、白い石はいくら検索しても白い石のままである。時には、白い石を白鹿と見間違える。そんなことが起こらなくなった人生に、何の生きる甲斐があろう。
 小林秀雄の文章は、白い石を白鹿に変える魔法を私たちに教えてくれるのである。

11月 13, 2004 at 02:42 午後 | | コメント (2) | トラックバック (0)

ワーグナー、その可能性の中心

Public Lecture
日本ワーグナー協会 例会

 第250回例会 ワーグナー・ゼミナール(182)
日 時:11月27日(土) 18:30 開演
場 所:池袋 東京芸術劇場5F中会議室
テーマ:「ワーグナー、その可能性の中心」〜仮想を巡って〜
講 師:茂木健一郎(脳科学者)

http://www.wagner-jp.org/yotei/reikai/reikai.html

11月 13, 2004 at 02:28 午後 | | コメント (0) | トラックバック (3)

相澤洋二、相澤洋二、・・・・・・

早稲田の相澤洋二さんの還暦記念シンポジウムは、
二日目。

 出番を待っている間に、ふと思いついて、
相澤洋二さんが赤いちゃんちゃんこを着ている
写真を合成した。

 還暦仕様の相澤洋二さん

 トークの冒頭にこの写真を見せたら、
会場が爆笑した。
 写真を前に、相澤さんと最初に
接触があった修士の頃の思い出を振り返った。

 講演本体は、
 クオリアの解明を究極の目標としつつ、
脳のシステム的性質を調べるという現今の
研究についてしゃべった。

 質疑応答で、郡司ペギオ幸夫がすかさず、
「お前の言うように、
もうやるべきことは判っているんだから、
なぜ、不定である外部がある時に生物のように
学習する存在が必然化されるのか、それを
理解するモデルをつくるべきなんじゃないか」と
言った。
 それはそうだと思う。
だが、オレはあくまでも
empiricalな方向で行きたい。

 empirical(経験的)ということの意味を、
我々は十分真剣に考えていないんじゃないか。
 抽象から具体まで、ぐーんと串刺しするのが
empiricalである。

 12月に神戸に津田一郎さんが来るというので、
ぜひその時は行くよ、と郡司に言う。
 ちょうどその頃、大阪大学での集中講義もある。

 ここのところ、世間的な意味でのアカデミックな
志向への回帰の潮流が自分の中にあるけれど、
 それに取り込まれてしまうのも嫌だ、
と思う。
 これがアカデミズムでござい、などという
予定調和とは無関係な、
 一回性の起爆力を我々は忘れては行けないんじゃ
ないか。

 もはやアインシュタインは神話かもしれないが、
彼が1902年から1909年まで特許局で
働いていたという事実を忘れてはなるまい。
 アカデミズムなどとは無関係である。
 1905年の相対論の論文を発表
した後、なお4年間も特許局にいたことになる。
 
 アカデミズムの仲良しクラブに入る気など
ない。
 そう思って、相澤洋二さんの目つきを
思い出してみると、そこには狂気の光がある。

 郡司が自己の起源についてのモデルを
しゃべっているときに、相澤さんが何やら
ノートに書き付けているから、
 終わった後、相澤さん、何を書いていたんですか、
と覗き込んでみたら、
 そこに、「相澤洋二、相澤洋二、相澤洋二、・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と自分の名前がびっしり書いてあったそうである。

 自分が何ものなのか、不安になって仕方が
ないから、名前を書いていたのだそうだ。
 嘘のような話だが、相澤さんを知っている
人は、ああ、なるほどと思うだろう。

 このような人の中に、最良の伝統は息づいている
のであって、
 決して、「オレがアカデミズムだよ」
と大きな顔をして歩いているやつらの中にあるの
ではない。

11月 13, 2004 at 08:01 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/12

Lecture Records

東京芸術大学美術解剖学講議 2004年度 後期第4回
2004.11.11. 愛によって脱落するもの 音声ファイル(mp3, 17.5MB, 75分)

http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

の「芸術」のセクションにあります。

11月 12, 2004 at 07:27 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

おもちゃ屋開業

早稲田大学の相澤洋二さんが還暦になられた
ことを記念するシンポジウム
「カオスとその周辺」の一日目があり、
 西早稲田キャンパスに向かった。

 昼食は、大隈庭園の中の茶室。
 早稲田のキャンパスの横に、こんなに
すばらしい空間があるとは知らなかった!

 三宅美博さん(東工大)や、合原一幸さん(東大)
と、
 こういう施設は私立大学じゃないと持つのは
むずかしいですね、などと盛り上がる。

 合原さんは放送大学の授業をもたれている。
この前、ダンサーの女の人に「先生の授業のファン
なんです」と言われたと言う。
 「ベッドに入って、部屋を暗くして見るんです」
 それって、ぐっすり眠るのにちょうどいいという
こと?
 と合原さん。

 声が心地よくないと眠ることはできません。
 癒し系の声は重要でしょう。

 午後は郡司ペギオ幸夫、合原一幸、・・・
とおもしろいトークが目白押しだったのだが、
 私は芸大の授業があったのでタクシーで
ばーっと移動。
 授業が終わったら、またタクシーでばーっと
戻ってきた。

 ちょうど小松崎民樹さんの「化学反応の動力
学とカオスー現状と将来」の最後のところに
間に合った。
 ふと振り返ると、池上高志も来ている。
 やあ、と手を振って、
 次の島田一平さんの「中心極限定理からみた
保存系のゆらぎ」は全部聞くことができた。

 島田さんのトークは、がちがちのカオスの
話で、
 そうか、池上がもともといたコミュニティ
はこういうところだったんだなあ、と思いながら
聞く。 
 保存系でリアプノフ指数が計算できるか
どうか、というような話。

 懇親会で、「お前のバックグラウンドが
わかったよ」と言ったら、
 池上は、「またお前にいじめられるネタが
増えたなあ」と言った。

 懇親会のテーブルは、郡司幸夫、池上高志、
田崎秀一さんと一緒だった。

 池上は時々良いことを言う。
 話の流れで、「方法論では食えるけど、
テーマでは食えないだろう」という名言。
 確かにそうである。カオスというおもちゃを
発明すれば、
 意味があろうがなかろうが、いろいろ遊ぶ
ことができて、
 沢山の学者が食える。

 だから、今までにない方法論(=おもちゃ)
を発明することが大切ということ。
 ニュートンやチューリングが偉かったのは
おもちゃを発明したからだろう。

 池上とおもちゃ屋開業を誓い合う。

11月 12, 2004 at 07:26 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/11

美術解剖学

本日(11月11日)

東京芸術大学『美術解剖学』講義 
後期第4回

 愛の脳内機構について概説し、愛や美が正の活動だけではなく、負の活動(欠落)によって生じる可能性を考えます。そのことが、芸術の創作、鑑賞に持つ含意を探ります。

15:35 〜 17:00

美術学部 中央棟 第8講義室

11月 11, 2004 at 07:38 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

アインシュタインに感謝する理由

科学をやる醍醐味は何か、ということを
MXテレビの西野淳一さんとの打ち合わせ
で話していた。
 
 一言でいえば、「わからない」ことについて
考え続けることの魅力である。
 この世界の成り立ちの奥に、くらくらと
めまいがするほど美しい秩序があることへの
嗅覚である。

 アインシュタインの相対性理論で、
E=mc2という式が出る。
 左辺はエネルギ−、右辺は質量。
なぜ、まったく異なるものが等式で
結びつくのか? しかもそこに光の速度
の二乗などが入ってくるのか?
 
 1905年のアインシュタインの論文で、
上の式がどのように導かれるのかを読めば、
 どんな芸術も足下に及ばない感動がこみ上げて
くる。
 脳は基本的に快楽主義者だから、
 そのような美、ミステリーを追い求める
「科学者」という人種が出てきても不思議ではない。

 ところが、常に相対性理論のような超ど級の
発見があるわけではないから、人々は
とりあえずわかりやすい所から手をつける
「準備運動」を始めることになる。
 大発見がない時代がずっと続くと、
何時の間にか、準備運動が科学だとだまされる
やつらも出てくる。
 しかし、オレや池上高志のような快楽原理主義者
はだまされない。

 東大の駒場で、ハーバードのMarc Hauserの
話を聞いた。
 チョムスキー一派で、人間の新生児と
猿の比較言語学で有名な人である。

 言葉を時系列としてとらえ、その配列に
チョムスキー流のグラマー(レギュラリティ)を
発見することが言語である、というスタンスから
いろいろな解析をする。

 まあ、そんな解析はできるだろうな、という
ことは、高校生くらいの知性があれば判る。
 しかし、そのどこに言語の本質があるんだ?

 よく言語学者は、これは文法的に許される、
これは許されないという二つの集合へのマッピングを
やるけれど、それを前提にした認知実験を
組んだとして、で、言語の本質に迫れるの?

 言語学のE=mc2にあたるものが、Marc Hauserの
準備運動から出てこないことは、
 火を見るよりも明かじゃねえのか。

 となりの池上に、「でも、お前は力学系
にのせることができるかもしれないから、こんな
研究でもいいと思うんだろ?」
と言ったら、
 「お前いやなこと言うなあ」
と言った。
 それから、「こんなの、つまらねえだろう」
と言った。
 
 準備運動をやって一生を終わるくらいなら、
科学などやんねえほうがましだ。

 ところが、世間では、準備運動を科学だと
勘違いしているプロの研究者、マスメディア、
一般の人々がある。

 オレと池上は立ち上がってMarc Hauserに
文句を言ったが、
 通じたかどうかはわからない。

 オレは、自分の研究室の学生に、これだけは
伝えたい、と思っていることがある。 
 チョムスキー一派だろうが、ハーバード
だろうが、そんな権威はまったく科学の本質と
関係ないのであって、
 つまらないものはつまらない。
 そういう健全な態度と審美眼を保つこと。

 思うに、私たちがアインシュタインに感謝
するのは、彼が勇気をもって際を超えて行って
しまって、
 そこにあった凄まじい真実の姿を
見つけたからじゃないか。

 Oh, there goes Mr. Einstein.
 I must remember to thank him.

 高校生にでもわかるような準備運動ばかり
している科学者などに、誰が心から感謝しよう
などと思うもんか。

11月 11, 2004 at 07:26 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/11/10

メールがなくなった可能性があります。

プロバイダのメールサーバーの不具合により、
昨日私に送られたメールの一部が失われた可能性があります。

もし、私に何か重要なメールを送ったのに返事がない、という方は、
お手数ですが、今一度メールをお送りいただけますでしょうか?

よろしくお願いいたします。

茂木健一郎

11月 10, 2004 at 01:52 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

visual thinkingからちょこちょこありさんへ

「バザールでゴザール」や「スコーン」、
「だんご三兄弟」、「ぴたごらスィッチ」
などのヒットで知られるクリエーター
(慶応大学教授)の佐藤雅彦さんと
築地の事務所でお会いする。

 佐藤さんがアイデアを思いつく時の
内面の描写がおもしろく、
 これは一体どういうことなのか、
といろいろ思いめぐらせる。

 佐藤さんは「わかる」ということが
どういうことか、について大変気にかけて
いらしゃって、
 いろいろ伺っていると、
 そのvisual thinkingの強度が
伝わってくる。

 事務所の近くで、おいしいお寿司を
ごちそうになった。
 佐藤さん、ありがとうございました!

 フィリップ・ロシャ、池上高志
と熱海の温泉旅館に来て泊まる。 
 ずっといろいろ議論していたのだが、
 あまり日記を書く暇がないので、
後で改めて。

 昨日一日メールが止まっていたので、いろいろ
バックログがあり、忙しい。
 熱海の温泉から一歩出た私は、すでに
忙しいちょこちょこありさん。

11月 10, 2004 at 09:36 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/09

本日

朝方から、メールの送受信ができない状態が続いています。

popサーバー、smtp サーバーとして使っている
ホストの不具合のせいです。

お急ぎの方は、茂木の携帯メールアドレスまでご連絡ください。

11月 9, 2004 at 04:06 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

素敵なヒト、かっこいいバー。

ファルージャの「武装勢力」だって、
人間だし、母親もいるだろう。
 「殺さないで。それは私の夫よ」と叫ぶ
ひともいるだろう。

 ブッシュも小泉も、威勢のよいことばかり
言いやがって、自分の親族を戦場に送って
いない。
 そういうやつらは信用しない。
 国家とか、平和とか、そういう大きな文字で
書かれる大義も、結局はプライベートな事情の
積み重ねに過ぎない。
 自分のプライベートは安全圏において
他人のプライベートを犠牲にするやつらの
話を、誰が真に受けるもんか。

 そんな怒りが込み上げる今朝であるが、
昨日は、
 クラブ・キングの桑原茂一さんの「目利き」
で、科学論の米本昌平さんと対談。
 米本さんは、地球環境問題についてのエクスパート
であるとともに、
 最近はゲノムの問題についても発言されているが、
こんなにおもしろい人とは思わなかった!

 書く文章と、本人の印象のギャップが大きい人が
時々いるが、それはつまりプロ意識のなせるわざ
というものであろう。
 
 おもしろさにも、何階級かあるけれども、
米本さんのおもしろさは、ミシェラン6つ星
(あり得ない!)というようなもので、この
レベルに達しているのは、私の知人では神戸大学
の郡司ペギオ幸夫しかいない。

 米本さんのおもしろさは、どうも血筋らしい。

 打ち上げをしたのが、赤坂の「うまや」という
店で、ここは市川猿之助一門の稽古場があるの
だけども、米本さんがいきなり
 「うちのおじいちゃんは道楽者でね」
と切り出す。
 「名古屋に歌舞伎がくると、良く役者を
家に泊めていたんですよ。」

 「借金をして人を歓待するのが好きでね。
駅から家まで、遊びにくる人が迷わないようにと、
桜の木を勝手に植えていたんですよ。」

 「子供の頃、なぜ家に向かう道に桜の木が
あるんだろう、と不思議でね。聞いたら、おじい
ちゃんが客が迷わないように植えたんだって。」

 「駅から家まで、そう、子供の足で20分くらいは
かかりましたかね。今じゃあもう、家の周りしか
残っていないですよ、後は全部切られちゃった。」

 何じゃい、そりゃあ!

 と思わず立ち上がってビールを一気飲みしたく
なるような妙な話だった。

 「私は人に会うのが苦手で、暗いし、引きこもり
みたいなもんなんですよ」
といいつつ、さっきは最高裁の裁判官の再任
審査委員会に出てきたと言ったり、

 「これが今週の予定表ですよ。ほら、これが
今日の対談」と言いつつ、ボールペンでごにょごにょ
と書いた謎の黒丸の印を見せたり、

 その、後ろ暗い性格でありながら、実は
明るい行動主義である、というギャップが
 あまりにもおもしろく、
「やっぱり郡司と似ている!」
と思いつつ、私は本当にうれしくなってしまった。

 桑原さんが連れていってくださった外苑西通りの
HOWLというバーは、あまりにもカッコいいので
しびれた。

 ここのマスターが、苦みばしった鋭い
男で、梅のリキュールを世界で初めて
開発した、と桑原さん。

 最後は、米本さんとふらふら国立競技場前
まで歩いて帰った。
 米本さんは素敵で、HOWLはかっこいい。
HOWLといっても、映画のハウルではありません。

11月 9, 2004 at 07:25 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/11/08

セザンヌのリンゴが脳科学になる日

布施英利さんが新潮社「波」2004年10月
号に書いてくださった
『脳と仮想』の書評が、
新潮社のwebsiteに公開されていました。

養老孟司氏の「ゲーム愛好」についての興味深い
エピソードにも触れられています。

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/470201-3.html

11月 8, 2004 at 08:20 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

世界最大「脳科学会議」で感じたこと

本日(11月8日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年11月21日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第28回

世界最大「脳科学会議」で感じたこと

が掲載されています。

2万8千人が参加する、世界最大の脳科学の会議、
北米神経科学会についての報告です。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

11月 8, 2004 at 06:45 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

空前の科学ブームが来る?

上野の科学博物館の新館がグランド・オープン
したというので、でかけた。
 美しい。特に1階の生物多様性の標本展示と、
3階の大型ほ乳類の標本展示は必見。

 ださい展示も相変わらずあるけれど、だまされて
はいけない。
 五月雨式に、驚くほど美しく心に染みる展示
あり。見るべし。

 なんとなく、近未来に空前の科学ブームが
訪れるのではないかというヴィジョンが浮かんだ
のだが、そのことは、単に私の内面の投影
であったのかもしれない。
 そのことをきちんと説明しようとすると
やっかいになる。

 クオリアの問題に目覚めたのが1994年。
それ以来、ニュートン以降の精密科学では
主観の問題が扱えない、というその一点
だけを気にしていた。

 その過程で、私自身が、科学に否定的な
気分に傾いたことがあったのも否めない。

 複雑系の科学において、重視されている
「一回性」の問題も、統計的真理を扱う
科学ではどうしても扱えない問題に見えた。

 その後、文芸、アート、ビジネスと活動の領域が
広がるにつれて、ますます科学は相対的な
意味しか持たないような気がしていった。

 流れが変わったのは、この数ヶ月である。
 一つには、私が文学やアートという分野の
本質をある程度見切った点にあると思う。 
 私は、だいたいどんな分野でも、それに
慣れて何かを掴むまで、2年くらいかかる。
 クオリアに気がついたのも、脳を始めて
2年めだった。
 芸大で教え始めたり、文芸評論を書き始めて
2年経つ中で、ああそうか、と思い、
 そして潮流が変わった。

 たとえば、凡庸な文学作品の迂遠さが
気になるようになった。
 相変わらず作家になりたい、という人は
多い。
 文学カラオケ化と言われるゆえんである。
 そのような傾向を、何を迂遠なことを
やっているんだ、と思うようになった。
 一部の傑作を除き、文学とは
まさに迂遠な営みではないか。
 よっこらしょと物語を立ち上げ、
一人でああでもない、こうでもないと
紆余曲折し、ああ、疲れた、と終わる。

 アタマの悪いやつらがそんなもんを書いて、
アタマの悪いやつらがそれを読んだら、
どんなに悲惨なこと(=時間の無駄)に
なるか、ということは、火を見るより明か
であろう。

 アートについても、昨日の日記にも書いた
ように、「アートに群がってくる若者」たちの
独特の雰囲気が、現代日本の脆弱さの象徴
であるように思えてきた。
 アートって今来てるよね。
 とりあえずアート好きな私をアピールして
おけば、
 自分の恋愛偏差値が下がるなんてことないしぃ、
みたいな。

 もちろん、文学においてもアートにおいても、
真摯に道を究めんとしている人たちはいて、
結局そのような人たちしか友人として残って
いかないのだけども、両業界のそのような
構造だけは、よく判るようになってきた。

 (昨日の日記を読んで、
 束芋さんから、1月にイスラエルに
行くことに決めた、とメールあり。
椿昇、束芋はマジメにアートを考えている)

 今後、
 オレが何をすべきか、と考えたときに
浮かび上がってきたのがロゴスである。
 経験主義科学では足りない。
 数学主義では足りない。
 感性重視でも足りない。
 ITでも足りない。
 文学でも足りない。
 アートでも足りない。

 単なる経験科学や形式主義数学を超えて、
精神運動をとりわけその主体性においてとらえた
時に立ち上がる一種の論理と倫理。
 それがロゴスであって、そこにはクオリアも
何もかも含まれる。

 ぼくが科学博物館で見たまぼろしは、
そんな未来のヴィジョンで、
 空前の科学ブームが来る、といっても、
単純なる経験科学ではない。

 標本が、美しいアート作品のように展示されている、
あそこに精神運動としての新しい何かの可能性
を見た。
 しかしそれは太古からの伝統でもあるかも
しれない。

グランド・オープンした国立科学博物館の新館で
美しい標本展示に見入るカップル


 肝心なこと。内に緻密かつ美しいロゴスを
秘めている人は、もっともカリスマ的な人で
あるはずだ。
 ソクラテスを思い出せ。
 恋愛偏差値も高いと思うよ。
 見た目とか、雰囲気とか、そういうものに
流されている日本の若者は、単なる大脳切断
生物じゃないのか。
 セクシーじゃないね。単なる動物だね。
 何が、オタク文化万歳だよ。ふざけんじゃねえ。

 科学離れが反転して、科学ブームが本当に
くるかどうか、それは判らない。
 しかし、人間は結局欲望で動く生き物だからね。
 もっともセクシーな人間の在り方が、
 内なる緻密なロゴスの追求だということが
わかれば、
 流れも変わるんじゃないですか。

 現象として見れば、たくさんの人たちがいて、
皆、国立科学博物館の新しい展示にカンドーして
いたようだった。
 ぐぁんばれ、国立科学博物館!
 内なるロゴスの美しさを見せよ!
 なんちゃって作家、なんちゃってアーティスト、
なんちゃってクラバー、なんちゃってお笑い芸人
をぶっ飛ばせ!

11月 8, 2004 at 06:24 午前 | | コメント (1) | トラックバック (2)

2004/11/07

世界の塗り分け問題

有田芳生さんの11月5日の日記にある、
デーヴ・スペクター
から送られてきたというブッシュ関連の写真を
見るべし!

http://www.web-arita.com/sui0411.html

11月 7, 2004 at 08:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

アートにロゴスを。

椿昇さんから、パレスチナに行ってきて
報告会をやるから、来ませんかというメールを
いただいた。

 会場はにしすがも創造舎。西巣鴨駅の近く
で、小学校の校舎を改造してある。

 5月に松岡正剛さんの花・コムでお会いして
椿さんのことはすっかり信用していたので、
行きます! と出かけていった。

 直前まで、新潮社から今度出る「四色問題」
のゲラを見ていた。私が訳の
最終的確認をやることに
なっている。西巣鴨駅に着く直前に見終わって、
北本壮さんがゲラを取りにきた。

 なんだか綱渡りの生活。

 さて、にしすがも創造舎の会だけども、
 タイトルが椿さんらしく、
「自己責任でパレスチナに行こう!」
である。
 生温い世間にがーんと一発のタイトル。

 椿さん曰く「アーティストというのは、
何かへんな雰囲気になったな、と思ったら、
素早く動かなくてはならない。「自己責任」
という言葉が妙な形で使われそうになったら、
それを乾いた笑いに転化しておくことが重要
なんだ」

 また曰く「アンチとか、政治とか、そういう
ものに絡めとられているうちは本当の芸術
表現はできない。人間の本質に降りて
いくことができた時、初めて芸術になる」

 一々同意である。
 パレスチナの人たちのジョークのセンスは
ぴか一だという。
 過酷な現実を乾いた笑いで吹き飛ばす。
 切ない。

 椿さんが今回注目したのは、イスラエル政府が
張り巡らした「壁」に、あたかも向こうの景色が
透けて見えるように描かれた絵。

 椿さんは、このアパルトヘイトの壁を巡らして、
パレスチナ人はもちろん傷ついているけれども、
 イスラエル人も同時に傷ついているんじゃ
ないか、と言う。
 どうもそのあたりに、人間の本性にかかわる
問題がありそうだと。
 そのあたりから、パレスチナの人たちとの
共同プロジェクトを進めるのだそうである。

 壁の上に見える風景に合わせて、もし壁がなかったら
こういうように見えた、という景色を描いた絵を
前に語る椿昇さん

 会場の
人たちが、パレスチナがどうの、アラファトがどうの、
とあの特定の地域のことばかりを言い立てていたのに
対して、椿さんが、「別にパレスチナじゃなくても
いいんだ。重要なのは他者に対する関心を抱く
ことだ」
と言ったのにも激しく同意。

 どうも、個物としての個物にとらわれる
人が多すぎる。なぜ、普遍としての個物をみないか。
 目の前のサンドウィッチは、個物であると同時に
普遍だろう。

 最後に自己紹介タイムになって、私は
掠れ声しかでない状況だったのだが、
 それまでの流れでマグマがたまっていたのだろう、
 「なんでアートに群がってくる若者たちは、
これってアートだよね、みたいなキモチ
悪い雰囲気を醸し出しているのか、なぜ、
日本のアート業界には、ロゴスがないのか」
みたいなことをぶちまけてしまった。

 椿さんはそれに対して聖書や論語などを
引用して見事に反応してくださったのだが、
会場にいた学者さん(漢字をやっている人らしい)
が、「ロゴスを追求するかどうかはその人の
選択でしょう」などといかにも大学の講壇学者が
いいそうなくだらないことを言ったので、
オレは切れて普段だったら機関銃のようにまくしたてる
ところだったが、何しろ声が出ない。

 ぱっ、ぱっ、と短いセンテンスを言うことで
 我慢したが、オレが言いたかったのは、
大学でやるような「定まった」学問には
ロゴスがあって、アートにはロゴスがない、
というようなくだらない話じゃなかった。

 椿さんが、「ロゴスを突き詰めていった後、
これ以上どうしょうもない、という時にアートが
降りてくる」と言ったのだけども、
 その「これ以上どうしょうもない」後に
立ち現れる精神運動も含めて、広い意味での
ロゴスなのである。

 もっとも感性的に見えるアートの中に、緻密な
ロゴスを見る。これ以外にこれからのアートが
進むべき道があるだろうか。

 そうか、オレは芸大の授業で、強靭なロゴスを
持ったアーティスト養成ギブスになればいいのだと、
自分のミッションを自覚。

 声が出ないよ〜、とふらふらしていたら、
本駒込で、「木蝶」という奇妙な店&Cafeを発見。
 おそらく東京でも奇妙さ何本指に入る
のではないか。

http://www.mokucho.jp

 こういうのをセレンディピティと言う。
これからは一つ
セレンディピティを鍛えよう、とノドイタ人間が
思う朝であった。

11月 7, 2004 at 08:17 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/06

11月のかがり火

共同通信から11月2日に配信された
エッセイ「11月のかがり火」です。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/photos/qualiadiary/guyfawkes.jpg

11月 6, 2004 at 07:37 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

新種、ノドイタニンゲン

喉がつぶれた。

 風邪で喉が腫れているところに、
朝日カルチャーセンターの授業で2時間声を
張り上げなくてはならないので、声がつぶれた。

 ダーウィン・フィンチのくちばしの形が、
彼らの歌に影響を与えて、それでメスがオスを
選ぶ性淘汰の様子が変わって種が分化する、
そんな論文をとりあげた。

 声がつぶれたままだと、そのうち
私自身が種分化しそうだ。

 芸大油絵科の蓮沼画伯が、自作の「鳩」
の絵を見せながらぽつぽつと説明した。
 PHPエディターズ・グループの石井高弘
さんが、
 「彼はおもしろかったじゃないですか。
紋切り型のことを言わなかったのがいい」
と言った。
 
 筑摩書房の増田健史さんが、私を脇に
呼び出して、「とっとと仕事をしないと、
うちの若いもんが黙っていないぞ」
とスゴんだ。

 考えてみると、朝カルの後の飲み会には、
さらに筑摩書房の伊藤笑子さん、幻冬社の
大島加奈子さんと、
 計4名の編集者が来ていた。
 考えてみると恐ろしいことである。
 あまり考えないことにしよう。
 
 それやこれやで週末に突入である。

 今思うこと。
 どこか南の島にでもいって、
 バーカウンターでビールでも飲んで、
 それでもってビーチサイドのシートで
しばらくうつらうつらして、
 ふと気がつくと夕暮れであり、
グリーンフラッシュ
が見える。
 ゆったりとレストランに歩いていって、
まずはきりっと冷えた白ワインを注文する。

 そんな時間があればいいなあ。

 さあ、喉痛人間は仕事をすることにしよう。

11月 6, 2004 at 07:27 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/05

美しいと感じる脳 第3回

本日

朝日カルチャーセンター 講座

「脳とこころを考える」 ー美しいと感じる脳ー
(全5回)

第3回 (途中参加もできます) 

午後6時30分〜8時30分 新宿住友ビル48階

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture17.html

11月 5, 2004 at 06:49 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

顔が赤いのは・・・・

喉が痛い、咳がでる、くしゃみがでる。

 これは、いわゆる一つの風邪でありましょう。

 竹内薫が最近愛用しているらしい湘南新宿ライン
で平塚乗り換え、逗子まできた。
 切羽詰まっていたので、グリーン車で仕事。
 となりのおじさんも仕事。
 朝のグリーン車は、忙しそうな人が多い。
 
 佐島マリーナというのは初めてきたが、美しい
ところだ。
 部屋から繋留しているヨットが見え、海の
波に太陽が光る。
 しかし我々は朝から晩まで延々と研究発表、
議論である。

 考えてみると、私たちの研究所には、
暦本純一(ユーザーインターフェイス)、
北野宏明(システム・バイオロジー)
高安秀樹(経済物理学)・・・など、
関連分野で知らないやつは、もぐりだ!
という有名人がいる。

 その他にも多士済々。

 所長の所眞理雄さんや、アイボの
土井利忠さんもいる。

 議論自体が脳内エンタティンメント。
 過密日程も苦にならず。

 しかし、私は議論をし、話を聞きながらも、
なんだか返事をしたり、送ったりしなければ
ならないメールが多くて、ずっと手を
動かしている。

 学生とのやりとりや、取材依頼への返事、
出張関係、出版関係、研究会関係、研究
用資料購入の問い合わせなど、
ジャンルはいろいろである。

 一日のセッションが終わったあと、数えてみたら、
40通、メールを送っていた。
 送ったメールの数をちゃんと数えたのははじめて
だ。

 その間も、風邪は悪化。しかしセッション終了後
午後10時からの飲み会はそれでも出るのだ!
 塩野崎にワインをついでもらって、ソニー本社の
富川さんや夏目さんとわいわいしゃべっていたら、
なんだか顔が真っ赤に。
 茂木さん、顔が赤くなっていますよ!
と言われた。
 きっとそれは風邪のせいだと思います。

 早めに部屋に戻り、ベランダでちょっと
夜風に触れた。
 顔が赤いのがなおったかどうかは知らない。

 海の横だと何だかうれしい。
 風邪の時間も何やら楽しげに。

11月 5, 2004 at 06:39 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/04

感じるものにとっては、悲劇として

2004年11月6日発売の「文學界」
2004年12月号に、茂木健一郎「脳のなかの文学」
連載第9回 「感じるものにとっては、悲劇として」
が掲載されています。

 冒頭抜粋
 
  世界は考えるものにとっては喜劇であるが、感
じるものにとっては悲劇である

 1770年、イギリスの首相ロバート・ウォルポ
ールの一番下の息子、ホラス・ウォルポールは、サ
ー・ホラス・マンに宛てた手紙の中でこのように書
いた。
 この有名な言葉を、私が最初に読んだのは何時だ
っただろうか。世界について立ち上がる良質のメタ
認知が全てそうであるように、そう気が付いて見れ
ば、生まれ落ちた時から、世界は喜劇でもあり、悲
劇でもあったように思われる。喜劇は悲劇を内在し、
悲劇の中には喜劇への契機があるように感じられる。
 ウォルポールは、「オトラント城奇譚 」をはじめと
するゴシック小説の著者としても知られるととも
に、生涯に書いた数多くの手紙が今日でも読み継
がれている。
 実際、ウォルポールの感性には古びることのな
い普遍性があった。1954年、ウォルポールは
二十世紀になって英語圏で広く用いられるように
なった「セレンディピティ」という単語を発明し
ている。サー・ホラス・マンに宛てた手紙の中で、
ペルシャのおとぎ話『セレンディプの三人の王子
たち』を引用して、次のように記したのである
(「セレンディプ」はスリランカの古い呼称である)。
 
 王子たちが旅を続けるにつれて、彼らは常に新
しい発見をした。智慧と偶然により、求めていた
のとは異なるものを見いだしたのである。このよ
うな発見を、私は「セレンディピティ」と名付け
たい。
  
 悲劇と喜劇の関係について、しばしば引用され
る箴言を残し、また、人間の幸運との偶然の出会
いについて、強い吸引力を持つ言葉を創案したホ
ラス・ウォルポールの叡智は、彼の個人的資質に
よると同時に、イギリスという国の文化的伝統に
も根ざしていた。


http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

11月 4, 2004 at 06:03 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

本日休講

本日の東京芸術大学 「美術解剖学」
の授業は、都合により休講とさせていただきます。
 来週は通常通り実施する予定です。

11月 4, 2004 at 05:54 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

二色問題

風邪を引いてしまってグロッキーなのだが、
今日、明日と研究所の合宿が逗子であり、
 朝早く家をでなければならない。

 ブッシュの再選で、こんなに気が滅入るとは
思わなかった。 
 世界を敵と味方に分けて考える単純な
男が、これからオレが46歳になるまで
世界最大の国のリーダーとしていろいろ
仕掛けてくるのかと思うと、憂鬱だ。

 のどが痛い! と思いながらCNNの
速報サイトを見ていると、ブッシュが勝った
州と、ケリーが勝った州がきれいに塗り分けられて
いく。

 大竹昭子さんが、ニューヨークの友人から、
「この期に及んでもブッシュを支持する人がいると
思うと憂鬱だ」というメールが来たと書かれて
いたが、ブッシュというリトマス紙で、
世界は二分化されてしまった。

 先日のイラクの香田さんの件でも、
わざわざ家族に中傷のメールや電話を送る
輩がいる、というのがこの世の中である。
 こちらはブッシュ支持の愚妹を超えた、
品性下劣な振る舞いだ。

 「危険なところに勝手に行ったんだから
仕方がない」
 などとしたり顔で言うおばば、おじじたちよ。
 お前らの心は死んでいる。
 悩みもせず、悟りもしないおろかなやつらめ。
 お前らの曇った目の外で、いろいろな
ことが起こっていることをなぜ見ないのか?

 危険だろうが何だろうがイラクに行ってしまう
やつなんて、オレの周りにゴロゴロしているよ。
 お前らのくだらない「常識」に従わなくって
悪かったな。
 オレの方だって、お前らのしたり顔につきあう
つもりはないから、そのつもりで。
 世界はブッシュやフォックスTVだけじゃ
ねえんだよ。

 おっといけない、
 風邪だから少しおとなしくしよう。

 昨晩放送のNHK教育の番組は、収録がかなり
前で、私自身も何をしゃべったか忘れていたので、
 まるで他人の話を聞くように聞いた。

 関根崇泰が立体視のメガネをかけて登場。
 自分の髪型については、ほんの少し反省する。
 
 こんど、本当にきれいな夜明けを見に行きたいと
ふと思う。

11月 4, 2004 at 05:11 午前 | | コメント (8) | トラックバック (0)

2004/11/03

精神年齢逆行現象

最近、「乳児の世界」
翻訳されたPhilippe Rochatが研究所に遊びにきて、
talkしてくれた。
 池上高志も、フィリップの話を聞きにきた。

 フィリップの話は、相変わらずおもしろかった。
 エモリー大学の人だけれども、今はサバティカル
でパリにいて、自己と他者の関係について本を
書いている。
 来年の9月までは、本を書くことに専念する
とのこと。

 フィリップの実験で、幼児が気がつかないうち
に、前髪にステッカーを貼る、というものが
ある。
 鏡をぱっと見せられて、自分の奇妙な姿に
気がついた幼児は、「ああっ!」という表情を
見せて、急いでステッカーを外す。
 これが第一の実験の結果。

 次の実験では、実験室に来たときから、
実験スタッフも、連れ添ってきた母親も、
みんな前髪にステッカーを貼っている。
 この状態で、鏡をぱっと見せられて、
自分も前髪にステッカーを貼っていると
気がついた幼児は、うれしそうな
顔をして、ステッカーを外そうとしない。
 これが第二の実験の結果。

 一つ目の国にいけば、みな一つ目になりたがる
のだろう。
 ピア・プレッシャーがいかに人間をつくるか、
という話。

 フィリップ、池上高志、それに研究室の
学生たちと五反田の「遠野物語」で飲む。
 久々に、心から楽しいと思える時間だった。

 何が楽しいかって、童心にかえって、たわいもない
ことを言い合うこと以上の歓びはない。
 フィリップもすっかりはめを外していろいろ
なことを言っていた。

 むろん、貴重なエデュケーションの場でもある。
 須藤はちゃんと自分の幼児の言語発達の研究を
説明していたし、
 柳川は心の理論についての議論を吹っかけて
いたし、
 恩蔵はフィリップの研究と自分の関心領域の
関係性について話していたし、
 小俣は何やらごにょごにょ言っていたし、
 みなそれぞれフィリップと有意義な時間を
過ごしても
いたけれども、
 私は池上とフィリップと一緒に、
 ブッシュ批判から日本人の集団気質までわいわい
いろんなことを言ったのが、すげー楽しかった。

 フィリップが日本人の集団気質と言ったのは、
要するに例の日本人には個人的独創性の風土が
欠けている、という筋の話だけども、
 一昔前は「そんなことはねえよ」と反発
していた私も、最近は「まあ、そりゃあそうだな」
とあまり反発しない。
 だって、本当にそうなんだもの。
 一人立つ、という日本人が少なすぎるよ。
 ごちゃごちゃと腹芸ばかりやるやつが
うろうろしてやがって。

 なれ合いの言葉を交わし合うのが
コミュニケーションだと思ってやがる。
 端から見ていて、気持ち悪いこと甚だしい。

 まあ、この国の文化風土がどうであろうと、
オレや池上は勝手にやるから、放っといてくれ。

 と、久しぶりに毒を吐くことからも判るように、
 一気に精神年齢が大学生レベルに戻ったような
気がする。ありがたいのは真の友。洋の東西は
問わない。

 フリーなジャズセッションの燃焼の後の
爽快感を身体に感じながら、フィリップを
タクシーに押し込めてバイバイした。

 4日には大阪で1000人の母親を
前に話すとか言っていたフィリップ。
 googleで調べてみたら、産經新聞と赤ちゃん
学会共催のイベントらしい。

11月 3, 2004 at 08:41 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/02

クオリアで脳に迫る

11月03日(水、文化の日) 深夜(日付が変わって翌11月4日 00:00 〜 00:50)
- 教育テレビ
<教育フェア関連 特集番組>
 小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学
  第2回  茂木健一郎
クオリアで脳に迫る 〜脳科学〜
  深夜0・00〜0・50

 『あったかい』といったような感覚的質感=クオリアは、脳細胞のどのような
物質的反応により生み出されているのか? クオリアの物質的な裏付けを研究す
ることから、人間の意識に迫ろうという脳科学の最先端を紹介。

http://www3.nhk.or.jp/omoban/main1103.html#08

11月 2, 2004 at 10:57 午前 | | コメント (4) | トラックバック (2)

2004年QUALIA 忘年会

2004年QUALIA忘年会(竹内薫FCと共催)を
12月11日、午後2時〜午後4時、
SIGN daikanyama
(東急東横線代官山駅徒歩0分)
で開催いたします。
詳細は下のURLをご参考ください。

http://www.qualia-manifesto.com/qualia13.html

11月 2, 2004 at 09:31 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

アートの最良の現場

 

 ここのところ、例の文脈主義vsクオリア原理
主義の問題から少しずれた問題が気になっていて、
その問題のまわりには、「ロゴス」だとか、
「論理」だとか、「内面」とかがある。

 一つだけはっきりしているのは、
アートも美も、その実体は流通しないものとして
「私」の内側にあるのだ、ということだ。

 目を閉じて自分の内側にあるものに注意を
向けるとき、そこになにやら心躍らせる気配として
あるもの。
 それが本当の美であり、アートであり、
あえて言えば生命の躍動だ。

 その、内なるアートは、ぶるぶると震えながら
形を変え、いつも何やら変貌の気配を漂わせて
いる。

 それに対して、長谷川等伯の「松林図」しかり、
絵だけじゃなくて、モーツァルトの音楽だって
そうだけど、定まった形をとって流通している
ものは、どうも、内面にあるぶるぶるとしたアート
の原型質にピンをぐさっと刺して標本にした
ような気配を漂わせている。

 オルセー美術館に行くといつも同じモネがある。
 これはまさに標本である。

 最近内なるロゴスが気になっているのも、
それが本来のアートの現場であるという
確信が強まっているからだ。

 もし、ある人が、世界の中で生きているうちに、
動き、はたらきかけ、感じ、見て、傷つき、揺れ、
吸い込み、吐き出し、よろめき、走り、立ち止まり、
そして内側にあるロゴスの姿をつくることが
できたとしたら、それ以上の美の達成
はないのではないか。

 もちろん、それは「はい、これが作品です」
と人に見せられるものではない。 
 しかし、それでいいんじゃないかな。
 他の誰にもわからなくても、その人の内面に
確かにある美しいものの原形質がある。
 それが最良の達成なのではないか。

 それに、もしそうなったなら、必ず
外にその残り香が放出されて、
桃李いわざれども、下自ずから蹊(こみち)を成すはずだ。
 ソクラテスも、仏陀も、孔子も、古来
聖人と言われてきた人たちは、その内なる
ロゴスにこそ最良のアートの達成があったのだと
思う。

 そんなことを思いながらも、身体だけは
忙しく動いている。
 重要会議があったので、珍しく白いシャツを
着た。
 学生たちと、北米神経科学会を振り返って
いろいろ議論した。
 ある雑誌の取材を受けて、一時間話した。

 研究所に行きつつ、久しぶりにJames Joyce
のDublinersをひもとく。
 第一話のThe Sistersからしびれる。
 老人が死んだ、という話が書いてあって、
最後の一ページで、彼が教会で間違って
chaliceを壊してから、様子がおかしくなった、
一人で懺悔室に閉じこもり、静かに自分に向かって
笑っているところが目撃されていた、
本当はあの少年のせいだったのに、などというような
ことがさらりと書いてある。

 痛ましくも恐ろしい。chaliceは、人生の何の
象徴か。
 Joyceがこれを書いたのは20代前半で、
出版にはそれから10年かかった。

 しかし、教会にあるchaliceはどんな
形をしているのか、読みながらも曖昧模糊として
変貌し、どうもよく判らない。

 私の人生にはchaliceの標本が欠けているらしい。

11月 2, 2004 at 06:22 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2004/11/01

「当たり前の判断」が人生をつくる

本日(11月1日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年11月14日号

に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第27回

「当たり前の判断」が人生をつくる

が掲載されています。

判断をする時の「司令塔」である背側部前頭前野皮質
の働きを手がかりに、「むずかしい判断」と
「やさしい判断」の持つ意味について考察しています。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

11月 1, 2004 at 05:50 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

文学に対する信頼

 ここのところ、文学というものが迂遠で
欺瞞に満ちた営みであるようにも思え、
 やや信頼を失いかけていたのだけれども、
 九州への行き帰りの飛行機の中で夏目漱石の
『趣味の遺伝』や『琴のそら音』を読んで、
 やっぱり文学というのはいいものだなあと
思った。

 どうも、現代の作品ばかり読んで、気が
滅入っていたらしい。

 家に帰ってうれしかったのは、BBCで
2001年から放送された
傑作コメディ、
The Officeクリスマス・
スペシャル

が届いていたことだった。

 The Officeのシリーズ1、シリーズ2、
と合わせて、リージョン2用のDVDを
イギリスのアマゾンのサイト
で買うことができるから、
だまされたと思って買って欲しい。
 そりゃあ、多少の英語力は必要だが、
もし感じることができ、知ることができる
人であれば、そうか、コメディというのは悲劇
と一体になった深い世界認識なのだな、
という存在の根底に達するような感動が
得られるはずだ。

 The Officeは、アマゾンのレビューを見ても
判るように、すでに現代の古典としての地位を
確立している。
 いいものが出たら、人はちゃんとそれを
評価できるんだなあと思う。
 その信頼がなければ、クリエーターは
やっていられない。
 
 TVのコメディというものが達し得る高みを、
日本人はきっと残念ながら知らない。
 日本にも広沢虎造の「清水次郎長伝」
のような掛け値なしの(悲劇=コメディ)の
傑作があるし、
 若手コメディアンの中には才能も意欲も
ある人がいると思うが、
 TVコメディをシリアスにとらえる
文化的伝統というものがない。

 もうすぐ発売の『文學界』12月号の
「脳のなかの文学」の連載で、The Officeを
中心にコメディについて書いたので、
もし興味を持ってくださった方は読んで
いただけたらと思う。

 The Officeは、漱石、ジョイスに通じる
最良の文学的伝統の水脈に属している。

 私は、良いものへの愛に殉じていれば
いいんだ、と最近は思う。

 
イギリスのコメディ(未完)

11月 1, 2004 at 05:40 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)