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2004/10/26

「科学」という誤訳

夕食にみんなで入ったパブでは、
大画面で大リーグをやっていた。
 判官びいきというのだろうか、「バンビーノの
のろい」でずっと優勝できていないレッド・ソックス
を店内の人たちは応援。

 レッド・ソックスの投手とキャッチャー
がファールボールを追って、落とした瞬間。
しかし試合はレッド・ソックスがリード。


 アメリカの空気には感染しっぱなしで、学会の
合間にほんの少し海辺を歩いて、そこで釣りを
している人たちの格好を見ているだけでも
面白い。 
 しかし、何もアメリカがユニバーサルだなどと
言っているのではない。
 あくまでもアメリカ村の話であって、
 そもそも日本に帰れば、いったんはキレイ
さっぱり忘れてしまって、
 今度は日本村の所与の条件の中で一生懸命
やっていく。

 何かよいものがあった時に、
 いったんは感染して、共感し、同化し、吸収し、
その後、適当な認知的距離感(detachment)を
もって第三の道を行く、というのはどうやら
私のやり方のようだ。

 この1−2年、アート的なものに感染していた
私だけれども、このところ「科学的なもの」
への回帰の気持ちがある。

 ただし、ここに言う「科学」は日本語の
「科学」ではない。どうも、日本語の「科学」
という言い方は誤訳、ないしはあまりにも狭い
概念ではないかと思う。

 美と真理、それに生活知が人生を支える
三大要素だとすれば、
 真理と生活知の間に、本来の「サイエンス」
はあるのではないかと思うのだ。

 アメリカ、という文明の在り方と関係するの
だけれども、「サイエンス」とは、何も実験室
で実験したり、理論を考えたりという
ことだけを指すのではない。
 自分自身の生き方に対して、適切な
認知的距離感というものがあって、
 その距離感の下で、なかば主観的、なかば
客観的にものごとを考え、実行していくのが
サイエンスなのだと思う。

 そのような視点から見れば、実は日本の文化には
まだまだサイエンスは根付いていないのであって、
 しかも滑稽なことに、職業人としてのいわゆる
「科学者」の生活態度がもっともサイエンスから
遠かったりするのである。
 
 たとえば、物や人を効率的に必要なところに
届ける「ロジスティックス」、
 偶有的な出来事にそなえて必要な対処法を
考えておく「コンティンジェンシー・プラン」、
 そして、生々しい人間関係を、そこにどろどろと
巻き込まれるだけでなく、認知的距離感をもって
眺めてみる「ディタッチメント」などが
ここでいう「真理と生活知の汽水域」としての
「サイエンス」に当たるが、
 これは日本にはまだ感覚として根付いていない
ようだ。

 日本で科学離れがどうのこうのと言われる
けれども、それは、そもそも「科学」という
概念の適用領域をあまりにも狭く設定している
からではないか。
 上のような、真理と生活知のむすびつきと
してのサイエンスならば、アーティストでも、
職業的科学とは関係のないおっさんでも、
 渋谷の道玄坂にいるねえちゃんでも、
 誰でも必要ないわば生きるための知恵だし、
 「科学」という誤訳を離れて「サイエンス」
に向かうことで、
 ずいぶんマーケットも広がるのに、と思う。

 何よりも大切なこと。上のような意味での
「サイエンス」を大切にすることは、美に
没入することを邪魔するどころか、むしろ
その前提条件である生活と精神の余裕を
創り出してくれる。
 むしろ、思う存分美と官能に耽溺するための
スペースをサイエンスがつくりだしてくれるのだ。

 どうも日本人は、いたずらに情緒的であるように
思えてならない。
 「グーグル」と「堀江モン」の間の距離は、
 「サイエンス」と「科学」の間の距離と
きっと同じである。

10月 26, 2004 at 01:36 午前 |

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コメント

茂木さんの文章に触発されて
私のサイトの小さなメインコンテンツ
1ページだけの「人間科学」を更新しました。
科学って、こういうことかな?
興味と時間のある方は、ご一読を・・・。

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投稿: 倉本 | 2004/10/30 4:28:07

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