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2004/10/09

軟体動物の哀しみ

 パリで印象派を見て、確かに何かをつかんだように
思えたが、
 わずかな時間で雲のように消えて、あとには不安
だけが残った。

 夜、全日空ホテルであった新潮社のパーティー
(小林秀雄賞、新潮ドキュメント賞)に行く。
 白洲明子さん、白洲千代子さん、有田芳生さん、
養老孟司さん、大竹昭子さん、加藤典洋さん、中沢
新一さん、田沼武能さん、池田清彦さん、といろい
ろな人に会って、話すことができた。
 養老さんには、毎日新聞の書評の御礼を申し上げた。

 楽しかったのだが、パーティーが終わる頃、途轍も
ない不安と寒気に襲われて、なんだかやばい感じに
なった。
 なぜそうなったのか、と自分の無意識を解析して
見ると、こんなことになる。
 
 我々は、人間が作った作品を見ると、それが確固とした
姿をしているように思う。
 そのようなしっかりした世界を信じることが、一つの
生きる拠り所になる。

 だが、現実の人間はどうか? ぐにゃぐにゃとした
軟体動物であり、小林秀雄が川端康成に言った
言葉ではないが、何を考えているのやら、何を言い出す
のやら、何を仕出かすのやら、わかったもんじゃない。
 軟体動物が軟体動物と海の中でぶつかって、
何やらぼうんぼうん、とはじけている。

 私にはパーティーの会場がそのような場に見えて、
自らもまた軟体動物であることは疑いようのないこと
であり、底が抜けた世界で私たちは一体何をやっている
んだろう、と雨の赤坂に考えた。

 まあ、私は一生軟体動物としての生を生きていくの
だろう。
 その中で、真理とか、美とか、友情とか、愛とか、
そういうものにかろうじてすがって精神の安定を
保っていくしかないのだろう。

 さかのぼれば、早朝着いた東京駅で焼き秋刀魚定食を
食べたり、いつかは塩谷賢と行きたいなあと思っていた
「東京温泉」に入って長旅の汚れを落としたり、
 QUALIA東京に行って挨拶したり、
 ゼミをやって、10月下旬からのサン・ディエゴでの
Society for Neuroscienceミーティングの
予行をしたり(なにしろ、我々は6人発表するのだ)、
この軟体動物もあっちにぶつかり、こっちにぶつかり、
世間をふらふらと渡り歩いていたが、
 一日の最後になって、軟体動物たる人間たちの
様を映し出す魂の鏡をのぞき込んで、ぎょっとした
らしいのである。
 
 新潮社の方が、『脳と仮想』の増刷を確認してくだ
さった。
 来週にはできあがるらしい。
 本の方が、生身の人間よりもよほどしっかりしている。

10月 9, 2004 at 09:06 午前 |

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コメント

軟体動物が殻や骨を作る。細胞を超えて、まずは軟骨から?
我々が物事を書き表すって、そういうことでしょうか。
でも、今だからこそ、虫や、脊椎動物が居て、
殻や骨が有効なのが分かるけれど、
自分が作っている殻や骨が有効かどうかは、結局、良く分からない。
たとえ優れていたとしても、世の中もまた、巨大な軟体動物だとすれば、
その場所、その時点では、絶滅の原因ともなりうる。

だから、できるだけ、多くの人で、つるんでみたのが「宗教」?
どこでも再現できるような物事を、かき集めたのが「科学」?
それはそれで良いでしょって言ってるのが養老先生の「唯脳論」?
それじゃ嫌だ、不安だって人が「戦争」とかするんでしょうか?

養老先生って、なんで、不安にならないんだろうって考えてたら、
イメージの中で、たくさんの昆虫がわさわさ、ぴょこぴょこ蠢いた。
もしかして、先生は、信じるほかない膨大な昆虫の詳細を見続けているから、
安心して、軟体動物の格闘に身を投じられるのかな。

投稿: 倉本 | 2004/10/09 16:52:33

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