2004/10/31
宗教とお宗旨
今日の悲劇的結末に至る一連の事態を振り返り、
小林秀雄が講演の中で言っていたことが
あらためて思い出された。
・・・だから、それを簡単に言えば、現代人には
宗教性が欠けているんです。本当の純粋な意味で
ですよ。純粋な意味での宗教的経験というものが
なければ、人生には意味は生まれてこない。宗教
的経験というものは、さっきも言ったように宗派
とは違うんですよ。お宗旨とも違いますよ。そん
なもんは、余計なもんです。こういう純粋な宗教
的経験ていうものから、まず、戦争なんてものは
生まれやしないね。あれはお宗旨から生まれるん
ですよ。人を許さないからね。お宗旨というのは
人を許しませんよ。でも本当に疑っている人は人
を許しますよねえ。悟っている人はもちろんです。
・・・・
上の部分の
mp3 file, 1MB, 約60秒
http://www.qualiadiary.com/kobayashioshushi.mp3
(「信じることと知ること」1976年3月6日より抜粋)
10月 31, 2004 at 09:13 午後 | Permalink
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Lecture Records
2004年10月30日 北九州ひびきの講演
茂木健一郎
〜創造する脳をはぐくむ〜 どこからうまれる!? 『わたし』『こころ』
講演記録 mp3 file (19MB、85分)
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「サイエンス」のセクションにあります。
10月 31, 2004 at 05:54 午前 | Permalink
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柿ピーとビールの夜
講演の中でも触れた通り、
北九州はわたしの母のふるさとである。
子供の頃から、夏休みの度に帰省していた。
小学校2年生の時には、一人で一ヶ月いた
こともある。
親戚の裏山に朝から一人で蝶を採りにいって、
けんちゃんがいない、と騒ぎになったこともある。
涼しい顔で降りてきたので、それからは、
けんちゃんがいなくなったら、裏山を探せ、
ということになった。
会場にはおじさんも来ていてやりにくかった
けれども、無事に講演を終えた。
終了後の昼食は、科学マジックで知られる
田中玄伯さんも一緒だった。
田中さんとは、NHK教育テレビの
「科学大好き土よう塾」の最後の科学マジックの
コーナーでいつも「お会い」している。
収録の時、自分がしゃべり終わってほっと
している時に田中さんのビデオが出るので、
ぐっとそっちに興味を持って見入る。
しかし、実物に会うのは初めてだった。
実直で、良い方だった。情熱と真摯が顔に
表れる。本物だ。
博多に移動しながら、なんとなくここの
所の移動疲れがたまっていることを自覚した。
鉄工所の高炉がかなしい光景に見えた。
ホテルにチェックインして、ほんとうは
評判高い春吉の「たらふくまんま」に行こうと
思っていたのだが、
何となくそんな気分ではないことに気がついた。
しばらく歩きながら探り当ててみると、
中州に歩いていく気分でさえないことを
見いだした。
せっかく博多にいるのだが、どちらかと言えば、
何の変哲もない店で、とんこつラーメンと
餃子をたべればそれでいいや、という気持ちに
なっていることがわかった。
思えばこのところ人と会い、会食し、
移動し、人と会い、会食する。
そんなことばかりの続きだったように思う。
「たらふくまんま」や中州は、
そのような直近の延長のような気がして、
それとは違う何かを求めていたのだろう。
だから、駅前の店で、そうした。生ビールを
飲みながら、思えばこんな時間も最近は贅沢
だわい、と思って、
そのままコンビニで柿ピーとビールを買って、
ホテルにかえってしまった。
ひとり、ベッドにこもって柿ピーとビールを
食らう、
そんな気分がぴったりの博多の夜だった。
10月 31, 2004 at 05:53 午前 | Permalink
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2004/10/30
Isn't it what you are paid for?
家の近くに八百屋さんがあって、時々
買いにいく。
おじさんがおしゃべりな人で、いろいろな
ことを教えてくれる。
この時期はきゃべつはどこから入って
くるとか、
梨は今まではどこから来ていたけど、
これからはどこから来るとか、
こういう寒い日には、何となくみんな
値段が高くてもネギを買っていくものだから、
多めに仕入れていくとか。
素人にはとても想像できないような、
細やかな配慮がそこにある。
しばらく前、丸谷才一が「中央公論」
誌上で、堀江敏幸の「雪沼とその周辺」に
対する谷崎賞の選評でも書いていたことだが、
まさに職業が人をつくる。
小さな子供だったときは、味のないこんにゃく
のような存在だった人が、ある職業について
長い時間を過ごしている間に、次第に味が染まって
いって、
やがてはっきりとした形をとるようになる。
そして、気がつくと、間違いなくその職業
特有のキャラクター、においのようなものを
漂わせるようになる。
そこに人生の喜びもあるし、哀しみもある。
漱石や小津はこのような問題に
敏感だったなあ、と、博多に飛ぶ飛行機の中で
漱石の『趣味の遺伝』を読みながら改めて思った。
漱石を評価しない人がときどき
(文学のプロの中でも)いるが
そういう人は、上のような
人生の哀しみに鈍感な部分があるのかもしれない
と思う。
八百屋さんやパイロット、学校の先生の
職業人生がその人のあり方に影響を与える
というのは見やすいが、問題は、普遍的な
価値に仕えていると自分でも他人でも思っている
人たちである。
学問や芸術に携わっている人たち、具体的に
言えば、大学の先生や、作家、アーティスト、
評論家、キュレーターのような人たちだって、
それは一個の職業なのであって、その職業が
人となりをつくるという点においては、八百屋
やパイロットとかわるところはない。
金をもらわないで、あくまで趣味でやっている
んだったら、大したものだ。
しかし、金をもらってそれで生活しているん
だったら、
だんだんそのことが得意になってきて、
自分の人格と一致するようになっても、
そんなことは当たり前じゃないか。
私も、時々「先生」と言われることがある。
昔はいちいち「先生と言われるほどのバカでなし」
と抗議していたが、
最近は、単に職業のことを言っているんだから、
まあいいや、と思うようになってきた。
さて、本題は、大学の先生、文学者、
アーティストの中に、「一般の人々」を
馬鹿にする人たちが時々いるということである。
表立って馬鹿にしなくても、潜在意識の中で、
自分たちは高級なことをやっている、という優越感を
持っている人たちは多い。
そいつらにオレは言ってやりたい。
Isn't it what you are paid for?
ボランティアでやっているんなら、大したものだ。
金もらって生活のためにやっているんなら、
それが得意になっても、
当たり前だろう。がたがた言うな。
さて、
博多空港で代理店の兼本さん、プロデゥーサー
の下本地さんと会い、
車で「ひびきの」に移動。
ホールの設備をチェックし、
簡単な打ち合わせをした。
八幡と黒崎の間のあたりにある、
ふぐの店に行った。
うまかった。
ちょうど、Bridge the Gapという会議の時に、
Luc Steelsや池上高志らと来た店のあたりで、
「ああ、ここか!」と懐かしかった。
今日の講演会は10時30分から、
ひびきの 会議場メインホールにて。
来場予約者リストを見ると、年齢もばらばらで、
とても学生だけが来る、という雰囲気ではない。
脳について考えたり、脳じゃなくても、
学問をすることを生業(なりわい)と
しているのではない人たちの心へ
届くような話をするように心がけたいと思う。
http://www.ksrp.or.jp/hibikinosai/
10月 30, 2004 at 06:51 午前 | Permalink
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2004/10/29
SFN 2004 -- A Disneyland for Neuroscientists
The Society for Neuroscience Meeting 2004 in San Diego was again a Disneyland for neuroscientists. There were well more than ten thousand participants. The convention center was full of people migrating from talk to talk, poster to poster, their identity feebly accessible through the name tag on the necklaces, except in these Poisson distribution following cases when somebody happened to be one of your acquaintances..........
Continued on
The Qualia Journal.
10月 29, 2004 at 08:18 午前 | Permalink
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成熟した大人から、お子様の役人たちへのメッセージ
天皇陛下は
成熟した大人でいらっしゃる
ね。
国際的な、人間としての常識にも沿っている。
東京都のお子様役人たちは、反省して本来の
仕事をしてほしい。
教育の質を高めるために本当にやるべきことは
なんだか考えてほしいね。
そのために税金で給料払っているんだから。
大体、もともと日本の習俗じゃないだろう。
本当に日本の文化を愛しているんだったら、
もっと物事をきちんと考えろよ。
最低、本居宣長のもののあはれ論くらい
読んでから日本を語ったらどうですか。
10月 29, 2004 at 07:01 午前 | Permalink
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自己というインフラ
芸大に週一回授業に来ることがなかったら、
上野近辺に来ることはもっと少なかったろう。
芸大の授業があるのは実質的には半年
だけど、
その間、自分の青春が埋まっているエリアに
定期的に来れるのはうれしい。
なにしろ、学部4年(理学部2年、法学部2年)、
大学院5年、計9年間本郷にいたから、
鬱屈をかかえて歩き回っていた不忍池
から広小路にかけてのエリアには、いろいろな
思い出が詰まっている。
まさに空間は記憶を収納するメタファーに
なっている。
あの頃、芸大のキャンパスの前は何度も
通ったけれど、不思議に中に入ろうとは思わなかった。
自分の人生とはクロスしないと思って
いたのだろう。
布施英利さんのお誘いがなかったら、
まだクロスしていなかったかもしれない。
池上高志の授業の詳細はmp3で聞いていただく
こととして、
私には、ownershipとagencyの揺らぎが
知覚に本質的な問題であるという池上の
問題提起がとても面白かった。
免疫系とのメタファーもとても良くわかる。
システムがあるからこそ発生するprecision。
池上の言うprecisionの問題は、まさに
私にとってのクオリアの問題につながっている。
つまりは、順序づけも位相も明示的には導入
できないのに、あきらかに「これ」と指し示しが
できるような構造が、intentionalityとして普遍的
に立ち上がる何らかのシステムが、私たち
というもので、
その境界が揺らぐということが本質的である
というのもまた事実である。
visual awarenessを典型的な領域とする
クオリアの生成問題においては、しかし、
池上の言うownershipやagencyの揺らぎと
して明示的にとらえられるsetはむしろ一部分
である。
クオリアは、いわば池上の言う揺らぎとは
一見無関係に見えるような安定領域こそを
本領とするのであって、
そのことを私は考えざるを得ない。
池上の授業が始まる前に、伊東乾さんと
2時間ほど喋る。
初対面だけど、なんとなく共感できる部分が
多かった。
特にリベラルなヒューマニズムを背景した
創造性への決意の部分において。
授業終了後の上野公園の飲み会は、油絵のP植田が
事前に買い出しをしてくれていて、
スムーズに始まる。
布施さんも登場。
なんだか20人以上にふくれあがったんじゃないか。
本当に楽しい時間であるが、授業は年内だから、
休講しなくてはならない日をのぞくと、あと
何回か。
皆は、あのあと、根津の車屋に流れたらしい。
私は金曜までの仕事がいろいろあって、
早帰りして、こうして朝早くから職人に
なっている。
上野公園でみんなで飲む時に見上げる月も
好きだが、
職人モードで内にこもる感覚も好きだ。
今日は夕方九州へ。
10月 29, 2004 at 05:38 午前 | Permalink
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2004/10/28
Lecture Records (Special)
東京芸術大学 美術解剖学講義
特別ゲスト 池上高志
Subtleness, Dynamics, Precision
mp3 file 22.6MB, 95分
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「芸術」のセクションにあります。
10月 28, 2004 at 11:14 午後 | Permalink
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Possibly Lost Mails
昨日(10月27日)の朝から夕刻まで
私宛にいただいたメールの
いくつかが、メールクライアントの不具合で
失われた可能性があります。
もし重要なメールをお送りいただいて私が
返事をしていないものがありましたら、
今一度お送りいただければ幸いです。
茂木健一郎拝
10月 28, 2004 at 08:12 午前 | Permalink
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Lecture Notice
本日(10月28日)
東京芸術大学『美術解剖学』講義
後期第3回
特別講義
ゲスト 池上高志(東京大学、複雑系、認知科学)
15:35 〜 17:00
美術学部 中央棟 第8講義室
10月 28, 2004 at 08:06 午前 | Permalink
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仮象としての世界
私は死刑廃止論者だが、
震災の被害者につけ込んで金を詐取しようとする
輩の心根は殲滅してよし!
と思う。
最近つらつら思うのに、世の中には自分の
社会的な場所とか、出自とか、ルックスとか、
そのようなものに自分のあり方を依拠させる
人たちがいて、
そのような人たちが一貫して私の敵であったし、
これからも敵である、と思うのだ。
私は、そのようなキモチにどうしても
なることができない。
具体的に記すと品が悪くなるので列挙はしないが、
要するに人のうらやむような評価、地位、名誉
を得た人がいたとしても、その人の心がそのことに
依拠してしまって、態度にそれが出てしまった瞬間に、
私はふっとその人に対する興味を失ってしまうの
だと思う。
結局、このような私の志向性はどういうことか、
と説明するのに一番便利なのは、仏教的な仮象の
フィロソフィーだなと思った。
この世の全ては、仮象にすぎない、と心から
思う。
地位や名誉などが実体だと思っているやつは
くだらん。
そのようなことに自分を委ねればならない
魂の卑小な震えには同情しないでもないが、
私の魂の友(ソウル・メイト)では決して
あり得ない。
地位や名誉などが実体だと思っているやつが、
つまりは俗物ということであって、
私の友人たちは、皆、そのようなものが
仮象に過ぎないということを心からわかっている
人たちのように思う。
ただ、だからと言って相対主義には行かないの
であって、
全ては仮象とわかった後で、全ては始まるのだと
思う。
その仮象一つ一つを、職人のように、魂を
込めて作っていく。
それが私の人生でありたい。
飛行機が成田へ向けて高度を下げ、
雲の切れ間から信じられない
ほど美しく太陽の光が差し込んで海の波の上に
明々としたスポットをつくるのを見ながら、
我々の認識は間違いなく生きのびるために
進化して来たが、
その機能主義の王国に美が忍び込んでしまうのは
何故なのだろう、と考えていた。
飛行機という巨大な機械を繰り、巨額の資産と
多くの人々の命を預かっているパイロットの人生と、
自分のこれまでの人生を比べてみていた。
10月 28, 2004 at 08:02 午前 | Permalink
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2004/10/26
ディズニーランドとしての世界
一日の仕事(発表、スライド作り、talkを
聴く、etc....)を終え、
みんなで入ったBlue Pointは、
一年間Salk Institute (here in San Diego)に
いた田森佳秀(現・金沢工業大学)によると、
有名なシーフードのレストランらしい。
私は何よりも、11種類もあるマティーニ
のメニューが嬉しくて、思わず「おい、アペリティフ
はマティーニにしようぜ」と言ってしまった。

関根は赤いマティーニを飲んでいて、田谷は
ブルーチーズの入ったオリーヴ入りのマティーニを
飲んだ。
須藤や小俣が何を飲んでいたのかは把握せず。
張さんはコカコーラ、柳川も車を運転する
というのでノンアルコールビールだった。
私はメキシカンを頼んだ。
上の写真で、それぞれのレシピも読めるはずで
ある。
グラスに入りきれなかった分は、氷の上に
別に持ってきた。このサーブの仕方は初めて
見た。

ワインはチョーク・ヒルのシャルドネ。
カリフォルニアの白はなかなか良い。
私はあと2時間ほどでチェックアウトして
日本に帰るが、学生たちはまだ2日ほどいる。
みんな、学会もオフも堪能していると思う。
最近、大学院で学ぶことは実に深いのだな
と時々思う。
北米神経科学会は、
なにしろ参加者が二万人くらいいて、
ネームプレートを下げてぞろぞろ歩いている。
脳科学といっても、分子からシステムまで
いろいろな人がいるから、
誰が誰なんだか、知っちゃあいない。
有名人でさえ、それは「業界有名人」に過ぎず、
名前のプレートがなければ基本的に判らない。
巨大化した分野の不可視性がそこに表れて
いるけれども、
ディズニーランドのように、全ての個人が
平等に扱われる場所だと思うと、それはそれで
独特の味わいがある。
誰もVIPなどではない。ただ、無名の個人として、
スペースマウンテンやシンデレラ城に列を
作って並ぶ。
あの、ディズニーランド方式が大衆民主主義
の一つの純粋な表現だとすれば、
北米神経科学会は、まさにそのような場所だ。
少数のマスメディアが情報を独占した
20世紀とは異なり、
スモール・ワールド・ネットワークの
インターネットが台頭した21世紀を考える
キーワードの一つは、この「不可視性」と
ディズニーランド性だと私は考えている。
それぞれの村の中に、村固有の論理があり、
目的があり、精進の仕方があるが、
隣の村の人間にとっては、そんなことは
知ったこっちゃない。
地域的な問題だけじゃない。
文学村、科学村、アート村、政治村、
経済村。
それぞれの村の中でエースになるべく
努力することは尊いが、同時に、となりの
村の人間にとっては、お前なんか知らないよ、
というだけのことである。
ディズニーランドに並ぶ一人の無名の
人間に過ぎないと肝に銘ぜよ。
こじんまりとプライベートに、しかし真摯に
取り組むことの心地よさと暖かさが
21世紀のキーコンセプトになるはずだ。
今回は、アメリカ村のスピリットを
堪能しました。
魂のある部分を刺激されたように思います。
ありがとう、アメリカ村。村長選挙の
結果を注目しています。
しばらく、さようなら。
私は、多くの人々が地震で家を失い寒さの
中で震えている日本村に帰ります。
10月 26, 2004 at 08:28 午後 | Permalink
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「科学」という誤訳
夕食にみんなで入ったパブでは、
大画面で大リーグをやっていた。
判官びいきというのだろうか、「バンビーノの
のろい」でずっと優勝できていないレッド・ソックス
を店内の人たちは応援。

レッド・ソックスの投手とキャッチャー
がファールボールを追って、落とした瞬間。
しかし試合はレッド・ソックスがリード。
アメリカの空気には感染しっぱなしで、学会の
合間にほんの少し海辺を歩いて、そこで釣りを
している人たちの格好を見ているだけでも
面白い。
しかし、何もアメリカがユニバーサルだなどと
言っているのではない。
あくまでもアメリカ村の話であって、
そもそも日本に帰れば、いったんはキレイ
さっぱり忘れてしまって、
今度は日本村の所与の条件の中で一生懸命
やっていく。
何かよいものがあった時に、
いったんは感染して、共感し、同化し、吸収し、
その後、適当な認知的距離感(detachment)を
もって第三の道を行く、というのはどうやら
私のやり方のようだ。
この1−2年、アート的なものに感染していた
私だけれども、このところ「科学的なもの」
への回帰の気持ちがある。
ただし、ここに言う「科学」は日本語の
「科学」ではない。どうも、日本語の「科学」
という言い方は誤訳、ないしはあまりにも狭い
概念ではないかと思う。
美と真理、それに生活知が人生を支える
三大要素だとすれば、
真理と生活知の間に、本来の「サイエンス」
はあるのではないかと思うのだ。
アメリカ、という文明の在り方と関係するの
だけれども、「サイエンス」とは、何も実験室
で実験したり、理論を考えたりという
ことだけを指すのではない。
自分自身の生き方に対して、適切な
認知的距離感というものがあって、
その距離感の下で、なかば主観的、なかば
客観的にものごとを考え、実行していくのが
サイエンスなのだと思う。
そのような視点から見れば、実は日本の文化には
まだまだサイエンスは根付いていないのであって、
しかも滑稽なことに、職業人としてのいわゆる
「科学者」の生活態度がもっともサイエンスから
遠かったりするのである。
たとえば、物や人を効率的に必要なところに
届ける「ロジスティックス」、
偶有的な出来事にそなえて必要な対処法を
考えておく「コンティンジェンシー・プラン」、
そして、生々しい人間関係を、そこにどろどろと
巻き込まれるだけでなく、認知的距離感をもって
眺めてみる「ディタッチメント」などが
ここでいう「真理と生活知の汽水域」としての
「サイエンス」に当たるが、
これは日本にはまだ感覚として根付いていない
ようだ。
日本で科学離れがどうのこうのと言われる
けれども、それは、そもそも「科学」という
概念の適用領域をあまりにも狭く設定している
からではないか。
上のような、真理と生活知のむすびつきと
してのサイエンスならば、アーティストでも、
職業的科学とは関係のないおっさんでも、
渋谷の道玄坂にいるねえちゃんでも、
誰でも必要ないわば生きるための知恵だし、
「科学」という誤訳を離れて「サイエンス」
に向かうことで、
ずいぶんマーケットも広がるのに、と思う。
何よりも大切なこと。上のような意味での
「サイエンス」を大切にすることは、美に
没入することを邪魔するどころか、むしろ
その前提条件である生活と精神の余裕を
創り出してくれる。
むしろ、思う存分美と官能に耽溺するための
スペースをサイエンスがつくりだしてくれるのだ。
どうも日本人は、いたずらに情緒的であるように
思えてならない。
「グーグル」と「堀江モン」の間の距離は、
「サイエンス」と「科学」の間の距離と
きっと同じである。
10月 26, 2004 at 01:36 午前 | Permalink
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2004/10/25
北米神経科学会
10月 25, 2004 at 05:33 午前 | Permalink
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2004/10/24
「脳科学から憲法問題を見ると」
明日(10月25日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年11月7日号
に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第26回
「脳科学から憲法問題を見ると」
が掲載されています。
イギリスの憲法が非成文であることの意味を、
人間の知性を支える脳機構の視点から分析し、
ひるがえって日本における憲法論議の問題点を
指摘しています。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 24, 2004 at 11:01 午後 | Permalink
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アメリカ村の空気に感染
夕方、バーガーキングでも探して
ぱっと食べて仕事をしようと思って
北米神経科学会の行われているコンベンション・
センターのあたりを歩いていたら、
携帯に須藤珠水から電話があった。
須藤、柳川、小俣、田谷、関根は一緒の
ホテルに滞在していて、一緒に行動している。
今コンベンションセンターに着いたという
のである。
捕まってはしかたがないので、学会初日
記念として、一緒にガスランプ・クォーターの
コンテンポラリー・アメリカンのレストランに
いった。
Croce's Restaurant & Barハ
という店で、
どうもオーナーはミュージシャンだったらしく、
壁にNational Academy of Popular Music
Songwriters Hall of FameにCroceさんが入った!
という証明書が飾られている。
どうもJim Croceは有名なミュージシャン
らしいが、私は知らなかった。スマン。
http://www.croces.com/
私はニューヨークステーキ、アスパラガス
ソテー添えを食べたが、
今までアメリカで食べたステーキの中では
一番うまい部類に属していた。
満足、満足。
田谷や小俣も、顔を見る限り、
どうやら満足、満足。

満足、満足の(左から)関根崇泰、柳川透
旅することの歓びは、その土地にしか
ない「何か」に触れることである。
アメリカには、間違いなくアメリカにしか
ない「何か」があって、私の身体も
魂も、その「何か」に滞在し始めて
数時間で完全に感染する。
感染することの歓び、というのが間違いなくある。
なんか、こういう雰囲気はいいなあ、と思って
バーのテレビを見るとレッド・ソックス
がワールド・シリーズを戦っていた。
もちろん、その「何か」がグローバリズムという
意味で普遍的ということではない。
世界にはたくさんの村があって、それぞれの
村に固有の文化がある。
アメリカ村にはアメリカ村の文化があるという
だけのことである。
その「村」の文化に、私はいとも簡単に
感染する。
アメリカ村の文化で、私が見習うべきことの
一つと思っていることは、
自分が何をやっていようと、世界には
他にいろいろなことをやっている人たちが
いて、
そのような「外」からの視点にさらされれば、
自分のやっていることは簡単に相対化される。
そんなメタな視点を誰でも持っているように
感じることだ。
日本では、科学者にしろ、アーティストに
しろ、「どっぷり」の人が多く、
あの唯我独尊の感じはどうして生まれる
んだろう、とガスランプ・クォーターを
関根や柳川をからかいながら歩き思った。
私はたまたまいろいろな分野にかかわる人生に
なってしまったから、それぞれの分野で
どっぷりの人の姿がよく見えるようになった
けれども、
気が付いて見るとアメリカという国は、
最初からそういう「外からの視点」を前提に
各個人が活動しているようなところがある。
流動性の高い社会は、そのようなメタな視点
をアルキメデスの支点としなければやって
いけないのだろう。
日本もこれからきっとそうなるよ。
10月 24, 2004 at 10:09 午後 | Permalink
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Welcome to fast food kingdom.
サンフランシスコ空港でトランジットに少し
間があったので、t-mobileのday passを購入
して、インターネットに接続して仕事をした。
アサヒ・コムで知った、新潟の地震。
新幹線が脱線している写真に驚く。
コーヒーを飲もうと、
レストランに入ってコンチネンタル・
ブレックファーストを食べていると、次から次へ
とオバーウェイトの人が入ってくる。
その隣の書店は、ダイエット本がずらりと並ぶ。
デーニッシュ・ペーストリーは甘ったるかった。
バーガーキングでは、皆うまそうにポテトを
頬張っている。
あんなにグリーシーな食べ物ばかり、食べなければ
いいのに。
仕事は、簡単な方はすぐに終わったが、難しい
方は糸がこんがらがって解けない。
疲れたのでトイレに座って、ペンローズの
Road To Realityを読んだ。
そんなことをしているうちに、サン・ディエゴ
行きに乗る時刻が近づいた。
日本時間で朝になる頃になったら、だんだん
眠くなってきた。
10月 24, 2004 at 06:16 午前 | Permalink
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2004/10/23
北九州での講演会
10月30日(土)
10:30〜12:00(10:00開場)
申込要
茂木建一郎
テーマ:「脳のミステリー〜どこからうまれる“こころ”
“わたし”−脳の中の小さな神々−」
概 要:私たちの意識が脳の中のどんな活動から生み出されるかということは、
現代科学の最大の謎の一つと言えます。心のなかにあふれる様々な
クオリア(感覚の持つ質感)に着眼し、脳と心の関係を最新の脳科学の
知見から紹介します。
北九州学術研究都市(ひびきの)メインホール
http://www.ksrp.or.jp/hibikinosai/
10月 23, 2004 at 08:38 午前 | Permalink
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精神の三体問題
北米神経科学会の発表資料を、仕上げる作業。
午前中は会議が二件あり、ランチタイムは
NTT出版の牧野さんが創刊したライブラリー「レゾナント」シリーズの4冊を持っていらっしゃる。
シリーズを立ち上げて、刊行スケジュールを
守って出していくというのは想像以上の
苦労だという。
それはそうだろう。私のように、なかなか
原稿を書かない(書けない)著者がいる。
あれやこれやで、北米神経科学会の準備の
作業が
実質的に始まったのは、午後1時。
何しろ、五件の発表資料を詰めなければならない
ので、果たしてちゃんと終わるか心配だった。
田谷文彦はベテランなので、任せる
ということにして、
真っ先に終わったのは須藤珠水だった。
須藤はレイアウトのセンスが良く、幼児の
前言語的カテゴリー認知の研究をささっとまとめて
いた。
次に終わったのが、意外にも柳川透であった。
学生と研究をしていて、一番うれしいのは、
ぐぐぐとものすごい成長を遂げる時である。
柳川が、ここのところ神経回路モデルの論文を
たくさん読んでいることは知っていたが、
そこで蓄積した知識とセンスをもとに、
質の高い結果とプレゼンテーションを作って
きた。
あまり手がかからなくなった、という意味で、
独り立ちまでもう一歩。
しかし英語力が不足している。
小俣、関根は、結果は面白いのだけれども、
プレゼンテーションの流れや論理で手こずる。
彼らの発表資料作成以外にも、私は仕事を
複数抱えていて、
研究所の大テーブルに陣取って資料に手を
入れながら、
同時に締め切り迫る(過ぎた)仕事をしていた。
精神の三体問題により、なんだかぐるぐる
してきて判らなくなってきた。
実は、小俣の結果というのが、マガーク効果
とダイコティック・リッスニングを組み合わせた
一種の「三体問題」をつくりだすと妙な
精神のリソナンスが生じるというものであり、
「ふふふ、オレも三体問題だわい」
と一人笑ったのは不気味であった。
しばらく研究所の近くの清泉女子大学
に至る住宅地の道を散歩してみた。
美しい午後の太陽の光が、人通りもない静かな
路面を照らし出し、精神はひとときの休息を
見いだす。
「文系、理系」という前時代の遺物の
カテゴリーにとらわれている人間が徘徊している
人間が多い日本では、「科学はオレには関係ない」
と吹聴するのを得意とする困った精神風土が
ある。
しかし、科学とは、要するに「論理」と
「経験から学ぶ態度」ということである。
この二つなしにまともな人生を歩める
と思っている人たちが多いことには正直
驚く。
感性とロジックの結婚の中にこそもっとも
興味深い可能性があるのであって、
オレは感性人間だ、とばかり、ロジックなしで
世界を徘徊している人間は詰まらん。
感性、ロジック、経験。これが精神の
三体問題だ。
さてさて、まだまだいくつかの仕事を
済ませてから、飛行機に乗り込むという
算段になる。
関係の方々へのお知らせ
本日夕方から、27日(水曜日)夕刻まで、
San Diegoへいきます。
この間、メールは読めると思いますが、いつも
より返事が遅くなるかもしれません。
10月 23, 2004 at 04:39 午前 | Permalink
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2004/10/22
Lecture Records
小崎哲哉さんとの対談 (先見清談)
2004.10.21. 文脈主義、視覚優位、芸術、文学
音声ファイル(mp3, 21.8MB, 95分)
東京芸術大学美術解剖学講議 2004年度 後期第二回
2004.10.21. 脳の中の文脈主義、仏教について
音声ファイル(mp3, 18.2MB, 80分)
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「芸術」のセクションにあります。
10月 22, 2004 at 07:49 午前 | Permalink
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+2キロの感謝
お前忙しすぎるから、身体に気をつけろよ、
といろいろな人に言われる今日このごろ。
しかし、ソニーの健康開発センターに
聞きに行った定期健康診断の結果は、
「体重を2キロくらい減らしましょう」
以外はオッケーだった。
日本マーケティング協会の永田仁さんが
打ち合わせのためにいらっしゃる。
ひとしきり、北海道の旭山動物園の
話題。
永田さん、いろいろありがとうございました。
歩くのが何よりの健康法と、早足で
品川に歩く。
芸大の授業は、脳の中の文脈主義について。
色の恒常性(color constancy)や、前頭葉の
DLPFCが意志決定の際にどのように機能するか
ということを話す。
先週に続いて、興福寺の無著、世親の像も
題材として取り上げる。
布施英利さんが授業にいらしていて、
最後にコメントをお願いしたら、
「簡単な決断の時の方がDLPFCが活性化
するということは、実は、簡単に思える決断を
している時の方が、どうしようと迷っている
時よりも、そこに深い何かが現れているのでは
ないですか」
と相変わらず素晴らしくも味わいのある
言葉をいただいた。
布施さんのコメント力は私の知る人の中でも
ピカ一である。
来週の美術解剖学の授業には、池上高志(東京大学)が、
複雑系と認知の話をしに来てくれる予定です。
千代田線で急いで霞ヶ関に移動。
霞ヶ関ビルに来るのは、幼い時に父に手を
引かれて当時日本一のビルを見上げた時以来か。
この程度の高さで日本一かと、
かえってあの頃の時代精神がなんだか懐かしく、
ゆかしい。
REAL TOKYOやART iTを主宰されている小崎哲也
さんがコーディネートされている先見清談。
小崎さんの用意してくださったパワーポイント
に導かれ、いつもとは少し違う切り口で
ものを考え、話すことができた。
小崎さん、ありがとうございました。
終了後の打ち上げには、日本の
パフォーミング・アーツのおもしろいものは
ほとんどプロデゥースされている前田圭蔵さんや、
大竹昭子さんがいらして、
楽しく話すことができた。
前田さん、大竹さん、ありがとうございました。
というわけで、体重がややオーバーなだけで、
今日も無事に過ごすことができました。
世界よ、友よ、ありがとうございました。
明日から水曜まで、元気で
Society for Neuroscience Meeting
(San Diego, California, U.S.A.)に
行ってまいります。
10月 22, 2004 at 07:19 午前 | Permalink
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2004/10/21
Lecture Notice
本日
東京芸術大学『美術解剖学』講義
後期第2回
15:35 〜 17:00
美術学部 中央棟 第8講義室
10月 21, 2004 at 07:45 午前 | Permalink
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もの言わぬものたち
台風の雨や風が強まる中、夕刻、新宿矢来町
の新潮社へ。
小林秀雄全集、全作品集を編纂されている
池田雅延さんに、先日「信じることと知ること」に
関する随筆を依頼され、その「打ち上げ」と
称した飲み会である。
車で神楽坂のうなぎ屋「石ばし」へ。
池田さんは、国文科の卒論が小林秀雄で、
新潮社に入社してすぐに小林秀雄の担当になり、
1983年に小林さんが亡くなるまで、最後の
編集者としてその身辺のあり様を見届けた
方である。

「石ばし」にて小林秀雄の思い出を語る池田雅延さん
池田さんの脳髄の中には、貴重な思い出が
たくさん詰まっている。
そういえば、池田さんの風情自体が、どこか
故人を彷彿とさせるではないか。
「石ばし」は、新潮社が伝統的に打ち合わせに
使っている店だそうである。
他に、白洲信哉さんも来るはずであったが、
鬼の霍乱、ひどい風邪を引いて点滴まで打った
というので、妹の白洲千代子さんが急遽
「兄の代わりに暴れる」といらした。
酔っぱらった信哉さんの誕生祝いの
インディアン・デスロックを受けるか
と覚悟していた私は、ほっと一息ついた。
しかし、風邪を引いた理由が、酔っぱらって
どこかの路上で眠っていて、気が付いたら
朝だった、というのだから心配である。
酔っぱらって水道橋の駅のホームから転落
して助かった祖父(=小林秀雄)ゆずりだとは言える。
しかし、暴れたのは、結局というか
案の定、デザイナーの小池憲治
さんであった。
小池さんは、信哉さんとともに小林秀雄の
「美を求める心」の目録などのデザインを
している。酒を飲んでのゲバルトつながりで
最近、信哉さんとタッグを組んでいるのであるが、
口が悪い、声が大きい、酒は飲む。手に負えない。
日本を代表する評論家、批評家を次々と血祭りに
上げ、あげくのはて千代子さんから、「詰まらない
ものは放っておきなさいよ」とたしなめられる
始末であった。
その上、私がアリゾナの学会に行っていて
いけなかった諏訪の御柱祭が、「良かったよ。
あれを見ていないのは人間とは言えないな」
といつまでもたらたらと言っている。
しかし、愛と男気があるから、嫌みにはならない。
長年、祖父の所に原稿を取りに
来るのを見ていた千代子さんと
池田さんの会話は、しみじみと
したものであった。
最近、千代子さんの夢に小林秀雄が出るのだと
言う。
そして、「お前さんは、どんなものを作っている
んだい」と言って、後は黙っているんだと言う。
池田さんは、「小林先生は、よく、相手の話を
聞いた後で、「お前さんの言いたいことは、
こういうことではないか」と丁寧に言葉を重ねて
おっしゃっていましたが、きっと、先生は、千代子
さんに、お前は何をやりたいのか、よく考えて
ごらん、とおっしゃりたいのではないでしょうか」
と言った。
「先生が、職人がお好きだった、ということの
意味は、よくよく考えてみるべき、大変な問題
だと思います。」
と池田さん。
気が付くと、ゲバルト小池も静かに聞き入って
いた。
静かなり、もの言わぬものたち。
人は、どんな作品を作る時にも、その対象に
魂を込める時、もの言わぬ職人になるのではないか。
10月 21, 2004 at 07:42 午前 | Permalink
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2004/10/20
この世に生まれて
そういえば今日は誕生日でした。
42歳になりました。
10月 20, 2004 at 08:38 午前 | Permalink
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そば屋で魂について考える
NHKに行く時の楽しみは、明治神宮の森を
抜けることであるのに、
いつも、遅刻してタクシーで行く。
失敗から学ばないおろかものである。
論説委員の舘野茂樹さんといろいろお話する。
土曜塾の室山哲也さんは名古屋出張中ということで
お会いできなかった。
舘野さんはアートに造詣が深いのだけども、
昨日は文学の話をした。
夏目漱石、菊池寛、金子光晴が日本における
個人主義を確立したのではないか、というのが
舘野さんの説。
金子光晴はまだちゃんと読んでいないので、
今度読もうと思う。
「視点・論点」(ボディ・イメージ)の
収録を終え、ほっとして、
渋谷公会堂の横のフォルクス
でステーキを食べながら仕事をする。
時は流れ、御成門の青松寺で、仏教者の
南直哉さんとお話する。
南さんは、「意識とは何か」(ちくま書房)を
読んでくださって、最初の数ページでこれはやばい!
と思ったそうだ。
永平寺で修行していた時、科学者が、座禅中の
脳波を取りに来ているのを見て、ふん、こんなことを
やっているうちは、科学は決して意識の謎など
解き明かせないな、と安心していたという
のである。
それが、クオリアというアプローチだけは、
やばい、と思ったというのである。
「茂木さんのクオリアというアプローチは
仏教で言う「正しい道」だと思う。しかし、この
人が果たして問題を解けるかどうか、それは
判らない。いや、むしろ解けない可能性が大きい
のじゃないか、そう思った」
と南さんは言うのである。
南さんとお話していて、ああ、私はこういう
人を探していたんだなあ、と思った。
聖と俗ということを良く言うが、私の言う
「俗」とは、つまり、究極的に言えば底が抜けている
ものにそれと気づかず身を寄りかからせている
態度のことである。
南さんは、きわめて自覚的な仏教者であるから、
たいていのものの底が抜けている、ということを
見据えている。
「私」の底は抜けている。
「世界」の底は抜けている。
「言葉」の底は抜けている。
そのような感覚を共有し、厳しさと歓びの
入り交じった思索を積む、という点において、
南さんの仏教者としてのアプローチには深い共感
を禁じ得ない。
仏陀は、何しろ過激な人だった。しかも生命に
賭けた人だった。精神の生命とは何か? かりそめ
の概念や基盤に寄りかからず、懐疑し、模索し、
解体し、再構築することである。それは南さんの
言うようにきわめて苦しい行為だけども、それが
同時に精神がもっとも生き生きと躍動することなど
だから、それ以外にこの世にやりがいのあること
などない。
仏陀は、結局生きたかったのである。人間精神の
根源的な潜在力において、生きたかったのである。
やがて老い、死に行くという人間が逃れ得ない
根本条件を見据えて、そのまなざしの中で世界を
解体し、再構築したかったのである。
科学者など生きてはしない。
アーティスト気取りのばかどもなど生きてはしない。
ネット企業の社長など生きてはしない。
つまり、それが「俗」ということだ。
こんなことを書いたとしても誰にも感謝されない
のが現代だと思うけれども、
そんなことを考えざるを得なかった、南さんとの
充実した対話の時間であった。
「考える人」の次号(12月28日発売)に掲載される予定。
英文による記録は、
To share the problem, not the answer.
Qualia Journal
虎ノ門砂場で、新潮社の北本壮さん、金(キム)
さんとそばを食べながら懇談。
伊坂幸太郎さんが以前の私の日記(8月16日
付)を読んでショックを受けた、ということを
伊坂さんの担当編集者が言っていた、と北本さん。
私は動揺して、そばの味がわからなくなった。
伊坂さん、ごめんなさい。伊坂さんの小説が
完成度の高いものであるということはあくまでも
前提として、あの時は現代というものを論じた
わけで、他意はありません。
今度機会があれば南さんと3人で現代における
人間の魂の問題について話してみませんか。
その時、酒とそばがあればなお良し。
みなさん、台風が近づいて来ているので、
しみじみと魂の問題について考えるにはちょうど
良い雰囲気です。
10月 20, 2004 at 07:51 午前 | Permalink
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2004/10/19
視点・論点
番組のお知らせ
2004年10月19日(本日)
午後10時50分〜午後11時
NHK教育テレビ
視点・論点 茂木健一郎
「ボディ・イメージ」(予定)
10月 19, 2004 at 08:54 午前 | Permalink
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Bar Radioで見たまぼろし
何ともはや仕事に追われていて、
本厚木で3時間講演する仕事の行き帰りの
ロマンスカーの中でも、ひたすら仕事を
していた。
それでも間に合わない、終わらない。
周知の通り、下りのロマンスカーの中は、
行楽気分の人たちであふれている。
どうやら外国人と結婚して金髪の子供を
産んだらしい女の人と、そのお母さん
らしい人が「これから温泉に行く」という
気配を放射しながらはしゃいでいる。
こっちは温泉どころではない。やることが
あり過ぎる。
ここのところイギリスのことを懐かしく
思い出すモードになっているのであるが、
一つのモティーフとして、「経済性の
追求」ということがある。
かの国の文化には「見えざる手」の
アダム・スミス、「進化論」のチャールズ・
ダーウィンらを始祖とする経済性原理の思想が
脈々とある。
「余剰人員」という意味でもあるredundancy
という言葉は、科学的概念としても用いられ、
いかにredundancyを減らすかということが
人生の一大命題であると硬く信じる人たちが
いる。
しかし、こう忙しくなってみると、redundancy
節減の原理というのは、実は人生を美しく
生きるための原理でもあるなと痛感する。
やらねばならないことを最大効率でやる。
効率に美が宿る。そして、仕事が終われば
親しき仲間との懇談の時間がある。
というわけで、やっと仕事が終わった午後7時、
久しぶりに桑原茂一さんにお会いした。
それで、むくむくとコメディに対する野心
というか欲望が復活してしまって、
そうだ、イギリスではコメディの名作というのは
BBCでやるもんじゃないか。
桑原茂一的アブナイコメディを、NHKで
やるわけには行かないものか。
日本の笑いのミームの中に、是非政治的
アウェアネスを持ち込みたい。
そんなことを吉村栄一さんとともに喋っていた
Bar Radio。
電通はNHKには話は持っていけません、
と佐々木敦部長。
Bar Radioのカクテルブックという本を、
大学院生の時に熱心に眺めてレシピを覚えて
いた私だが、
桑原茂一さんに連れられて実際に行くことが
できたのは
それから十数年後であったとは。
実に歳月は流れて行く。
グラスがとても美しい、素敵なバーではあった。
しかしどこなのか、よく判らない。
10月 19, 2004 at 08:48 午前 | Permalink
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2004/10/18
ペンローズのことを思い出して
素晴らしい秋晴れだった。
こんな日に仕事ばかりしていても、と思った
ので、ちょっとふらふら歩いた。
秋の散歩にはイメージがあって、本当はススキの
穂の揺れる道を歩きたいが、なかなかそういう訳に
もいかない。
ススキに陽光がキラキラと光り、赤とんぼが
すいすいと飛ぶ。
そんな光景に出会えたら、それだけで他には
何もいらない。
どうも先週は人間の中の俗物性に当てられたなあ、
と思う。
自分の中にも俗物性がないわけではないが、
それをむき出しで出してくる人は、どうも苦手だ。
というよりも、心を深く傷つけられる。
俗物の定義は、迷いも悟りもしないということ
だろう。
犀の厚い皮のごとくグイグイとその無骨な
心性を人に押しつけてきて、平然としている。
爆発すれば済むことだが、相手を思いやる気持ちが
あるので、ついついこちらが我慢することになる。
それで、魂が腐食を受ける。
どっちがエライとか偉くないとか、
オレはあいつより知識を持っているとか、
そういうことばかり気にかけている
人は魂の腐臭を漂わせている。
気が付くと東京にはそういう人が案外多い。
そこへ行くと、ロジャー・ペンローズなぞは
本当に立派だなあと思う。
この世界が誰のものだって、知識が誰のものだって、
そんなことは気にしない。
世の中に、おもしろくて、美しいものがある、
ただそれだけだ。
あのディタッチメントの気配は、そう簡単に
出せるものではない。
ケンブリッジでペンローズと喋った二日間は、
今思い出しても幸せな時間だった。
http://www.qualiadiary.com/penrosecambridge.html
10月 18, 2004 at 07:32 午前 | Permalink
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2004/10/17
「小泉改革を脳科学から見れば」
明日(10月18日)発売のヨミウリ・ウィークリー
2004年10月31日号
に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第25回
「小泉改革を脳科学から見れば」
が掲載されています。
人々に新しい可能性の探索を促す上での
「心理的安全基地」の必要性を論じています。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 17, 2004 at 06:22 午後 | Permalink
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ポマードのにおい
最近、丸谷才一が気になっている。
青年期以来、何となくその中庸主義のような
匂いを敬遠していたのだが、
最近朝日新聞で読んだいくつかのエッセイがとても
良かったので、
「丸谷才一は実はいいんじゃないか」と
思うようになった。
中庸が、知的な成熟のしるしであるように思えて
来たのである。
中央公論2004年11月号に掲載
されている谷崎潤一郎賞の選評で、堀江敏幸の
「雪沼とその周辺」を評した文章も良かった。
「とりわけ職業生活からはいって行って作中人物を
とらへようとする態度に共感を禁じ得なかった。
これは近代日本小説が私小説中心に進んで来たせい
でとかく怠りがちだつたことで、作家たちは一種の
藝術家小説を書いてゐるといふ遁辞を心のどこかで
構へながら、しかし藝術家といふ職業を描くことも
しなかった。まして他の稼業については、視界の
外に置く態度が支配的だつたと言ふしかない。しかし
生計を立てる手段は、個人と共同体のいはば切点
である。その大事なものを曖昧にしたため、一般
に社会は作中人物たちの背後を取囲まなくなり、
従って人生の味が淡くなつた。」
人は、その占めている社会的ニッチによって、
知らず知らずのうちに独特のにおいを放つ
ようになるものである。
科学者のにおいは前から知っていたが、
最近は、芸術家やキュレーターのにおいも
よくわかるようになってきた。
そうなると、美術業界というものが見えて
くるようになる。
ある個人のもともとのユニークなにおいが、
職業柄、ニッチ固有のにおいと混ざって、独特の
風合いを出す。人間というものはおもしろい
ものだと思う。
子供の頃、一人で留守番している時に、
頭をポマードで固めたセールスマンが来て、
その相手をしなくてはならないことがあった。
「セールスマン」という職業に従事した
時間が長くなるほど、その人から
漂ってくる人格のにおいのようなもの。
それが、ポマードであるように思えた。
小説家や、アーティストの描く人間は、往々に
して自分たちのようなニッチを占める人間の独特の
においを漂わせているだけであって、
普遍的な人間を描けていないことが多い。
人は自分の置かれたニッチのにおいから逃れる
ことはなかなか難しい。
お昼に餃子を食べて、にんにくのにおいをぷんぷん
させていても本人が一向に気づかないように、
自分のにおいを客観視し、また他人のにおいを
描けるためには、高度に知的なディタッチメント
(乖離感)が必要である。
丸谷才一や堀江敏幸は、おそらく、そのような
ディタッチメントを行うだけの知的胆力を持って
いるのだと思う。
自分の感性を盲目に信じすぎると、
その人は自分のにおいの中に、世界を見失う。
ポマードのにおいを漂わせないためにも、
人は惑い、行き交わなくてはならないのだ。
10月 17, 2004 at 09:31 午前 | Permalink
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2004/10/16
雑草の小世界
ベランダの「白侘助」(しろわびすけ)という
椿の鉢の根元には、カタバミその他正体不明の草
たちが生えている。
いつの間にか種が飛んできて、勝手に生えた。
根の枝分かれの一つには、アリの巣があって、幹を
登り降りしている。
時には、アリのために少しヤクルトを少し、
白侘助の下にこぼしてやる。
気が付くと白い小さなキノコが生え、何時の間
にか消えている。
現実逃避したくなると、しゃがんでその小世界
を見る。
何時まで経っても飽きないような深みがそこには
確かにあるのだ。

10月 16, 2004 at 07:28 午後 | Permalink
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The Qualia Journal
Vol. 1 (9th October to 16th October 2004)
Hello World
The Paris visit
The Brain and Imagination
UBIQUITOUS IMAGES
The last one meter of digital information network
Declaration of Qualia Fundamentalism
Against Contexualism
The Individual and the Universal. In Appreciation of Muchaku.
http://qualiajournal.blogspot.com/
10月 16, 2004 at 11:24 午前 | Permalink
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忘れちまいました。
人間は、生きていくうちに、いろいろな
ことを学んでいくものだけども、
時には、そんなもん全部忘れちまえ、と
思う。
忘れるといっても、もちろん、脳の中には
記憶(痕跡)が残っている。
だから、忘れるということは一つの態度で
あって、消去ではない。
SMAPの視聴率は世間では20%
かもしれないが、オレは出た瞬間に消すから
0%だ、と嘯いている。
しかし、キムタクが現代日本のある部分を
表していることは否定のしようがない。
街の中で出会うあの人、この人の中に、確実
にSMAPのバラエティ番組に感応する心はある。
あるもんはあるんだから、否定しても仕方がない。
別に自分はコミットしないが、ああ、そういう
ものがあるんだね、ととりあえず一瞥を与えて
おくしかない。
パリの印象派のように、自分たちの等身大の
生活を美的に是認することができたらいいなあと
思う。
里山の柿は美しいが、現代日本の等身大の生活は
哀しすぎる。
等身大のアーティストが愛知万博のフミヤでは、
泣いても泣ききれない。
しかし、もちろん、街の宝くじ売り場の前に、
渋谷のセンター街に、たくさんのフミヤがいること
も否定できない。
忘れることの効用を思うのは、そのような
時である。
はて、私はどんな国に住んで、どんなマスメディア
の中の文化を目撃して来たんでしたっけ?
私はもうすっかり忘れてしまいました。
昨日何があったかも忘れてしまったけれど、
朝カルの後の飲み会に増田健史が乱入してきて、
「茂木さん、文學界の連載でドストエフスキー
を書かないと意味がないじゃないですか」
と言ったことは、
そのひんやりとした刃の感覚とともに覚えて
いる。
10月 16, 2004 at 09:42 午前 | Permalink
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2004/10/15
美しいと感じる脳 第2回
本日
朝日カルチャーセンター 講座
「脳とこころを考える」 ー美しいと感じる脳ー
(全5回)
第2回 (途中参加もできます)
午後6時30分〜8時30分 新宿住友ビル48階
http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture17.html
10月 15, 2004 at 07:37 午前 | Permalink
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生成の場としての日常をこそ
『ユリイカ』の特集に評論を書く関係で、
日比谷の東宝本社の試写会で『ハウルの動く城』
を見る。
冒頭、動く城の造型からぐっと惹きつける。
全編、視覚的おどろきの連続で、良質の
エンタティンメントとなっていた。
木村拓哉が声優をやっているのはどうなんだ、
とか、いろいろな議論はあるだろうが、
そんなことがあたかも重大事であるかの
ように論ずるのは、映画作りにかかわった人たち
に失礼だろう。
宮崎駿のアニメーションは、主人公の女の子
に象徴される、ある人間の姿を描いている。
それが、いかにも昭和の日本でしか生み出されない
やさしい弱々しいしかし芯に強さを秘めた人間の
姿であるということに、私は心を打たれ、
痛々しくも感じ、しかしそれでいいのだと思った。
アメリカン・コミックのヒーローは、また
別の姿をしている。
フランス映画の主人公たちは、イギリスの
コメディの登場人物たちは、また違った姿を
している。
宮崎さんの映画に出てくる人物たちは、きっと、
昭和の日本でしか生み出されなかった姿を
している。
私たちを映し出す等身大の鏡である。
『ユリイカ』では、ファンタジーの質について
書いてみたいと思う。
芸大の授業の後期第一回。
クオリア原理主義と文脈主義についてレジュメを
用意したが、
まずはみんなに夏休みに見たものについて
一人一人紹介してもらった。
一人一人から生成されるものの新鮮な
香りに驚く。
レクチャーの、
最近の理想像は、ディスクール(議論)を生き生きと
活性化させる場であることである。
人は自らの内部から何かが生成される時に
もっとも深く学ぶのだと思う。
そのような、良い意味での触媒たらんと
思う。
授業の後の上野公園の飲み会に布施英利さんも
いらっしゃる。
おしゃれな帽子をすっと公園の石ベンチの
横において、
学生たちとの談論風発に加わった。
いつか、なつかしくも
美しい生成の場として思い出されるような
日常をこそ。
10月 15, 2004 at 07:34 午前 | Permalink
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2004/10/14
Lecture Notice
本日
東京芸術大学『美術解剖学』講義
後期第一回
15:35 〜 17:00
美術学部 中央棟 第8講義室
10月 14, 2004 at 07:51 午前 | Permalink
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心に浮かぶ姿
レクチャーの後、質疑応答になった時に、
それが一般的な、ばくぜんとした質問だった時には、
それはアメーバのような姿をしている。
その人の最も内側から出た、よく考え抜かれた
私自身も気づかなかった点に触れている質問の時は、
森の中で突然出会った鹿のような若々しく
弾性にあふれた姿をしている。
このところ、創造性について話す機会が多く
なって、そんなことを思う。
品川シーサイドに行って、3時間創造性
について話した。
青物横丁から帰ろうと思うが、
駅の方向はよくわからない。
しかし、地図など見なくても、夕暮れの街は、
ある決まった方向に歩くスーツ姿の人たちで
あふれていて、
その流れに入れば、どうやら駅に向かうらしい。
駅が近づいたかな、と思う頃、細い路地に
飲み屋が並んでいるのが見えた。
青物横丁のような、ターミナルからちょっと
郊外に向かった駅で仕事をし、
夕暮れ時に帰る。
そんな時、飲み屋の明かりがあかあかと
心の中に飛びこんでくる。
そんな毎日のことを思った。
父が定年で退職したあと、仲間たちと
東京で飲んでいて、
ふと、そうか、父にもそのような「黄金時代」
があったのだな、ということを思った。
マクタガートのA系列だろうが、B系列
だろうが関係なく、時間は流れ、戻ってこない。
自分もそのような流れの中で押し流されていて、
ふとメタ認知が立ち上がった瞬間の感触は
決して忘れない。
そのような時に浮かんでくる表象は、
夕暮れに輝く黄金の塔のような姿で見える
ことがある。
『脳と仮想』について、韓国の出版社から
翻訳出版のオファーが来たと新潮社の北本壮
さんから。
ヨーロッパにいるとばかり思っていたけども、
いつの間にか東京に帰ってきていたらしい。
ハングルの『脳と仮想』ができあがったら、
それは韓国語を勉強する良い機会かもしれない。
10月 14, 2004 at 07:29 午前 | Permalink
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2004/10/13
意味で脱落するもの
英語で喋る予定だったが、日/仏の翻訳だというので、
仕方がないので日本語で喋った。
通訳を通してしゃべるのははじめてだ、と思って
いたが、
考えてみると1992年にニームであった
会議で通訳がいたことがある。
もっとも、あれは英/仏だった。
同時通訳の人たちというのは優秀で、イヤフォン
で聞いていると、ちゃんと同時に意味がわかる。
それでも、同時通訳はイヤだな、と思った理由は、
ちゃんと理屈付けるとこういうことになる。
誰かの話を聞く楽しみは、言葉の意味はもちろん、
その人のキャラクターのようなものが伝わって
くるところにある。その生の躍動を味わいたいの
である。ところが、通訳だと、意味はわかるけど、
その人の脈動は伝わってこない。それがイヤだと
身体が言うらしい。
となりに座ったのが、ヴァーチャル・リアリティ
研究で有名な廣瀬通孝さんだった。
私も落ち着かない方だけども、廣瀬さんも
いつも何かやっている、という感じで、そのうち、
携帯電話をいじりはじめた。
それで、ご自分の携帯の番号を、
液晶ディスプレーの上に貼ってあるのを
目撃してしまった。
自分の携帯番号は聞かれるとまごつくものだ。
小さな、しかし大きな工夫かもしれない。
シンポジウムは、時間切れでディスカッションが
全くできず、消化不良。
廣瀬さんはフランス大使館でのレセプション
へ行く、と言われてたけれども、
私は、次にまた話す仕事があったので、後ろ髪
を引かれる思いで失礼した。
今週の木曜日から芸大の授業が再開する。
文脈主義vs クオリア原理主義の問題を、少し
体系的に論じてみたいと思う。
10月 13, 2004 at 08:15 午前 | Permalink
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Don't let the context kill the life in you and the arts.
日仏学際シンポジウム
講演 2004年10月12日 慶応大学
Don't let the context kill the life in you and the arts.
(講演は日本語)
音声ファイル (mp3, 5.2MB、11分33秒)
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「芸術」のセクションにあります。
10月 13, 2004 at 01:07 午前 | Permalink
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2004/10/12
無事
念のため塩谷の家に電話したら、本人が出た。
ピンピンしていた。
しかし、今日人間ドックの結果を聞きに行くのだそうだ。
10月 12, 2004 at 09:02 午前 | Permalink
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文系、理系よサヨウナラ。
もう大分前から、世間の人がいう「文系」
「理系」という言葉の意味が一向にわからず、
そのようなカテゴリー分けに全くリアリティが
なかったのだが、
さっきチョコバットを食べながら仕事を
している時に、突然違和感の出所がつかめた。
おまえら、学校で教わったことしか勉強
していないのか?!
文系、理系というのは、単に大学のカリキュラム
の問題だろう。
それで人間が分類できると思っているということ
は、要するにカリキュラム以外の勉強は自分で
はしない、という意味なのでしょうか。
別に興味を持てば、量子力学でも経済学でも
フランス文学でも勝手に勉強すればいいじゃん。
それとも、カリキュラムにあって、手取足とり
教えてくれるものじゃないと勉強できないわけ?
受け身の世界観だと思えば、そういう言葉を
好んで使う人たちの性根もわかったように思う。
何事につけ、自分で道を切り開いていくことを
よしとするアメリカ人が恐らくそのような
カテゴリーわけをしない意味もわかったし、
そんなカテゴリーわけにつきあう必要がない
理由もよくわかった。
文系、理系よ、サヨウナラ。
10月 12, 2004 at 05:42 午前 | Permalink
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目覚め
園芸店に行って、デンマークカクタスを買って
きた。
とは言っても、それを目指して行ったのでは
ない。
棚の上に並べてあったので、そういうものが
あることを知ったのである。
ピンクの花をちらちらと見やりつつ、
長いペナントレースで一位になったチームが
下位チームに負けるプレーオフというのはやはり
腑に落ちないなと思いながらビールを飲んでいた。
妙な夢を見た。塩谷賢と久しぶりに
話し込んでいた。
ホテルのバーである。
何かをやっていて、大変調子がよい時がある。
何かにとりつかれたように、あっという間に仕事が
終わることがある。
しかし、そんな時は「私」が失われている。
むしろ、「私」が感じられるのは、うまく行かない
時、失敗した時ではないか。
このことを哲学的にどう思うか。
そんな話をしていたら、
塩谷が突然止まって、うーんとこけた。
真っ白な顔をして倒れている。
これは救急車を呼ばないと大変だと思って、
ホテルのフロントを呼んでくれと頼むが、バーの
カウンターの中の人間は取り合ってくれない。
ふざけやがって、と怒りながら、携帯電話
で一生懸命119番にかけようととするが、うまく
番号が押せないところで目が覚めた。
時計を見ると、午前4時で、ちょっと生々
しかったので、テレビをつけると杉崎美香という
アナウンサーがニュースをやっていた。
そのまま、4時30分まで杉崎美香を見た。
地震じゃないんだから、ニュースでやっている
はずがないが、
動揺している時は精神が普段と違うことを
求めるらしい。
精神感応とか予知夢とかそんなことは本気では
信じていないからこんなことが書けるけれども、
もし塩谷が同じ時刻に倒れていたりしたら
私の世界観も変わるだろう。
夢というのは必ず伏線があるもので、前夜、
ちょうど自己(セルフ)の成り立ちについて考えて
いた。
また、私を怒らせたホテルのスタッフは、どうも
西武系(プリンス系)らしい。
そのように前夜の現実の体験と脈絡が付くの
だけれど、
塩谷の横になった姿だけが唐突だった。
まあ、それだけ、無意識のうちに親友のことを
気にかけているということだろうか。
近々、一緒に酒でも飲むことにしよう。
10月 12, 2004 at 05:28 午前 | Permalink
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2004/10/11
「久家さんの写真の上に、桜の花びらを一つ落とすこと」(2003)
10月 11, 2004 at 01:25 午後 | Permalink
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クオリア原理主義宣言(2004)
10月 11, 2004 at 11:09 午前 | Permalink
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脳の中の人生 第24回
ただいま発売中のヨミウリ・ウィークリー
2004年10月24日号
に、茂木健一郎 「脳の中の人生」 第24回
「他人に注意する「快感」の意味は」
が掲載されています。客観的に見た利他行為と、
心理的に見た利他行為の乖離について論じています。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 11, 2004 at 08:37 午前 | Permalink
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子供にしか見えないもの
先日、京都精華大での講演会の後で、あいさつに
こられたのが橋本露亜さんで、福音館の編集の方だった。
そのあと、福音館の小学生向けの雑誌「おおきな
ポケット」と絵本を数冊送ってくださった。
日曜の午後、
小雨の中走った後、ソファでゆったりと読んだ。
それで、最近気になっていることをまた思い出した。
子供の方が大人よりも仏性に近い、という思想の
ことである。
ベルグソンが、記憶というのは脳の部位に物質的
に記録されているのではなく、ただ、運動と結びついた
想起の契機が失われるだけだ、という説を唱えている
ことは知っていて、以前から気になってはいるが、
きちんと考え詰められていない。
そのベルグソン説と共鳴する回路で、子供の方が
賢い、ということがどうも気になる。
谷川俊太郎は相変わらず理屈っぽくって、詩という
よりは散文のように感じるが、
(まさにTVコマーシャル向きだ!)
ユリー・シュルヴィッツ作・画の「よあけ」という
絵本は、なんだかしんみりと夜の静寂を感じてしまって、
「子供の方が賢い」「もの言わぬものの
方が賢い」という感覚が魂にストレートに届いて
くる気がした。
その賢さを、大人の知性に至る通過点、転回点
としてとらえるのではなく、むしろ子供の時にしか
接することのできない、彼岸の淡い気配のような
ものがあるという文脈でとらえる時見えてくるもの
は何だろうか。
このことをきちんと説明しようとすると実は
とてつもなく難しいし、ひょっとしたら心脳問題の
核心にかかわるポイントではないかと思う。
パリから買ってきたチョコレートがおいしくて、
どうも食べ過ぎる。
10月 11, 2004 at 08:29 午前 | Permalink
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2004/10/10
日仏学際シンポジウム
2004年10月12日(火) 慶應義塾大学 三田キャンパス 東館6F G-SECラボ
ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学 13:30 - 18:00 (同時通訳付)
ニュ−メディアの美学 (13:30 - 15:30)
パネリスト: ニコラ・ブリオ(パレ・ド・ト−キョ−現代創造センタ−館長)
アンヌ=マリ−・デュゲ(パリ第1大学教授、芸術・哲学)
ジャン=ピエ−ル・バルプ(パリ第8大学教授、デジタル文学)
ドゥ・ジェンジュン(ア−ティスト)
石田英敬(東京大学教授、哲学)
前田富士男(慶應義塾大学教授、アートセンター長)
ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学 (16:00 - 18:00)
パネリスト: ダニエル・アンドレ−ル(パリ高等師範学校教授、認知科学)
コルコズ(ア−ティスト)
茂木健一郎(ソニ−コンピュ−タサイエンス研究所、認知科学)
廣瀬通孝(東京大学教授、バ−チャル・リアリティ)
渡辺茂(慶應義塾大学教授、心理学)
岡田光弘(慶應義塾大学教授、哲学)
大森貴秀(慶応義塾大学助手、心理学)
入場無料
主催:フランス大使館
http://www.ambafrance-jp.org/science_technologie/collaborations_echanges/jsf/arts_numeriques.html
10月 10, 2004 at 03:19 午後 | Permalink
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日本経済新聞「活字の海」
2004.10.10.(本日)付の日本経済新聞読書欄
「活字の海」の「脳を考える本相次ぐ」で、
田村広済さんが『脳と仮想』を取り上げて下さって
います。
一部引用
「脳」についての本は以前からあるが、人間の意識
や個性を脳科学をベースに論じた養老孟司『バカの壁』
(2003年、新潮新書)の大ヒット以降、タイトルに
「脳」の字を入れた著書が目立つようになった。
(中略)
「ねえ、サンタさんていると思う?」。九月に出た
茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)は、不意に耳にした
女の子の問いかけから論を起こす。赤服に白ひげの男が
トナカイに乗ってやって来るかといった問題ではない。
「サンタクロース」という現実には存在しないものを
「仮想」する脳の働き、物質に過ぎないはずの人間の
一部位が「意識」を生む働きとはいかなるものなのか
・・・・。気鋭の脳科学者が鋭く問いかける。
茂木氏によれば、カギを握るのは事物の事物らしさ
(クオリア=感覚質)を感じ取る脳の能力、つまり赤い
色を赤い、冷たい水を冷たいと感じ取る能力だ。それは
「計量できない経験」として近代以来の科学が排除
してきたものだという。茂木氏は哲学的な見地からの
論考を続けるが、脳科学の将来については「人間性の
本質を解明するには今の方法論は不十分」と、未来の
進歩に懐疑を寄せている。
(中略)
茂木氏は、「脳は心を生み出す臓器であり、人間の
脳への関心は普遍性がある。情報が氾濫する現代に
おいて脳への興味が高まっているのは、人間の創造性
や想像力を生かす筋道が切実に求められていることの
表れではないか」と話す。
それほど注目を集め、研究されている脳について、
第一線の研究者でさえ解明のメドが立たないという
現実。その「壁」が脳への興味をますますかきたてる
のだろう。
10月 10, 2004 at 08:54 午前 | Permalink
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情熱と論理
台風一過の曇り空。
英語のブログをはじめたのは、文章修業のためである。
ブログに移行して2週間になる。
「ブログ」にあたかも新しいカルチャーがあるような
浮かれ騒ぎにはつきあえないが(先日パリのシンポジウム
でAllan Kayも、「ブログのコンテンツの95%はゴミだ
と言っていた)、記事毎に固定URLが付けられるなど、
論理的に説明できる利点がある。
だから、こっちにした。
感情の調子が悪い時には論理が助けてくれる。
昨日は、朝から、やらなくてはならないことを
論理的に次から次へと片づけていった。
ロジックのひんやりした感触が、
熟れすぎた感情の腫れをいやしていってくれるような
気がする。
情熱と論理。この両方を兼ね備えている人はなかなか
見あたらない。
養老孟司さんは、そのような一人か。
バカの壁だろうが何だろうが、世間で養老さんを
どう思ったとしても、
私には養老さんに直接対面している時にひしひしと
伝わってくる独特の感触がある。
きわめて論理的ににして、きわめてパッショネット。
そのような人しか、結局信用できない。
論理的なだけの人はとるに足らない。
(世間の多くの人の思いこみに違うが、論理などは
トリヴィアルなものだから。コンピュータにだって
できるんだからね。)
情熱的だけの人は危うい。
冷たさと熱さのコントラストが、この難しい世を
生きていく上で必要な両輪だ。
今日は雨が降らないようだから、一つ長い距離を
走ってみようと思う。
10月 10, 2004 at 07:34 午前 | Permalink
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2004/10/09
Qualia Journal
The Qualia Journal (English version) is now launched.
The contents will be somewhat different from here. Updates are expected to be less frequent.
http://qualiajournal.blogspot.com/
10月 9, 2004 at 06:10 午後 | Permalink
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軟体動物の哀しみ
パリで印象派を見て、確かに何かをつかんだように
思えたが、
わずかな時間で雲のように消えて、あとには不安
だけが残った。
夜、全日空ホテルであった新潮社のパーティー
(小林秀雄賞、新潮ドキュメント賞)に行く。
白洲明子さん、白洲千代子さん、有田芳生さん、
養老孟司さん、大竹昭子さん、加藤典洋さん、中沢
新一さん、田沼武能さん、池田清彦さん、といろい
ろな人に会って、話すことができた。
養老さんには、毎日新聞の書評の御礼を申し上げた。
楽しかったのだが、パーティーが終わる頃、途轍も
ない不安と寒気に襲われて、なんだかやばい感じに
なった。
なぜそうなったのか、と自分の無意識を解析して
見ると、こんなことになる。
我々は、人間が作った作品を見ると、それが確固とした
姿をしているように思う。
そのようなしっかりした世界を信じることが、一つの
生きる拠り所になる。
だが、現実の人間はどうか? ぐにゃぐにゃとした
軟体動物であり、小林秀雄が川端康成に言った
言葉ではないが、何を考えているのやら、何を言い出す
のやら、何を仕出かすのやら、わかったもんじゃない。
軟体動物が軟体動物と海の中でぶつかって、
何やらぼうんぼうん、とはじけている。
私にはパーティーの会場がそのような場に見えて、
自らもまた軟体動物であることは疑いようのないこと
であり、底が抜けた世界で私たちは一体何をやっている
んだろう、と雨の赤坂に考えた。
まあ、私は一生軟体動物としての生を生きていくの
だろう。
その中で、真理とか、美とか、友情とか、愛とか、
そういうものにかろうじてすがって精神の安定を
保っていくしかないのだろう。
さかのぼれば、早朝着いた東京駅で焼き秋刀魚定食を
食べたり、いつかは塩谷賢と行きたいなあと思っていた
「東京温泉」に入って長旅の汚れを落としたり、
QUALIA東京に行って挨拶したり、
ゼミをやって、10月下旬からのサン・ディエゴでの
Society for Neuroscienceミーティングの
予行をしたり(なにしろ、我々は6人発表するのだ)、
この軟体動物もあっちにぶつかり、こっちにぶつかり、
世間をふらふらと渡り歩いていたが、
一日の最後になって、軟体動物たる人間たちの
様を映し出す魂の鏡をのぞき込んで、ぎょっとした
らしいのである。
新潮社の方が、『脳と仮想』の増刷を確認してくだ
さった。
来週にはできあがるらしい。
本の方が、生身の人間よりもよほどしっかりしている。
10月 9, 2004 at 09:06 午前 | Permalink
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2004/10/08
高度一万メートルで見る夢
高度一万メートルで見る夢は、淡い形而上学の
香りがする。
老いた母親と、妹の赤ん坊が出てきた。
私は赤ん坊を抱いて、息苦しい尖塔のらせん階段を
登った。
見晴らしの良い場所にきて、そこからなだらかに
緑の傾斜があった。
息苦しさに耐えかねていた人々が、三々五々
斜面を降りていく。
私も下りながら、ふと下の草に触れると、とげが
刺さり血が出た。見るとサボテンばかりだ。
ここはサボテン砂漠の北限です、という声が聞こえて
目が覚めた。
成田に着いて思ったこと。
これから減らしたいもの。インターネット。
これから増やしたいもの。旅、まどろみ。数学。
朝食を食べ損なったので、スターバックスに寄り、
成田エクスプレスでこれを書いている。
大竹昭子さんから、『脳と仮想』が増刷になって
おめでとうというメールを頂いたが、著者の私は
知らない。
新潮社の担当の北本壮さんは今ヨーロッパに出張
中。パリでニヤミスした。
そのニヤミス中に精神感応で増刷の知らせが来ても
良さそうなものだが、その気配はなかった。
青山ブックセンターでは売り切れだったと
デザイーナーの小池憲治さんが知らせてくれているし、
売れていることは売れているらしい。ありがたい。
魂を込めた本だから、多くの人が読んでくだされば
うれしい。
良き知らせもたらす友ぞありがたき。
真っ赤に熟れた柿が2、3個
枯れ木に残っている風景を見に行きたくなった。
10月 8, 2004 at 08:22 午前 | Permalink
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2004/10/07
先見清談
第四回 先見清談
クオリアって何だ? 茂木健一郎×小崎哲哉
2004年10月21日(木曜日)18:30 開演
詳細は、下記URLをご参照下さい
http://diary.nttdata.co.jp/event4/
10月 7, 2004 at 04:43 午後 | Permalink
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印象派に魂をつかまれる!
パリ研究所公開で、リサーチャーたちと徹底討論した。
特にOlivier Coenen率いる脳グループとは
4時間ぶっ続けでノン・ストップ議論。
Olivierの興味は小脳の運動制御の計算理論で、
東京の研究所の我々のグループとは随分志向性が
違う。徹底討論のおかげで、彼らが何をやろうとして
いるのか、だいたいつかめた。
夜の会食まで時間があるので、オルセー美術館に
行くことにした。
パリには10回以上来ていると思うが、なぜか
オルセーには入ったことがなかった。
入ろうとすると、閉館していたりして、チャンスが
私を訪れなかった。
今回は入れた。
そしたら、5階の印象派の絵にすっかりノックアウト
されちまった!
あまりにもすごい絵が多すぎて、魂がワーワー
と言っている間に酸欠になって呼吸が苦しくなった。
ゴッホの一連の絵が一番苦しかったけど、モネや
ルノアール、セザンヌ、ドガ、ゴーギャンと皆
苦しかった。
絵の前に立って受ける
印象があまりにも美しく、生々しく、ちょうど
新鮮なイワシの肉の上に見える虹色の脂肪の層の
ようでもあり、魂をぐっと掴んで、ぐるぐる回される
ようで、とてもじゃないけど長くみていられないので
早々に退散した。
今、こうやって振り返ってみると、もう少し
長くいれば良かったと思う。
今月号の新潮社の「波」に布施英利さんが
「脳と仮想」の書評を書いて下さっており、その
中でセザンヌのリンゴが宿題として出されていたのだが、
セザンヌのリンゴもちゃんと見た。
正視に耐えないほど凄かった。
布施さん、今度芸大でお話しましょう。
「ふん、印象派なんて!」とバカにしていた過去の
私がいたことは素直に謝るから、
どうか私の生涯で何回もオルセーの絵が見られる
ような、そんな人生にしてください、神様!
それで、パリも前から好きなことは好きだったが、
さらに輪をかけて好きになってしまった。
あっ、そうか、と腑に落ちた。
本当の美しさというのは、一人称で生きる中で
こみ上げてくる美しさのことなんだな、と思った。
パリの人の生きる美意識というのは素晴らしい。
池上高志もパリを大変愛する男で、昔よく一緒に
アパルトマンを借りよう、などと言っていたが、
金ができたらマジでやるかもしれない。
パリ研究所の脳グループがせっかくあるんだから、
1−2週間滞在して、オルセーに通い、懸案のqualiaの
英語本を書くという作業に没頭する日々があっても
いいのではないか。
そうだ、美と真理に身を捧げよう。
もうダメだ、魂が印象派になってしまって、もう
戻れない。

10月 7, 2004 at 12:37 午後 | Permalink
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2004/10/06
文學界 脳のなかの文学 連載
文學界 2004年11月号
(2004年10月発売)に、
茂木健一郎 脳のなかの文学
第八回 観念世界のリアリティに殉じて
が掲載されています。
村上春樹の作品をカフカとの比較において論じています。
10月 6, 2004 at 01:44 午後 | Permalink
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噴水をまわりながら
一日でつかったお金が、タクシー代の
10ユーロだけ、というパリ滞在もそれで良し。
マリーキュリー研究所の近くのオーディトリウムで
ソニーコンピュータサイエンス研究所パリの
シンポジウム。Luc Steelsが組織した。
今年は私はしゃべらなくてもよい。
Annetta Karmiloff-Smith(遺伝言語学)、
Miroslav Radman(遺伝子)、Alan Kay
(コンピュータ)、Uta Meta Bauer (アート
キュレーション)らが、「創造性」について
話すのを聴く。
Alanは来れなくなったので、128K×3
のコネクションで、カリフォルニアからXerox
Parcの創世期の話などをしたが、これが滅法
おもしろかった。あの顔が大写しになって
創造性のための様々な秘密を語る。インスパイア
するトークというのはまさにこのようなやつだ。
AnnettaとMiroslavは、知らないやつはもぐり、
というような著名な科学者だが、そのトークから
科学することの喜び、を感じながら、同時に私は
痛々しい思いを禁じ得なかった。
この人たちが、科学の最良の部分を担っていることは
わかる。この喜びを知らない人たちは寂しい人たち
である。その喜びの中に取り込まれ、一生真摯に
努力することも尊いだろう。しかし、それでは、
私の解きたいと思っている問題は解けない。
この人とは仲間だ、というような人は、結局私には
いない。
どうすれば良いというのか。
早くメソッドを見つけて、クオリアの科学で
一万人くらいの人が飯を食えるようにしたいが、道は
困難だ。
Hotel de Crillonでのofficial dinnerで、
AnnettaやUta、それに柳川が最近「萌え」ていた
(ように思う)INSERMのStanislas Dehaeneらと同じ
テーブルになり、楽しく喋りながらも、胸がひんやり
した感覚は消えなかった。
休憩時間に、一人会場を抜け出して、近くの
ルクサンブルク公園まで散歩する。
パリの何でもない通りを歩くときに私を包む
空気が好きだ。
ルクサンブルク公園の噴水を周りながら、
鬱々と一人考えていた。
10月 6, 2004 at 01:36 午後 | Permalink
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2004/10/05
プチ・バカンス
広報を通して、TBSラジオの「ストリーム」
(13:00〜15:30)という情報番組から
コメントの依頼があった。
成田空港のPCデスクで仕事をしながら
携帯にかかってくるのを待っていた。
子供の頃、他の家で出されたオニギリを
食べられない人がいるのはなぜか、という
テーマ。
ディレクターの佐藤さんとしばらく会話して、
「それではこれから1分半から2分で私と
やりとりしてください」と録音モード。
10月5日(本日)放送される由。
エール・フランスの中は、ひたすら眠って来たが、
ご飯を食べながら、アメリカのTVドラマ
だけは見た。
Mission Impossibleとか、30分
くらいのやつ。
ハリウッド映画は「許せない!」と思うのに、
アメリカのTVドラマだと「許してもいいかも
しれない」と思うのは何故だろうか。
30分と短いから、コンパクトで押しつけがましく
ならないからだろうか。
「当局はいっさい関知しない」と言って、
テープが煙と消えるシーン、子供の時大好きで
まねをしていたことを思い出した。
目を閉じて、うつらうつらしていると、
ここのところ忙しすぎて、自分の中の何かが
摩耗してしまっているな、と思った。
摩耗して、泥団子のようにピカピカ光れば
いいのだけれど、
何もなくなってしまったら困る。
以前、バリ島のクラブ・メッドに行って、
数日間、何もしないで飯食ってはプールサイドで
寝ていたら、
次第に、すっかり忘れていたような少年の
時の希望や、淡い夢のようなものが驚く
ほど強く蘇ってきて、びっくりしたことが
ある。
なるほど、バカンスというものはこういう効用が
あるのか、と驚いたが、あんなことはもう当分
できないから、
飛行機の中でひたすら眠ってプチ・バカンスを
とるしかない。
プチでもかなり回復した。
みなさん、どんなに忙しくても、時にはプチ・
バカンスをとりましょうね。
と、午前5時にチェックインしたパリの
ホテルにて記す。
10月 5, 2004 at 01:02 午後 | Permalink
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2004/10/04
お知らせ
本日夜から、8日(金)朝まで、パリへ行きます。
この間は、いつもほど頻繁にではありませんが、
メールは送受信できる予定です。
10月 4, 2004 at 11:18 午前 | Permalink
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『脳と仮想』の書評を養老孟司さんが書いて下さって
師というものはありがたいものである。
少なくとも、養老孟司さんだけは、判ってくれる。
そのことが、どんなに励みになることだろう。
『脳と仮想』を、私は脳科学の本として書いた
つもりはない。
何の本か、と言われても、そんなことは判らない。
ただ、自分の心の内なる必然に従って書いたら、
あんな本ができあがっただけである。
それを、世間はこれは脳科学なのか、それとも
文学なのか、という文脈に当てはめようとする。
そうすれば安心するのだろう。
しかし、養老さんも書いてくださったように、そんな
もんは本当の学問ではない。
養老さんと同じようなセンスで学問をしていた人を、
私は少なくとも二人は知っている。
小林秀雄と、本居宣長である。
文脈主義者が何を言おうと、知ったことじゃない。
オレはクオリア原理主義者として、『脳と仮想』を
書いたのだと、養老さんの書評を読んで自覚した。
判ってくれる人だけが、判ってくれればよい。
感じることのできる人だけが、感じてくれればよい。
師の文章で自覚する。これほどありがたいことは
ない。
鎌倉方面に向かって、深々と頭を下げる。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/news/20041003ddm015070139000c.html
毎日新聞2004年10月3日朝刊
養老孟司「脳と仮想」書評
10月 4, 2004 at 08:00 午前 | Permalink
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Public Relations
本日発売の「ヨミウリ・ウィークリー」
(2004年10月17日号)に
連載 茂木健一郎 「脳の中の人生」
第23回
男女の脳に差はあるか
が掲載されています。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 4, 2004 at 07:48 午前 | Permalink
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美しい魂
米原で乗り換えてから、
福井に向かう車窓から見た景色が、なんだかヤケに心に
染みた。
駅で宮本徹也さんに迎えていただき、車で
講演会場に向かう。ホールの前には、美しい水田が
広がり、なにものかの気配が、心の奥まで吹き込んで
くる。
昼食を用意していてくださるというので、てっきり
弁当だと思っていたが、
トレーに載せてまるで家庭で出されるような
ハンバーグ定食。
楕円形のテーブルの気配が美しい会議室で一人静かに
いただいた。
土地の精霊のようなもの、人々の心のかたちのような
ものが確かにある。
思えば、ハンバーグ定食の頃から、私は越前の精霊に
打たれていたのかもしれない。
会場を見渡すと、退職された後の方が多かった。
いつもの語り口とは変えて、いかに脳をいきいきと
使うか、というような方向で話をした。
金沢から来てくれた吉田遼平クンも合流し、宮本
さんと養浩館庭園にいく。
そこに、八杉ふじ子さんがいた。
お幾つくらいか。六十半ばだろうか。殿様の
入っていた風呂の床が、中央に向かってゆったりと
傾斜していることを、丁寧に説明してくださっている
うちに、ふとどこからか写真のアルバムを持って来た。
「雪がたくさん降った時に撮ったんですよ」
と言いながら、プリントを次から次へとくださる。
裏にカタカナで「ヤスギ」と書いてある。
まさか写真をくださるとは思わなかった。
まるで、どこかの家庭におじゃまして、写真を
見せていただき、おまけにプリントももらって
しまっているかのようである。
説明員の職務を遂行している、というようなものでは
ない。
あくまでもヤスギフジコさんとして、
一人の人間としてそこに立っている。
こんなものの気配に、最後に触れたのは一体
いつのことだったか。
人間の脳は、今までの枠組みで捉えきれない
事態に出会うと、とまどい、そして時には
深く感動する。
前の池からの西日の照り返しが養浩館の天井に、
柱に、ふすまに映り、その中で美しいたたずまいの
ヤスギフジコさんが丁寧に説明してくださる光景に、
私はなんだか深く動揺した。

写真を下さった八杉ふじ子さん。ありがとう。
人は、美しい心を持っているだけで、美しい気配
を漂わせることができる。
内面はにじみ出てくる。
その美しさが容易に流通しないからと言って、
何だというのだろう。
眼を閉じれば、日本の各地で、世界の各地で、
美しい魂を持って日々生きている物言わぬ人たちの
姿が浮かびあがってくる。
インターネットの強欲と浮かれ騒ぎよ、さらば。
寿司屋で吉田君と飲んでいたら、宮本さんも
来た。
剣道をやっていた二人は談義を始めた。
私は静かに酒を飲んだ。
7時16分の白鳥で帰る。
東京に近づくにつれて、慣れ親しんだ乾いた
文明の気配が強まっていった。
10月 4, 2004 at 07:44 午前 | Permalink
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Lecture Records
2004年10月3日 福井ライフアカデミー講演
脳科学の最前線 〜脳と心の不思議な関係〜
(創造性、コミュニケーション、感情について)
講演記録 mp3 file (41.9MB, 90分)
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「サイエンス」のセクションにあります。
10月 4, 2004 at 12:36 午前 | Permalink
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2004/10/03
Public Lecture
10月 3, 2004 at 06:05 午前 | Permalink
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高貴と求道
イチローの最初の2打席はテレビの
前で見ていた。
言うまでもないことだが、感動した。
二点。
まずは、イチローが、記録のためでもなく、他人からの
評価のためでもなく、ただ自分の内部の目的、美意識
に従って自己修練してきた結果が、あの瞬間だった
ということ。
自らだけが知る規範に従って厳しく求道する、
というのは、野球だけではなく普遍的な倫理基準だと
思う。
そして、あのセレブレーションの気高さと美しさ。
試合途中だが、チームメートがベンチを出て、抱擁
する。
シスラーの子孫と握手する。何の衒いもなく、
ただ、気持ちに寄り添っているだけである。
美しかった。
2チャン、テロ、IT企業の強欲。イチローの
あの歴史的瞬間に、人々の心の中で敗れ去ったものは
多いのではないか。
テレビの害云々を言うえせ科学者や、
評論家は多いが、あのような
場面を見ない、ということの損失についてはどう
考えるのだろう。
9/11テロの映像のように、見ていなくては
始まらない映像というものはあるものだ。
夕刻、ジュンク堂へ。
最初から、今日は入不二さんと徹底的に議論すること
を楽しもうと思っていた。
どのような展開になったか、ということは、下の
リンクから落とせるmp3にある通り。
入不二さんのご専門である時間論と、心脳問題の
接点、そして生成、起源問題について、
興味深い論点がいくつか出てきたのではないかと
思う。
テーブルに座り、入不二さんと一緒に、本に
サインする。
最近、私のサインは「茂木の木」から、すっかり
「フラワーピッグ」へと移行してしまった。
打ち上げ。入不二基義さんはもちろん、NHK
出版の大場旦、大竹昭子さんや、斉藤哲也さん、
電通佐々木部長、山下篤子さん、それにちくま書房の
増田健史、伊藤笑子さんが加わってにぎやか
であった。
大竹さんとは久しぶり。村上春樹モンダイを
熱く語り合う。
大竹さんが「ねじまき鳥クロニクル」を読んだのは
案の定「文學界」の大川繁樹編集長の強力リコメンド
によるらしい。
今日福井に日帰りの私は、二次会に消えていく
旦、健史の背中を指をくわえて見つめるしかなかった
ことだけが悔やまれる。

大変お世話になってマス。足を向けては寝られない、
大場旦(左)、増田健史(右)のダンディー編集者ペアー
10月 3, 2004 at 05:57 午前 | Permalink
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2004/10/02
Discussion Records
「脳内現象」刊行記念
茂木健一郎×入不二基義氏トークセッション
「意識はいかに成り立つか〜脳と時間をめぐって」
2004年10月2日 18:30〜 池袋ジュンク堂書店
講演記録 mp3 file (45.3MB, 100分)
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「思想」のセクションにあります。
10月 2, 2004 at 11:57 午後 | Permalink
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Public Discussion
本日、池袋ジュンク堂にて、入不二基義さんとの
トークセッション。(午後6時30分〜)
mp3は公開の予定です。
http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk.html
10月 2, 2004 at 07:46 午前 | Permalink
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地べたにペタンと座って
朝日カルチャーセンターに
PHP出版の石井高弘さんが来て、
飲み会でいろいろ話していた時、
「茂木さん、そんなに本が売れなくてもいいじゃ
ないですか」
言った。
その時、ぱーっと、そうか、例えN人の
読者しかいないとしても、本当はN+1人の
読者がいて、
その「1」が大きな意味を持っており、
その読者というのは実は神なんだな、と思った。
他者の視線というのは、実は神の視線である。
そんな思いにこのところ時々かられる。
人間は誰でも承認欲求を持っているものだが、
人間(じんかん)にまみれる、ということは、
世俗的なことのようでいて、
実は神の視線に身をさらすことなのでは
ないか。
人間の全体性が参照されるのではなく、
マーケットで属性が切り売りされるのが
現代である。
学歴社会などはわかりやすい例だし、
女は顔がキレイな方がいい、というのもそうだ。
仕事のマーケットにおける年齢、性別の
切り売り、
時間給での人間存在の切り売り。
これはいわば関係性というものの必然だが、
考えてみると切ない話ではないか。
マルクスが言った、労働が人間を疎外する
という問題は終わっていやしない。
むしろgoogleの現代はますますそれが
先鋭化されているのではないか。
そんな中、少なくとも自分自身だけは、マーケット
の中で切り売りされる属性ではない全体性を感じている、
それに寄り添っている、と感じるとすれば、
その私秘的な視線こそが、現代における
神の視線ではないのか。
そんなことを考えていたら、なんだかホームレス
のような気分になって、
三井ビル1Fの兆一の椅子からずるずると
落ちて、床にぺたんと座った。
疲れている時は、カツオがしみじみうまいものだと
知った。
10月 2, 2004 at 07:40 午前 | Permalink
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2004/10/01
Lecture Records
京都精華大学 アセンブリーアワー
茂木健一郎 講演 『脳から見た美とはなにか』
2004年9月30日
音声ファイル 97分
(講演70分、質疑応答27分)
(mp3, 44.6MB)
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html
の「芸術」のセクションにあります。
同じセクションで、美術手帖 2004年9月号掲載
「地の下深く、美に包まれて」
のテクストを公開しました。
10月 1, 2004 at 03:47 午後 | Permalink
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科学大好き土よう塾
2004年10月2日(土曜日)
NHK教育テレビ 午前9時15分〜午前10時放送
「科学大好き土よう塾」
の
「うす型テレビはどうして色がきれいなの?」
のコーナーにて、茂木健一郎が、人間の色覚のメカニズムについて
解説します。
http://www.nhk.or.jp/daisuki/
10月 1, 2004 at 02:12 午後 | Permalink
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朝日カルチャーセンター第1回
Public Lecture
本日
朝日カルチャーセンター 講座
「脳とこころを考える」 ー美しいと感じる脳ー
(全5回)
第1回
午後6時30分〜8時30分 新宿住友ビル48階
http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture17.html
10月 1, 2004 at 08:28 午前 | Permalink
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美とは何か。
美とは何か?
それは、贅沢なものか、それとも、生きる上で
欠かせない必需品か?
いろいろな考え方があると思うが、
一つ確かなことは、美と向き合っている時の
私の意識が、張りつめ、すさまじい
精神的エネルギーを消費しつつあることだ。
難しい問題を考え詰めている時とは
異なる回路で、美は私を精神の酸素欠乏
状態にさせる。
初代長次郎の作品などが展示されて
いる楽美術館に行き、茶碗を見る。
赤楽はまだよくわからないが、
黒楽は好きだ。
見つめていると、精神の中にいろんな
渦が生じてくる。
銘を能から多く採っていて、
その中に「姥捨」があった。
解説に、「現在では老婆を捨てる
悲惨な話というイメージが強いが、
本来は、一人山に残された老婆が静かに
舞い、月の光に明々と照られて次第に
浄化していく様を描いたものである」
とあることに深く感動。
黒楽を見ていると、その全てを
浄化する月の光がさえざえと見えてくるではないか。
京都精華大学へのタクシーに乗ると、
「びっくり坂」を通る。
あまりにも急勾配なので、びっくりすると
言うのだ。
冬など、普通のタイヤではとても登り切れません、
と運転手さん。
講演はmp3でとったが、ここのコネクションが
細くてアップできず。
おそらく今夕にはアップすると思います。
新潮社の北本壮さんのたくらみで、
『脳と仮想』が20冊用意されていたが、
全て売れた。
講演終了後、一冊一冊サインした。フラワー
ピッグを描いた。
北本さん、がんばりました。
京都精華大学のスタッフ、それに
束芋さんも
加わって、祇園のお店で打ち上げ。
Memoirs of a Geishaを読んで、祇園を訪れる
アメリカ人の頭の中には、どんなファンタジーが
渦巻いていることだろう。
一人店に向かう途中、顔を紅潮させてそぞろ
歩きしているきまじめな青い眼の青年に出会い、
ふとそんなことを思った。
晴明どころじゃない。祇園こそ、京都
ファンタジーランドの渦の中心ではないか。
私にとって
京都は常にファンタジーの王国であった。
逃げるのは得意である。南座近くのバー
「写楽」の二次会
から走って逃げ、
朝食のレストランの列に嫌気が差して、
一名様ですか、と言われたが逃げて、
ホテルの前の道に出たら、「ビビンパ屋」
があった。
朝から石焼きビビンパを食べながら
読むものもないので店内にあったリクルートの
Town Workを読んでいると、
世の中にはいろいろな仕事があるな、
と思いながらも、
なんだか途方もなく不安になった。
アマゾンはやっと修正されて、新しい
書評を一ついただいた。
10月 1, 2004 at 08:21 午前 | Permalink
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