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2004/09/30

存在の淡い気配

竜安寺の石庭には、枯れた、という
イメージに反して、実に様々な色彩があふれている。

 石を取り囲む苔だけが生きているのでは
ない。
 一つ一つの石が、実は呼吸しており、
脈動しているのだ。

 名古屋で目が覚めて、それから
京都まで、小林秀雄の「現代思想について」
を聞きながら車窓を眺めていたら、
なんとも妙な気分になった。

 我々は、
 存在ということを、空間のメタファーを
通してとらえすぎだ。
 
 ベルグソン、そして小林はそのように
考える。

 現実は、脳内現象からの構築物だ、
という視点から、物理主義を外して
世界を見れば、
 ずいぶん違った風景が現れてくるのでは
ないか。  

 おばあさんの魂だけじゃない。美とか、
情念とか、そういうものだって、本当は
存在するんじゃないか。
空間じゃない、別のところに。

 石庭の右の端に動く緑のものがあった。
カマキリだった。

 カマキリは、無明の地を巡礼するかのように、
ゆっくりと砂利の上を進み、
 やがて水を張った縁に達して見えなくなった。
 
 石を選んで、ならべる。そのような意味では、
この名園もまた文脈主義ではある。

 文脈主義が、単なる項と項の間の関係に
とどまらず、一つの実体として存在
し始める時、
 そこに何者かの気配が立ち現れはじめる。

 そう思えば、芸術も科学も、
その中で愛すべき良品たちは、すべて
形而上学的存在基盤において同じではないか。

 マツタケの焼いたのをエイヤッと
食べた。

 食味をも、統一的形而上学において
とらえること。

 竜安寺に行くと、どうも変性意識状態に
なるらしい。

9月 30, 2004 at 06:39 午前 |

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コメント

y.o.さん

コメントありがとうございます。

ご指摘のとおり、文脈からの何者かの立ち現れは、クオリアの問題です。クオリアの問題とおいしいの問題は同じです。

投稿: | 2004/10/02 7:48:50

>文脈主義が、単なる項と項の間の関係に
>とどまらず、一つの実体として存在
>し始める時、
>そこに何者かの気配が立ち現れはじめる。

これはクオリアの性質ですよね。

>そう思えば、芸術も科学も、
>その中で愛すべき良品たちは、すべて
>形而上学的存在基盤において同じではないか。

すべてクオリア的なのですよね。

>食味をも、統一的形而上学において
>とらえること。

クオリアの問題と、おいしいの問題は
おなじですよね。

、といっていいですか?

投稿: | 2004/10/02 1:20:55

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