2014/10/17

 小銭チャレンジ!

ぼくには、小銭がたまる「構造問題」がある。

 と言っても、会計のときに面倒臭くて千円札を出してしまう、ということではなくて、走る時に、ランニングパンツのポケットに千円を入れて行くからだ。

 コインだと、どうしてもじゃらじゃらしてしまう。だから、千円を入れて、走った後に、コンビニに寄って、飲みものを買って、「ぷはー、お疲れさま〜」と飲みながら歩いたりする。
 
 時には、自販機でジュースを買うこともある。

 勢い、次第に小銭がたまってくる。
 走れば走るほど、たまってくる。
 最近、よく、走っている。

 それで、それを一気に「消費」しようとして、時折、小銭をたくさんもって意気込んでコンビニに出かけていく。

 千円札と、小銭を持っていく。

 ところが、そのような時に限って、会計が「1020円」だったりするのだ。

 それじゃあ、10円玉二枚しか消費できないではないかっ!

 1387円とかだと、「ラッキー!」と思ったりする。
 100円玉3つと、10円玉8つと、1円玉7つ、計18枚も消費できるからだ。

 このあたり、自分でも、アホだと思うけど、会計の時にレジに表示される会計額に一喜一憂する自分を抑えることができない。

 最近は新しいテクを生み出した。会計して、1020円だったりすると、さりげない風を装って、レジの上にある小物(チョコレートとか)を、さも、その時に思いついたように、「あっ、これもください!」と「押し買い」する。

 再チャレンジするのだ。その結果、見事、「1098円!」とかになると、とてもうれしい。

 1110円だったりすると、残念な気がする。


 こうして、一生懸命小銭を消費するのだが、未だに「小銭残高」があって、小銭が滞留しているのである。

 スイカとかパスモで買えばいいじゃないか、という人もいるかもしれないが、きっと、小銭とのつき合いを楽しんでいるのであろう。

 まあ、これも、縁ですから。出会いと別れ。
 
 これからも、できるだけ多くの小銭を使う、「小銭チャレンジ」、続けます!

10月 17, 2014 at 06:50 午前 |

2014/10/14

人生のテンポ設定

新幹線は、台風にも強かった。大阪、広島、山口と、在来線がすべて止まっている中で、山陽新幹線だけは、ありがたいことに、動いていて、私は無事移動することができた。

 小倉で、ソニックに乗り換えた。6分遅れていたので、かえって間に合った。自由席しか空いていなかったが、幸い座ることができた。

途中で、となりの男性が降りて行ったら、そのあとからコンセントが出てきた。なんだか、結果として、いい流れになっていた。

大分までは、だいぶ時間がかかった。ずっと仕事をしていたし、ビールが飲みたいところだったが、ガタゴト揺られながら、仕事を続けていた。

九州の東側の交通事情についてはいろいろ言われるところだが、遅いのは決してイヤじゃない。ゆっくり移動することで、多様性が見えてくる。これは、歩きながらあるいは走りながらいつも思っていることだ。

歩かなかったら、見えないものが、さまざまに見えてくる。自動車なら一瞬だけど。

人生のテンポ設定において、プレスティッシモも必要だが、時にはラルゴが良い。ゆっくり歩いてこそ、見えてくる世界の多様性があるのだ。

10月 14, 2014 at 08:00 午前 |

2014/10/10

 カラスおばあさんの愉悦

走っていて、林から道路に抜ける直前のちょっとした空き地に、三羽のカラスが舞っているのが見えた。

 カラスというものは、近くで見るとびっくりするほど大きく、強そうで、こいつらがヒッチコックの「鳥」みたいに本気になって襲いかかってきたら、コワイだろうと思う。

 ところが、その、三羽のカラスの舞いの輪の真ん中に、ひとりのおばあさんが立っていたのだ。

 (ぼくは、ふだん、女性のことを「おばさん」とか「おばあさん」と書かないで、「女性」と書くのだけれども、かなりご高齢(おそらく80歳以上)だったし、この文脈ではそのように書いた方が伝わると思うので、「おばあさん」と書く)。

 そのおばあさんは、どうやら、白いビニル袋の中に餌のようなものを持ってきているらしく、その餌を、カラスに向かって投げていたのだ。

 それで、カラスたちも、喜んでしまって、そのおばあさんの周りを、至近距離で舞い飛んでいたのだ。

 あんなに近くにカラスが来て、こわくはないのだろうか、と思いながら、その、カラスの輪舞曲の中を走り抜けようとした、その時だった。

 見てしまったのだ。そのおばあさんの、「愉悦」の表情を。

 目は輝き、口が少し開いて、舞い飛ぶカラスたちを、おばあさんは、至高のよろこびを感じている、というように、見上げていた。

 おばあさんの魂は、その場所にいなかった。きっと、どこか少し違うところにいた。

 その一瞬の表情が、ぼくの脳裏にもう強く刻印されてしまって、ぼくは、現代の地上を走りながら、まるで、お能の印象的な一場面を拝見したような、そんな戦慄を感じてしまったのだ。

10月 10, 2014 at 07:08 午前 |

2014/10/08

三十三間堂の静寂

 先日、京都駅から京都大学医学部まで歩いたのをきっかけに、なんだか、京都を歩くのが好きになってしまって、囲碁名人戦を拝見するために会場のウェスティン都ホテル京都入りするのも、歩いていくことにした。

 ルートをにらんで、鴨川をまずは渡ってしまうことにした。
 
 あたりはとっぷり暮れて、人通りも少ない。

 京都も、真ん中あたりはだいぶ開発されていて、普通の街と変わらなくなってしまっているけれども、東山は、昔ながらの街並みが続いていて、歩いていると、ほっとするのだった。

 やがて、塀が現れ、それがずっと続いた。

 落ち着いた街並みだけれども、塀とその向こうの世界は、さらに深い趣が広がっているように感じた。

 三十三間堂だった。

 歩き続けながら、思った。

 現代においては、宗教は、どうも分が悪いけれども、お寺や、神社という、祈りの場があることで、守られてきたものは大きい。

 人間は、欲望のおもむくままに、開発し、更新し、街の様子を変えてしまうけれども、お寺があるということで、数百年の単位で、一つの静寂が保たれる。

 鎮守の森が、畏れの心とともに守られるように。

 だから、宗教の機能は、私たちがふだん考えることとは別のところにもあるのかもしれない。

 暗がりを抜け、祇園のあたりに来ると、ずいぶんにぎやかになって、私も、普段の調子になってきた。

 お腹が空いていることに気付いて、「餃子の王将」に入り、味噌ラーメンと餃子を注文した。
 
 おいしくいただきながら、さきほどの三十三間堂の静寂が、ずっと、心の底に残っていた。


Sanjusan20141006


10月 8, 2014 at 07:10 午前 |