2010/09/09

連続ツイート プラグマティズム

プラ(1)先日、シンガポールでイリヤ・ファーバーと喋った時に、プラグマティズムの話になった。ジェームズ、デューイ、パース。イリヤは特にパースが好きなのだという。それで、アメリカの文明力の基礎となっているエートスのことについて考えてみる気になった。

プラ(2)どんな概念も、それが実際の私たちの生き方、社会のあり方の中で有効に機能するのでなければ意味がない。このようなプラグマティズムの思想は、アメリカの社会の中に深く根付いており、インターネット文明の生みの母にさえなっているのではないかと思う。

プラ(3)たとえば、「平等」や「自由」、「平和」といった概念も、それが机上の空論、絵に描いた餅では意味がなく、必ず具体的な生のあり方によって担保されなければならない。このような思想は、社会問題について、ソリューションを見いだしたり、ハックしたりするという積極的態度に結びつく。

プラ(4)ソフトウェアをリリースする時、バグなしヴァージョンを完成させることを目指すのではなく(多くの場合それは不可能だから)、とりあえずリリースして、バグが見つかったら順次修正していく。これが、プラグマティズムの発想である。

プラ(5)あるシステムにセキュリティ上の脆弱性が見つかった時に、やたらと騒ぎ立てるのではなく、その脆弱性を公表すること自体のリスク(新たな攻撃を誘発するかもしれない)を勘案するのが、プラグマティズムの発想である。

プラ(6)世界中から入学者を集めるにはどうすれば良いか? ハーバードやプリンストンが採用したプラグマティックな方法は、卒業生に面接をさせることだった。その結果、合否判定にある程度の不確実性が生じても、世界にネットワークができる実際上の利点の方が高いと考える。

プラ(7)一方、東京大学の入試は徹頭徹尾机上の「公正」を追求している。志願者を一会場に集め、試験を課し、点数順に上から入れていく。「概念上」は公正であるが、プラグマティックな視点からすれば、大学のガラパゴス化を招く愚行である。

プラ(8)新聞、テレビなどの日本のメディアが陥っている「風土病」は、アメリカのプラグマティズムとの対極にある。「政治とカネ」、「感染症の予防」など、何かの社会問題が生じた時に、実際的にどのような処置が効果的なのかというよりも、「絵に描いた餅」の理念をヒステリックに騒ぎ立てる。

プラ(9)大学研究者による科研費の執行についての、異常な書類主義も日本の風土病である。どのようなシステムにしたら、プラグマティックな意味で公正、効率的なのかと考えずに、机上の空論を押しつける。その結果、「見積もり、納品、請求各二部ずつ」などという、カフカ的諧謔世界を現出する。

プラ(10)日本の霞ヶ関全体が、プラグマティズムの思想からすれば、滑稽な形式主義、理念主義に陥っている。目の前の現実を見つめて実際的なソリューションを模索するのではなく、理念的なスローガンを並べるだけで満足するのである。

プラ(11)教科書検定、学習指導要領に表れる文科省のマインドセットも、プラグマティズムの精神から程遠い。実際的な意味で効果的な教育をするにはどうすれば良いかではなく、机上の理念を追い求めるから、大学では必ず15時限授業をしろなどという幼児的コントロールを強要して平気でいる。

プラ(12)インターネットを生み出したアメリカの文明力の核に、プラグマティズムの思想がある。日本の関係者たちは、自分たちの風土病を理解するためにも、プラグマティズムを勉強した方が良い。特にマスコミ関係者、官僚たち。

プラ(13)常に、実際的であれ。理念を考える時には、それが、具体的な生の現場において、どのような作用をするのかしっかりと見きわめよ。机上の空論を振りかざす輩に力を持たせるな。生の疾走、舞踏を支える、具体的な技術をこそ磨け。

以上、「プラグマティズム」についての連続ツイートでした。

(2010年9月8日、http://twitter.com/kenichiromogi
にてツイート)

9月 9, 2010 at 08:25 午前 |

2010/09/08

連続ツイート 専門

専門(1)これからの時代に一番必要なことは、越境すること、「点」と「点」を結ぶことである。ところが、日本人の「マインドセット」の中に、越境する人を揶揄し、蛸壺にこもることを正当化する傾向がある。徹底的に破壊しなければならぬ。

専門(2)たとえば内田樹さんのような柔らかな知性に対して、「専門領域を超えていいかげんなことを言っている」などと揶揄する輩が必ずいる。自分自身の知的レベルは棚に上げて、気の利いたことを言って優位に立ったつもりでいるのだ。

専門(3)日本人は全般的に一つのことを墨守する傾向があり、研究者コミュニティでは「修士刷り込み説」という言葉もある。修士の時にやったことを一生やっている人のことだ。自分がシーラカンスになるのは勝手だが、人にまで押しつけようとする。まさに、「プロクラステスのベッド」である。

専門(4)越境する人を応援しない日本のマインドセットが発展を阻害している。アップルのスティーヴ・ジョブズは、何かの「専門家」なのか? ユーザーインターフェイスの「専門家」じゃない人は、iPhoneの開発には口を出すな、などと言っていたら、ジョブズの輝きは生まれない。

専門(5)ジョブズのやり方は、「歩き回ってマネッジメントすること」及び「現実変容空間」とも呼ばれるカリスマ性である。専門がなんちゃらかんちゃらとか言っている閉塞精神からは、ジョブズのような人は絶対に生まれない。

専門(6)グーグルで行われたScience Foo Campで衝撃的な経験をした。皆が「アカデミア2.0」とか、「ジャーナリズムの未来」などと横断的なセッションをやっている中で、認知神経科学の世界的権威たちが開いた「正統的」なセッションが、恐ろしく凡庸でつまらなく見えたのだ。

専門(7)知のあり方が変わりつつある。一つひとつの「点」に固執する人たちよりも、「点」と「点」を結ぶ人たちの方が輝いている。「結ぶ人」こそが、次の時代に私たちを連れていってくれる。「点」に固執する人たちは、もはや旧時代の遺物に過ぎない。

専門(8)そもそも、日本語の「専門」という言葉には、「それしかやらない」という意味合いがある。「専門」や「専門家」といった日本語の用法に表れる日本人のマインドセットが、インターネット時代の偶有性の新文明に日本が入っていくことを妨げている。

専門(9)「専門」に対して、expertには、「それしかやらない」という意味はない。語源的に、expertは、「試みること、挑戦すること」、あるいは「経験を通して賢くなった人」のことである。英語圏での「expert」と、日本語で「専門家」ではニュアンスに天と地ほどの違いがある。

専門(10)私自身は、「専門」という言葉も、「専門家」というラベルも使わない。そのような言葉を使って、自分や他人を決めつける人にも与しない。「専門」や「専門家」という表現が、越境精神に対して抑圧的に作用するのが、イヤなのである。

専門(11)「専門」などという決めつけは、ぶっ壊しちまえ。みんな、遠慮せずに越境しろ。ジョブズのように、歩き回り、現実を変容させてしまえ。偶有性の海に飛び込め。泳げ、探せ、つかめ。新文明の中に、いち早く行け!

以上、「専門」についての連続ツイートでした。

9月 8, 2010 at 03:21 午前 |

2010/09/07

ノルウェーの森 テイク4

youtube上にある、The Beatles, Norwegian wood の音源がとても
良い。

Take 4とかけ声が始まって、あの慣れ親しんだ前奏が始まる。

途中で、二回止まる。

"Not that"

"Wrong".

弾き間違い。

三回目、ようやく「難所」を通り抜けて、「昔女がいた・・・」というジョン・レノンのフレーズが出てくると背筋に電気が走る。

歌い終わって、"I showed you!" (どんなもんだい!)とのつぶやき。

カッケー!

http://bit.ly/cSfIBX 

9月 7, 2010 at 09:23 午前 |

2010/09/06

連続ツイート 脱藩八策

これからの日本に必要なのは、土佐を脱藩して独立した自由人として幕末の日本で人と人を結び、維新への流れをつくった坂本龍馬のような思想、行動ができる人である。

脱藩八策(1)自分の存在、意義を、組織や肩書きに依存するな。他人を、組織や肩書きで判断するな。組織や肩書きを手に入れることを人生の目標にするな。組織から放り出され、肩書きを失っても、自由闊達に生きられるような資質を身につけることを目指せ。

脱藩八策(2)脱藩のために必要なのは、自分自身の内部の「安全基地」である。知識、経験、人脈を、組織とは関係なく、組織を超えて蓄積する。確実なものを持つことが悪いのではない。確実なものを「安全基地」として「偶有性の海」に飛び込めばいいのである。

脱藩八策(3)根拠のない自信を持て。そして、それを裏付ける行動、努力をせよ。26歳で土佐を脱藩した龍馬には、何の裏付けも、保証もなかった。行動しないことの言い訳をつくるな。根拠のない自信で、自分自身の背中を押せ。

脱藩八策(4)プリンシプルを持て。不確実性の中に自分を投げ込む時、指針を与えてくれるのは、揺るぎないプリンシプルだけである。確固としたヴィジョンがあれば、柔軟に状況に対応できる。芯に何もない人は、体面を気にしたり、些事に流されたりする。

脱藩八策(5)自分が惚れ込める人を、走り回って必死に探せ。脱藩者にとって、頼りになるのは卓越した、信用できる人たちとの結びつきである。組織や肩書きではなく、一人の人間として輝いている「恒星仲間」を見つけろ。彼らとの間に、「星の友情」を結べ。

脱藩八策(6)「点」と「点」、「人」と「人」を結べ。既存の組織、文脈を超えて補助線を引き、自ら補助線となることができるのが、脱藩者の特権である。薩摩、長州どちらの藩の人間にも、薩長同盟は締結できなかった。現代の脱藩者にとって、「薩長同盟」にあたるものは何か、必死に考えよ。

脱藩八策(7)養老孟司さんは「東大教授は、名刺の真ん中に『東京大学教授』と大きく書き、肩書きのところに小さく自分の名前を書け」と言われた。今や、「組織は、ならずものの最後の砦」である。組織で人を判断するな。組織に所属しない人を、軽んずるな差別するな一人の人間として対等につきあえ。

脱藩八策(8)坂本龍馬は、維新後の新政府の閣僚に加わる気はなかった。「世界の海援隊」を目指す中、志し半ばに倒れた。世界が一つに結ばれる今、一国の政治も大事だが、それだけでは小さい。勇気ある脱藩者は、むしろ、「世界の海援隊」を目指せ。必死になって疾走し、「点」と「点」を結びつけよ。

以上、「脱藩」に関する連続ツイートでした。

2010年9月6日

http://twitter.com/kenichiromogi 

9月 6, 2010 at 09:16 午後 |

2010/09/05

連続ツイート 「本気」

2010年9月5日、 茂木健一郎ツイッター・アカウント上にて。

本気(1)鳩山元首相がツイッターでつぶやいた「裸踊り」は、TEDにおけるデレク・シヴァーズの講演「いかに社会運動を起こすか」(http://bit.ly/92xtNs)。デレクは、たった3分で、情熱を持って社会運動の起こし方を語る。

本気(2)一秒たりともムダにしない。これが、「次の時代のハーバード」とも言われるTEDのエートスである。最初からトップギアに入り、そのまま疾走する。本気でやれば、たった3分でも、世界を変えることができる。

本気(3)人間の脳は、相手がどれくらい本気であるかということを察知する能力を持っている。TEDがこれだけ高い評価を受けているのも、そこに登場する人たちが、皆「本気」だからだろう。

本気(4)本気であるとは、つまり、そこに自分の蓄積してきたもの、出せるもののありったけを投入するということである。一気に駆け抜けて、言い訳をしない。そのような「本気」に対しては、誰でも敬意を払う。

本気(5)日本の悲劇は、指導層の間に、長らく「本気」が見られないことだろう。講演、挨拶でも、「本日はお日柄もよく」などで始まる愚にもつかない話が続き、一向に本題に入らない。一秒目からトップスピードのTEDと、いかにテンションが違うことか。

本気(6)新聞が若者に見捨てられているのは、紙面から「本気」が伝わって来ないからである。自分たちを安全圏において、気の利いたことを書いて偉そうにしている。安楽椅子のジジイのような態度に、若者たちは怒っている。そりゃあそうだ。若者たちは、これから、生きなければならないのだから。

本気(7)織田信長が、今川義元の大軍に攻め立てられて絶体絶命、その時に、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。」と敦盛を舞い、熱田神宮に参拝して必勝を祈願し、打ち出ていった。その時の信長は本気だったろう。

本気(8)『平家物語』の壇ノ浦で、二位の尼が、幼い安徳天皇を抱いて、「浪のしたにも都のさぶらうぞ」と入水した時、彼女は本気だったろう。

本気(9)新聞記者がもし本気でジャーナリズムをやっていたら、自分の良心に照らして、合理性のない「記者クラブ」の制度など、自ら即刻廃止するだろう。少なくとも、その努力をするだろう。私にどうしても理解できないのは、彼らがそれをしないことだ。きっと、本気ではないのだろう。

本気(10)もし、大学の関係者が、学問をできるだけ多くの人たちに伝えるということについて本気だったら、必死になってありとあらゆることをするだろう。大学の「公開講座」から伝わってくるのは、「とりあえずやってます」という弛緩した空気だけだ。

本気(11)マイケル・サンデルの『白熱教室』、スティーヴ・ジョブズのプレゼン。これらに共通なのは、「本気」だということである。それに比べて、日本では、テンションが低く、やる気のない態度が蔓延していることか。

本気(12)日本に住んでいて一番頭に来るのは、本気で生きる気持ちもないやつらが、本気で何かをしようとしている人たちの足を引っ張ったり、揶揄したり、下らないことを押しつけたり、そういう光景があり過ぎるということ。

本気(13)一番悲しいことの一つは、「パブリックセクター」、すなわち公務員や、教育委員会といった人たちと話していて、「この人は本気だ」と思うことが、ほとんどないということ。パブリックセクターの人たちが、日本の「本気」度を下げているというのが肌で受け取る実感である。

本気(14)テンションの低い人に、意味のない形式や、よくわからない段取りを押しつけられる。こっちは、事を荒立てまいと思うから、「はいはい」と聞いたフリをしているが、仕事が終わったら後ろを振り返らずに全速力で逃げ出す。記憶から、そのテンションの低さを消す。

本気(15)日本人はさあ、幕末もそうだったけど、いざとなったら、本気になれるんだよ。だけど、今の社会の、官僚たちや、マスメディアや、大学の先生たちの「ローテンション」に付き合っていたら、いつまで経っても本気になれないや。

本気(16)首相の記者会見なんかも、記者クラブがしきっているだけでなくて、質問の順番も、最初にNHKとか暗黙のうちに決まっているらしい。もし本気でジャーナリズムやってるなら、そんなもんかっとばしてばしばし質問すればいいだろう。

本気(17)日本も、段取りとか根回しとか、そんなかったるいことに付き合っている時代はそろそろ終わり。そろそろ、俺たちも本気(マジ)になろうぜ。俺たち、いざとなったら、なかなかやるもんだぜ。

以上、本気についての連続ツイートでした。

http://twitter.com/kenichiromogi 

9月 5, 2010 at 01:46 午後 |

2010/09/04

新聞八策

連続ツイート。 新聞八策

新聞八策(1)すべての記事を署名とし、社員のスタッフ・ライターと、社外のフリーランスのライターを平等に起用し、競わせる。新聞紙面に載る無署名記事は社員の執筆によるものであるという前提を突き崩す。

新聞八策(2)原則、すべての記事をウェブ上で公開するものとする。青空文庫を見ればわかるように、ウェブ上に電子データがあることは、必ずしも紙媒体の売り上げを下げるとは限らない。検索、インデックスを充実させて、新聞が議論のハブになれるように図る。

新聞八策(3)本格的な英字紙部門を発展させる。日本の記者が書いたものを英語に翻訳するのではなく、最初から英語で独自の記事を書くライター(スタッフ、フリーランスを問わず)を持つ。その上で、日本語の紙面と相互交流し、競争、強化を図る。

新聞八策(4)記者クラブは即時廃止。横並びを避ける。特オチを恐れない。単なる事実の報道は通信社にまかせて、じっくりと事実を分析した、読み応えのある分析、評論記事を掲載する。世界の主要紙を意識し、記事が国際レベルで見て室の高いものであることを目指す。

新聞八策(5)ウェブと連動するなどして、記事の字数を飛躍的に増やす。限られた字数の中で当たり障りのないことを書くという「芸」を廃し、議論を喚起し長く記憶に残るような「刺さる」記事を掲載することを目指す。

新聞八策(6)字数を同じにした升目のような書評欄の悪平等を廃す。それぞれの書き手が、一つの作品として自由な長さで書評を書けるようにする。各月に発表された作品に触れることが政治性を帯びる文芸時評、論壇時評の愚を廃し、書き手がフリーハンドで文芸、論壇の潮流を論じられるようにする。

新聞八策(7)投書欄を活性化させる。すべて同じ長さという悪平等を撤廃。一行だけの投書や、長文の投書があって良い。また、内容について、小学校の学級会の正義感のような「ストライクゾーン」を措定しないようにする。

新聞八策(8)最初から何百万読者向けの薄い内容を措定するのではなく、むしろ、ある熱いコミュニティ向けの記事があって良い。流行というものは、常に少数が多数を引っ張っていくものである。問題は、どのコミュニティにチューニングするか。

以上、2010年9月2日 茂木健一郎ツイッター・アカウント上にて。

http://twitter.com/kenichiromogi 

9月 4, 2010 at 09:50 午前 |

田中角栄氏に関しての連続ツイート

昨日深夜の田中角栄氏についての連続ツイートを、ここにまとめて掲載します。

茂木健一郎


金曜またぎの深夜でもあるし、帰って来ながらいろいろ考えたので、いつもは朝やる連続ツイートを、もう少ししたらやりたいと思います。

角栄(1)あれは数年前だったか、学生たちとカラオケをしている時に、「まあ、その〜国民のみなさまにはですね、まあ、その〜」と田中角栄のものまねをしたら、誰もわからなかった。昭和を象徴するあの人のダミ声を知らない世代が生まれてきているのだと知り、ショックだった。

角栄(2)その頃から、なぜか、田中角栄さんのことが気になった。最近になって、いろいろな意味で田中さんと比較される小沢一郎さんについての、マスコミの報道ぶりを見ていて、なぜ角栄さんのことが気になっていたのか、わかった気がする。角栄さんは、私たち日本人にとって、一つの「宿題」なのだ。

角栄(3)田中角栄さんは、高等小学校と中央工学校を卒業という決してエリートとは言えない出自の中、持ち前の強靱な知性と驚くべきバイタリティで、ついには総理大臣まで上り詰めた。支持率も高く、マスコミは「今太閤」と褒め称えた。

角栄(4)「コンピュータ付きブルドーザー」と評された頭の回転の速さと、エネルギー。人心を掌握する術にもたけていた田中角栄さんが、卓越した人物であったことを疑う人はいないだろう

角栄(5)田中角栄さんの最大の功績は、日中国交正常化を成し遂げたことだった。ニクソンの電撃的訪中によって、日本が「ジャパン・ナッシング」になる危険を察知した角栄さんは、総理大臣として驚くべきスピードで調整し、いろいろと障害のあった日中の国交正常化を成し遂げた。

角栄(6)その驚異的な頭の回転は、幾つもの伝説を読んでいる。大蔵大臣に就任した時、大臣室に来た官僚たち一人ひとりの名前を、フルネームで呼んで、居並ぶひとたちを感激させたという。

角栄(7)政治家にとって、他人の名前を覚えるのは大事な能力うっかり誰かの名前を忘れてしまうと、角栄さんは、握手をしながら、「君の名前はなんだっけ?」と聞き、「鈴木です」と答えると、「名字はわかっているよ。下の名前はなんだっけ?」と相手を傷つけずに聞き出したのだという。

角栄(8)「日本列島改造論」などで、狂乱物価を引き起こしたと批判された田中角栄さんだが、その旺盛な活動の背後には、故郷の新潟の貧しさに対する深い思いがあった。何とか、冬は豪雪に覆われる地域の人々の生活を向上させたいと願ったのである。

角栄(9)「今太閤」とたたえられた田中角栄さんの運命が暗転したのは、マスコミが「田中金脈」批判のキャンペーンを張ったことだった。集中豪雨的な批判記事の圧力の下、角栄さんは総理大臣を辞した。

角栄(10)辞任の翌年、米国の上院における証言から、「ロッキード事件」が発覚する。「総理の犯罪」を追求するマスコミの嵐のような記事。角栄さんは、逮捕され、一審で実刑判決を受ける。

角栄(11)逮捕、起訴後も、角栄さんは自民党内で力を持ち続けた。そんな角栄さんに、マスコミは「闇将軍」というレッテルを張った。やがて、角栄さんは病に倒れ、その影響力は次第に低下していく。

角栄(12)最高裁に上告中、角栄さんは帰らぬ人となる。その刑事責任は、結局確定しないまま、公訴は消滅することとなった。

角栄(13)田中金脈追及からロッキード事件発覚にかけて、私は小学生から中学生だった。当時の私は、マスコミの記事、報道をそのまま信じて、田中角栄という人は悪いひとだ、「よっしゃ、よっしゃ」といって賄賂を受け取った、その後も「闇将軍」として居残り続けていると思っていた。

角栄(14)その一方で、人間としての田中角栄という人を、どうしても憎む気にはなれなかった。その頃、『わたくしの少年時代』という自伝を読んだことがある。そこから伝わってくるのは、あくまでも真っ直ぐな、情熱に満ちた人柄だった。

角栄(15)それでも、長い間、「総理の犯罪」「田中金脈」「闇将軍」というレッテルから、私の思考は自由にならなかった。田中角栄さんのことが気になり始めたのは、今年になって、日本の良識ある人々の中で、検察や、マスコミの「正義」に対する不信感が本格的に頭をもたげてからのことである。

角栄(16)マスコミは「政治とカネ」と一つ覚えのように言う。統計的に考えて、その悪弊はさまざまな政党のさまざまな人たちにポアソン分布で生じるだろう。それなのに、なぜ、政権交代を果たしたばかりの政党の代表と幹事長だけが狙い撃ちされるのか、まずここでおかしいと思った。

角栄(17)マスコミや検察の「正義」が絶対的なものではないということは、成熟した民主主義の下では当たり前のことだろう。ところが、「有罪率が100%近い」という近代国家ではあり得ない事態の下、日本人は、長らく、マスコミと検察は絶対正義であるという「幻想」の魔法の下にあった。

角栄(18)魔法がとけて見ると、田中角栄さんのことが気になり始めた。あの一連の出来事は、一体何だったのだろう? あの一切の異論、反論を許さないような報道の嵐の中で、本当に「正義」はなされたのか? 田中角栄さんは、マスコミが描こうとしたような、極悪人だったのか?

角栄(19)田中角栄さんの問題は、日本人が未解決のまま抱えている宿題だと思う。あれほど功績のあった人、卓越した人を、マスコミがヒステリーじみたキャンペーンで、葬りさった。その狂乱の本質は何だったのか、私たちは振り返り、整理すべき時期が来ている。

角栄(20)中国の人たちは、日本のマスコミのキャンペーンに踊らされなかった。日中関係の井戸を掘った偉人として、首脳が日本を訪れる度に、田中角栄氏を訪問した、今考えると、角栄という人物の本質を見ていたのは、マスコミだったのか、それとも中国の人たちだったのか?

角栄(21)自分たちに絶対的な正義があると思っている人たちは、うさんくさい。「闇将軍」などと揶揄する記事を匿名で書き飛ばしていた新聞記者たちと、田中角栄さんと、どちらが人間として興味深く、また誠実に生きていたのか、今となっては答えは明かであるように私には思える。

角栄(22)ニーチェは、人間の最悪の罪の一つとして「ルサンチマン」を挙げた。田中角栄氏をめぐる一方的な報道ぶりを振り返ると、そこには、新聞記者たちの、角栄さんに対するルサンチマンがあったと思えてならない。

角栄(23)そもそも、権力者を次々と犯罪者に仕立てるのは、未成熟な国の特徴である。すばらしい点の多々あるお隣の国、韓国はまた、元大統領が次々と刑事被告人に貶められる国でもある。一方、成熟した民主主義の国では、そのような極端な変動は、絶えて久しい。

角栄(24)成熟した英国流のカモン・センスから言えば、田中角栄氏の「犯罪」は、果たして、あれほどのヒステリックな断罪が行われるべきことだったのか、大いにあやしい。少なくとも、その功績とのバランスにおいて総合的に判断する、そのような知的態度は有り得たはずである。

角栄(25)私は、過去に遡って、田中角栄氏にあやまりたい。小学校から中学校という、世間知らずの年代だったとは言え、自らの正義を信じて疑わないマスコミのヒステリックな報道によって、「闇将軍」であり、「悪人」であるとたとえ一時期でも思ってしまったことに対して、心から謝罪したい。

角栄(26)今、こうやって振り返って思い出すのは、ロッキード事件の渦中にあった頃の田中角栄氏が時折見せていた、孤独でさびしそうな横顔である。あそこには、人間の真実があった。一方、居丈高に正義を振りかざしていたマスコミの様子を思い出すと、浅薄さといやしさの印象だけが強まってくる。

角栄(27)ロッキード事件が明るみに出たあとも、田中角栄氏は、新潟でトップ当選し続けた。マスコミは、新潟の選挙民の意識が低いなどと揶揄し続けた。今考えれば、人間としてまともだったのは、一体どちらだったのだろう。

角栄(28)人間は、過去を振り返り、反省することで、未来への指針を得ることができる。日本の国の将来を、小学生の学級会のような幼稚な「正義」で危うくしてはならない。今こそ、田中角栄さんをめぐる一連の事態は一体何だったのか、真剣に検討すべき時期が来ているのではないか。

以上、田中角栄氏に関しての連続ツイートでした。深夜、大変お騒がせしました。おやすみなさい。

http://twitter.com/kenichiromogi 


田中角栄氏

http://bit.ly/9l5CXv 
田中角栄氏の演説(youtube)

9月 4, 2010 at 07:42 午前 |

2010/09/01

「偶有性」忌避という「風土病」

 生きる中で、将来がどうなるかわからないということ。自分たちが置かれている状況に、何らの必然性もないこと。このような「偶有性」という名の時代精神を象徴するモンスターから、日本人は目を逸らそうとしている。だからこそ、不安になるのである。

 「偶有性」は、近代以降の日本人にとって慣れ親しんだメタファーを使えば、まさに「外国」から来た「黒船」である。インターネットの登場によって、世界は「偶有性」のダイナミックスの中に投げ込まれようとしている。長い間固定されてきた秩序、システムが崩壊し、新しい、よりフレキシブルなものに取って代わられる。このような変化は、好むと好まざるとにかかわらず、一つの歴史的必然である。

 世界中の人が、「グローバリズム」という「偶有性の海」に飛び込み、大競争し、胆力を鍛える。そんな時代に、日本人は「偶有性」というモンスターに背を向け、惰眠をむさぼっている。本当は、不可避な変化がすぐそこまで迫ってきているとわかっているのに、恐くて、不安で仕方がない。だから、逃げ続け、安全な「小世界」の中で汲々としている。その「小世界」の持続可能性自体が危うくなっているというのに。

 小学校の時から、「受験勉強」に駆り立てる。それぞれの個性と関心に合わせた世界に没入し、ユニークな能力を伸ばすのではなく、驚くほど単調な「ペーパーテスト」という「モノカルチャー」の中で競い合う。最終的な目的は、「有名大学」というメンバー数が限られた「クラブ」への入会。一度入会してしまえば、学問の内容が真剣に問われ、深められていくこともない。大学三年から今度は「一流企業」という限られた「パイ」への就職競争が始まる。まるで、そこに所属しさえすれば、一生の幸せが保証されるとでも言うように。無反省なマスメディアが、そのようなステレオ・タイプ的認知をあおり立てる。

 受験、進学校、有名大学、一流企業。そのような敷かれたレールの上に人生の「幸せの方程式」があると思うこと。これが、現代日本の最大の宿痾である。「偶有性」の忌避こそが、現代日本にはびこる「風土病」であるとも言える。現代文明を特徴付けている「偶有性」に背を向け続ける。これこそが、日本の「失われた10年」、「失われた20年」を特徴付ける神経症状だった。

 最も悲劇的だったのは、国の行く末を指導し、ヴィジョンを示すはずの「エリート」と呼ばれる人たちが、最も「偶有性」から遠い存在だったということだろう。日本において、「エリート」とは、すなわち、「こうすれば社会から認められ、成功する」というローカル・ルールに黙々と従う人のことであり、決して、偶有性の海の中で泳ぎ続ける人たちのことではなかった。受験勉強を重ね、有名大学に入り、官僚になったり、一流企業の社員になる。そのプロセスには、「競争」はあったかもしれないが、そもそもの競争のルールや、どちらの方向に行くべきかというヴィジョンに関する揺れ動きは一切ない。

 グローバリズムの時代になったとはいえ、人々が一人残らずその自体の中で闘うべきだとまでは言い切れない。坂本龍馬の座右の銘とされる「世に生を得るは事をなすにあり」の気概で世界と渡り合う人たちは、私たちのうち、ごく少数でもいいのかもしれない。

 しかし、エリートと呼ばれる人たちが、国のために「偶有性の海」に飛び込まずに、一体他の誰が飛
び込もうというのだろうか。自分自身が「有名大学」に所属することばかりを考え、官僚になれば自分の省庁の既得権益を守ることばかりに熱心である。そのような「偶有性」から程遠い振るまい、考え方が、いわゆる「エリート」の間に蔓延している。それでいて、ちっぽけなプライドばかり高い。これでは、国が傾くのは当然のことである。

 何の保証もない「偶有性の海」に飛び込むこと。その勇気がなければ、この世で面白い展開などあるはずがない。日本人は、ずいぶんとつまらない生き方を自らに強いてきたのである。

9月 1, 2010 at 09:09 午前 |