それで、音だけもう一度撮り直したんです。
ドキュメンタリーのリアリティを作る上では、音声がとても大切だと、有吉さんは言う。極端な話を言えば、映像がなかったとしても、音声がきちんと録れていれば、それでドキュメンタリーは成立するというのである。
脳の領域のうちの、約3分の1は視覚にかかわっているとも言われる。視覚は、意識の中であれこれと把握しやすい。一方、音声は、背景に退きやすい。たとえば、ぼんやりと散歩をしている時に、環境から聞こえてくる音は、必ずしも意識されないだろう。しかし、そこに音があるということが、一つのリアリティを立ち上げる上で大切なことも事実である。
私たちは、どうしても、映像ということを中心にものを考えがちなのだろう。だから、何かを撮影するという時にも、ついつい音声のことを忘れてしまう。しかし、番組作りのプロたちは、決してそのことを忘れない。
ある大学に講演で呼ばれた時に、舞台のそでで学生たちと雑談をした。自分たちでドキュメンタリーを作ったのだという。
「音声が、案外大切でしょう?」
私は聞いた。一人の学生が肯いた。
「そうなんですよ。ぼくたちも、いったん撮り終えて、編集する段階になって、これではダメだと気付いて、それで、音だけもう一度撮り直したんです。」
文字という文化が出来てから、千年以上の時が経つ。その間、私たちの書き言葉の表現は変化し、洗練されてきた。一方、映像や音を撮り、それを編集して一つの世界を表現するという文化が生まれてから、まだ100年ほどしか経っていない。しかも、ノンリニア編集やさまざまなエフェクトなど、技術は進歩し続けている。
ドキュメンタリーをどう撮り、編集し、表現するか。そこにあるさまざまな可能性の全貌を、私たちは未だ把握していないのだろう。
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コメント
父親の仕事の関係で、県立盲学校の寄宿舎近くの官舎で暮らしていたせいで、目の見えない子供と接する機会が多々ありました、
見える子供の私は自由に行動していましたが、彼らも極めて自由に行動していたのを知っています、見えるので行ける所の認識が決まっているのは私、
、彼らは、私以上に、いろんな遊び場所を持っていました、行ける範囲を音の聞こえる範囲と触る場所からどこまでも広いのです、聴力が素晴らしく、気配を感じるのは抜群、友達は、わざとそ~~と寄っていく私を既に知っているのです、
Rちゃんだ~って、すぐに振り返るんですよ、
講堂のギャラリーの様に危ない場所で、高等部の優しいカップルの二人がいつもデイトしていて、私が遊ぼっていう前に、Rちゃん、って笑いながらの声が聞こえるのです・・
本当に今でも不思議に思えます、音は心の中の視覚と合わさって普通の人以上に感受性を働かせるのでしょうか・・
邦楽クラブでお琴を弾いたり、ピアノクラブでピアノを習ってる人もいらして、私は,とても羨ましく、目を閉じて感じる真似っこをしたことさえあります、
カップルのお姉さんにRちゃん可愛いって、頭や肩や、頬や指まで優しく撫でてくれたしなやかな感触は、見えない人独特の柔らかさで、今でもふと懐かしく思い出します、
視覚のある私たちが、映像を見るとき感じる聴覚と視覚の好ましい関係は、、もしかすると、目を閉じて見えてくる心の中の感性から、生じてくる音響に、表現の一致があるのかもしれませんね
映像だけでなく、映像のように見える人のいる風景を、遠くから眺めるようなおり、心のなかに自分だけの音楽が流れてくるような錯覚を覚えることなどありますよね・・
私は、きっとそんな音楽が、映像ともマッチするものじゃないかな・・なんて想ったりしています
reiko.G
投稿: reiko.G | 2010年2月14日 (日) 18時28分
こんばんは 茂木サン 。映像重視に見えて、 実は その映像に深みや広がりを 持たせているのが、
音の効果かな と思う。
街を歩いている人の映像に 雑踏の足音や車のエンジン音があったら、
よりリアルということ。
なるほど、大事ですね。
もっと耳を澄まして 音や言葉を大切に聞き取っていきたいですね。
投稿: サラリン | 2010年2月15日 (月) 00時06分