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2010年2月18日 (木)

プロフェッショナル日記 Phase I

プロフェッショナル日記 Phase I

2007.1.31〜2010.2.17.

Now I am soul searching.

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2010年2月17日 (水)

その一連の流れの細部を忘れてしまっているからこそ

 細部は忘れてしまうからこそ、その時の流れがかけがえのないものに感じられるというのは、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録の現場も同じこと。

 打ち合わせで最初にディレクターの方が撮ってきたVTRを見た時の新鮮な感想。住吉美紀さんのコメントに学んだこと。山口佐知子さんの入館証。有吉伸人さんの方にフリスクの箱を渡すと、さっそく有吉さんが手を伸ばしていたこと。打ち上げで、有吉さんのために専用の鶏の唐揚げを注文すると、「ぼくは食べませんよ」と言いながら結局は平らげていたこと。

 オープニングで、36秒で言わなければならない緊張。「まず練習しますか」と言う住吉美紀さん。山口佐知子さんがストップウォッチを測る。「あー、おしい。38秒」と叫ぶ山口さん。「それじゃあ、プロフェッショナル 仕事の流儀というのを省きますか」という有吉伸人さん。カメラの方々から伝わってくる真剣な表情。インカムを通して聞こえてくる、副調整室の声。ゲストの方の笑顔。

 「以上です」と収録が終わった時の、ほっとした気持ち。思い切り背伸びして、それから、着替える。メイクを落とす。日経BPの渡辺和博さんが待っている。

 その一連の流れの細部を忘れてしまっているからこそ、積み重ねてきた時間が、しみじみと意味があるもののように感じられるのである。

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2010年2月16日 (火)

過去に対する感慨は、記憶の不在に支えられている。

 「編集で落ちる」ということの意味を知った後、さまざまな局面で似たような感覚に到達した。

 たとえば、ブログを書くということ。一日のうちに、さまざまな経験をする。いろいろな人に会う。そんなあれこれを、時系列で書いていけば完全な記録になるのであろうが、そんなわけにもいかない。ブログを書くことができる時間も限られている。素材の取捨選択をしなければならない。

 朝、ブログを書いた後で、ああそうだ、あれも書いていなかった、これも書いていなかったなどと思い出す。その一つひとつが、思い出の中でキラキラと光っている。その残像に形を与えたいとも思うが、さまざまな制約で果たせない。

 そもそも、人間の記憶というものが、大半のことを忘れることでできあがっている。たとえば、小学校の時のことを振り返って、その時間の流れが過ぎ去ってしまったことのかけがえのなさにしみじみと感じるのも、多くのことを忘れてしまっているからである。毎日毎日が、水が跳ねたのに驚く魚のような鮮烈な生命に満ちていたのに、その多くが忘却の彼方に去ってしまったからこそ、私たちはかけがえのなさを感じる。過去に対する感慨は、記憶の不在に支えられている。

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2010年2月15日 (月)

「編集で落ちる」

 ドキュメンタリーの撮影現場では、いろいろなことがあるのだろうと想像する。取材対象となる方と、どのように打ち解けるか。カメラをはじめとする、取材陣の存在にどのように慣れてもらえるか。
 カメラを意識していては、ふだんの仕事ぶりが撮れないだろう。その一方、カメラとのやりとりが面白い効果を生む場合もあるかもしれない。

 取材から帰ってきて、100本以上にのぼる映像の「ラッシュ」を見る。それを、何とかして30分くらいのVTRに編集しなければならない。

 「編集で落ちる」という言葉の重みを知った。どんなに力のある映像でも、意味深い瞬間でも、テレビ番組の「尺」に収まらない部分は、落とさなければならない。その決断は、ディレクターの方々にとって重いものだろうと思う。テープの上の一瞬一瞬は、取材の対象になる方と、ディレクターをはじめとする取材陣の人生が交錯した時間の証言者だからである。

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2010年2月14日 (日)

それで、音だけもう一度撮り直したんです。

ドキュメンタリーのリアリティを作る上では、音声がとても大切だと、有吉さんは言う。極端な話を言えば、映像がなかったとしても、音声がきちんと録れていれば、それでドキュメンタリーは成立するというのである。

脳の領域のうちの、約3分の1は視覚にかかわっているとも言われる。視覚は、意識の中であれこれと把握しやすい。一方、音声は、背景に退きやすい。たとえば、ぼんやりと散歩をしている時に、環境から聞こえてくる音は、必ずしも意識されないだろう。しかし、そこに音があるということが、一つのリアリティを立ち上げる上で大切なことも事実である。

私たちは、どうしても、映像ということを中心にものを考えがちなのだろう。だから、何かを撮影するという時にも、ついつい音声のことを忘れてしまう。しかし、番組作りのプロたちは、決してそのことを忘れない。

ある大学に講演で呼ばれた時に、舞台のそでで学生たちと雑談をした。自分たちでドキュメンタリーを作ったのだという。

「音声が、案外大切でしょう?」

私は聞いた。一人の学生が肯いた。

「そうなんですよ。ぼくたちも、いったん撮り終えて、編集する段階になって、これではダメだと気付いて、それで、音だけもう一度撮り直したんです。」

文字という文化が出来てから、千年以上の時が経つ。その間、私たちの書き言葉の表現は変化し、洗練されてきた。一方、映像や音を撮り、それを編集して一つの世界を表現するという文化が生まれてから、まだ100年ほどしか経っていない。しかも、ノンリニア編集やさまざまなエフェクトなど、技術は進歩し続けている。

ドキュメンタリーをどう撮り、編集し、表現するか。そこにあるさまざまな可能性の全貌を、私たちは未だ把握していないのだろう。

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2010年2月13日 (土)

床屋にいる時というのは、不思議なことに人間はリラックスするもので

『プロフェッショナル 仕事の流儀』のスタッフたちは、皆、ドキュメンタリー作りにかかわっている。

ドキュメンタリーとは何か。どのようにそれを撮るか。番組作りにかかわっていく中で、いろいろな話を聞く機会があった。

ドキュメンタリーの奥は深く、さまざまなノウハウがあり、制作哲学がある。私は、現時点では、その奥深い世界のごく一部分しかのぞき込んでいないのだと思う。

有吉伸人さんには、いろいろな話を聞いた。それらの話は、一つの叡智の体系として、私の中に刻み込まれている。

たとえば、ドキュメンタリーを撮っている最中に、取材対象者が髪の毛を切ってしまうと、うまく映像
がつながらないことがあるのだという。だから、撮影の初日に、床屋に行ってもらうという手法があるのだと有吉さんに聞いた。

「初日に床屋に行って髪の毛を切ってもらえば、その後、取材期間中は髪の毛の長さが基本的に変わらないですから、いいんですよ」と有吉さんは言った。

「それに、取材の最初の方は、どうしても緊張しているから、ぎこちなくなってしまうんです。ところが、床屋にいる時というのは、不思議なことに人間はリラックスするもので、案外打ち解けたインタビューがとれたりするんですよ。それに、絵的にも面白いし。」

なるほどと思った。どんな分野も、たくさんの小さな知恵からできあがっているものである。

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2010年2月12日 (金)

「茂木さん、このごろ白ばかりですね」

 いちいち有吉伸人さんにフリスクを分けるのも面倒なので、ある時期から、二つずつフリスクを買うようになった。そうして、収録の前に、有吉さんに、「ほら、有吉さん!」と一つ手渡すのである。

 買うのは、「第一食堂」の横の薬の売店で、いつもベテランのおじさんがレジに立っていらっしゃる。

 ぼくが来ると、必ずフリスクを二箱買うので、おじさんも覚えていて、にこにこ笑っている。

 ある時、フリスクの置き場所が変化したことがあった。とまどって探していたら、おじさんが、何もいわないうちに、「フリスクならば、あそこですよ」と教えてくれた。

 自分の心の中を見透かされているようで、恥ずかしかった。

 ラーメン屋の前に行列しているのは、何となく恥ずかしい。「あの人、ラーメンが食べたいんだ」と内面の欲望が悟られてしまうからである。薬局のおじさんに、「あの人フリスクが欲しいんだ」とわかられてしまうことも、何となく恥ずかしい。

 毎回、恥ずかしい思いをしながら、薬局でフリスクを買うのである。

 フリスクには白と黒があって、黒の方が強力である。有吉さんもぼくも白を食べていたが、ある時期から黒に移った。

 第一食堂の横の薬局にも、黒が置いてあって、そればかり買っていた。ところがが、ある時全部白になってしまった。

 ぼくはとまどって、仕方がないので白を買って、収録の前に有吉さんに一個あげた。有吉さんは、何となく曖昧な顔をしていた。

 そんなことが何回か続いた後で、有吉さんにいつものようにフリスクを渡すと、有吉さんが、「茂木さん、このごろ白ばかりですね」と寂しそうに言った。

 ぼくは、「最近、薬局に白のフリスクしか置いていないんですよ。」と答えた。

 次の時、薬局のおじさんに、「最近黒のフリスクは置いていないのですか」と聞いた。そうしたら、おじさんは、笑って、「また今度入れておきますよ」と言った。

 それ以来、薬局に行っては見てみるけれども、まだ黒のフリスクは並べられていない。いつか入っているだろうと、それを楽しみに第一食堂の横の薬局のところを歩くのである。

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2010年2月11日 (木)

夏の夜、ふらりと入った食堂で

 専門性の問題だけではない。「感情の振れ幅」という意味においても、テレビにはさまざまな制約がある。

 皆、生活の中でそれぞれ苦労をしている。勉強や仕事に、プレッシャーがかかる中でがんばって取り組んでいる。そんな中、テレビを見る時くらい、力を抜いて楽しみたいと考えるのは人情というものだろう。

 かつて、巨人戦を中心とするプロ野球中継が地上波テレビの目玉となる番組だった時、一日の仕事を終えた人たちがそれを楽しそうに見ているのを何度目撃したことだろう。

 例えば、学会で訪れた福岡県の飯塚市。夏の夜、ふらりと入った食堂で、おじさんたちがそれぞれテーブルに入り、食事をとりながらテレビの巨人戦を見ていた。窓が開け放たれ、涼しい風が通る気持ちのよい食堂。大皿にさまざまなおかずが並べられ、自分の好きなものを指してとる。すっかりくつろいだ格好で、ビールのグラスを傾けながら時々やじる。テレビのある光景。それは、美しいものだった。

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2010年2月10日 (水)

場合によっては何千万人という人が見るメディア

 テレビとは、一体どのようなメディアなのだろうか? 

 現在のテレビについて、とりわけ地上波テレビについて、その内容が俗であるとか、レベルが低いとか、いろいろな批判が言われることがある。私自身も、そのような印象をテレビに対して持っていて、実際にあまり見ていなかった。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』にかかわるようになって、そのような感覚が一変した。制作現場の実際に触れて、単純な批判は生産的ではないと感じるようになったのである。

 長く低迷する日本。一つの根本的な問題は、当事者意識の欠如ではないか。批判をすることは簡単にできる。問題は、現場の当事者になった時に、どんなことができるかということだろう。

 それぞれの人が現場を持っている。現実の制約の中で、一日の限られた時間を使って、一生懸命仕事をしている。その結果生み出されるものについて、常に自己反省を続けることは大切である。その一方で、そう簡単には物事が動かないことも事実である。 

 そもそも、テレビは、一度に何百万人、場合によっては何千万人という人が見るメディアである。そのことによる制約は、当然存在する。たとえそれがどんなに大切な問題だとしても、それに関心を持つ人が母数としてある程度存在しなければ、テレビ番組として成り立たない。

 例えば、私のライフワークである心と脳の関係についての技術的な問題のある側面について、関心を持ち、知識を備え、すぐに議論ができる人は、日本にはおそらく数千人くらいしかいない。だから、そのような問題に対するテレビ番組は成立しない。

 「脳科学的には」という問いに対して、私がテレビ番組で語るべきことは、心脳問題に関する技術的な議論ではなく、世間の多くの人たちの生きる上での関心に資することでなければならない。そのことは、かなり初期からわかっていた。結果として話すことができる内容が限られてしまったとしても、それは、テレビというメディアの性質から考えて、仕方がないことのように思われた。

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2010年2月 9日 (火)

一塁回ってとっとこと

 私がNHKの番組に初めて出演したのは、実はかなり幼い時である。子どもたちが歌のおねえさんやおにいさんと遊ぶ『おかあさんといっしょ』に、親が応募して、当選して渋谷の放送センターに行ったのである。

 当時、私は幼稚園に通っているか、あるいはその前。その時のことはほとんど覚えていない。ただ、スタジオで、音楽に合わせてぐるぐると走ったことだけは覚えている。

 私がお気に入りだったのは、番組の中にあった踊りのコーナー。確か、「一塁回ってとっとこと、二塁回ってとっとこと、三塁まわってとっとこ、とっとこ、ホームイン!」というような歌詞だったのではないかと思う。その歌に会わせて、野球選手がベースを回るように走るのである。

 そのくらいの年齢だから、テレビ番組に出ているという意識は希薄で、取りたてて緊張もしなかったのではないか。ただ、歌のおねえさん、おにいさんと一緒にスタジオでくるくる走ったのがとても楽しかったことを覚えている。

 「健一郎がお母さんといっしょに出る」。そのように、母親が九州の祖父母に言ったらしい。それで、九州の祖父母は、孫の姿を見ようと、その日はテレビの前に時間になると座っていたらしい。当時は、家庭用のVTRなどない時代だから、テレビを見ようと思ったら、その日、その時間にブラウン管の前に座っているしか方法がなかった。だからこその、貴重な「一回性」の体験だったということもあるのだろう。

 九州の祖母が亡くなったのは、私が小学校に上がる前だと記憶している。子どもだから、「死」の意味が余りわからず、祖母が自宅で横たわって顔に白い布がかかっているのを、ただ神妙に見つめていた。

 子どものことだから、そのうちに退屈してしまった。その上に、親戚の人がたくさん来ているから何だか興奮してしまって、妹と一緒に座敷を走り回って、怒られてしまったことも覚えている。あの時の私の幼さ、妹の幼さを考えると、それが『おかあさんといっしょ』に出る前だったかどうか、記憶がはっきりしない。ただ、私の想像の中では、九州の祖母もテレビ受像機の前で私がスタジオを走り回るのを見ていたように思うのである。

 それからしばらく、私は、九州の親戚に遊びに行くと、「けんちゃん、あれやってごらん」とからかわれた。

 「一塁回ってとっとこと、二塁回ってとっとこと、・・・」と親戚のおばさんが言うと、私もよせばいいのに、乗せられて走り出してしまう。それを見て、親戚の人たちが手を叩いて笑う。私も、受けているのでいい気になって、ますますくるくると回る。

 「一塁回ってとっとこと、二塁回ってとっとこと、三塁まわってとっとこ、とっとこ、ホームイン!」

 私の中での「NHK」の最も古い記憶は、この歌とともにある。

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2010年2月 7日 (日)

そうだねえ。

 私はフリスクがとても好きで、いつも持ち歩いている。その空き箱をリュックの中に入れて忘れてしまうので、ポケットのあちらこちらにフリスクの空き箱が潜んでいるという状態になる。

 有吉伸人さんもフリスクが好きだということがわかった。『プロフェッショナル 仕事の流儀』の打ち合わせの際、私の行動には「不動のパターン」のようなものがあって、それをいつか住吉美紀さんに指摘された。

 「茂木さんの行動パターン、わかりましたよ。」
 「そうですか。」
 「まず入ってくると、自動販売機のところで、カフェラテを買うでしょう。」
 「そうだねえ。」
 「それから、カフェラテを飲みながら、おもむろにフリスクを取り出して、まず自分で食べるでしょう。」
 「そうだねえ。」
 「それから、隣りに座っている有吉伸人さんに、有吉さん、これ、ってフリスクをあげるでしょ。」
 「そうだねえ。」

 私は「そうだねえ。」しか言っていないようであるが、実際住吉美紀さんの言う通りなのである。

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何と言ってもワンタンがいい。

 私には、気に入った食事はしつこくそればかりを頼む癖がある。「ばらえ亭」では、ワンタン麺が好きで、そればかり注文していた。有吉さんは、鶏の唐揚げが何よりも好物で、それが入ったメニューを見つけると、必ず注文する。

 ばらえ亭のワンタン麺は、何と言ってもワンタンがいい。皮がやわらかくて、つるんとしていて、喉の奥をするっと入っていってしまう。ワンタンを食べてから、スープを飲み、麺をすすると、幸せな気分になる。

 テーブルの上に載っているコショウをかける。最近は、ラーメンを食べる時にコショウをかけることは少なくなったけれども、ばらえ亭のワンタン麺だけは、コショウをかけずにはいられないのである。

 ばらえ亭は、「1食」や「5食」の、広い空間にテーブルや椅子が並んでいるいかにも「社員食堂」という印象とは異なり、テーブルや椅子が小さな区画に分かれていて、全体的にシックな印象である。

 紅白歌合戦の審査員をさせていただいた時、この「ばらえ亭」が審査員の控え室になった。ばらえ亭に案内された時、「あっ、ワンタン麺の場所だ!」と思った。

 いつも有吉伸人さんとワンタン麺を食べている場所で胸に花をつけられて、うれしいような恥ずかしいような、神妙な気持ちになったのを覚えている。

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2010年2月 6日 (土)

ばらえ亭

 食事の時間がある程度とれる時、私が好んで出かけたのは5階にある「第五食堂」(五食)だった。ここでは、にぎりやちらしなどの寿司を注文することが多かった。

 五食からは、NHKの正面玄関の前の広場を見下ろすことができる。窓際に座って、パソコンを開き、メールをチェックしながらご飯を食べた。時々、知り合いの人がいて、声を掛け合うこともあった。

 五食の横には、麺類が専門の「ばらえ亭」がある。おそらく、「バラエティ」から来ているのではないかと思う。ところが、私は、いつも名前を勘違いして、ついつい「メンテイ」と呼んでしまうのだった。

 麺類を出しているから、という連想で「メンテイ」と呼ぶのであるが、本当はもちろん違う。そもそも、「メンテイ」だと、「免停」のようで、何だかおかしい。

 ばらえ亭には、有吉伸人さんと行くことが多かった。打ち合わせの前後など、少し時間があると、有吉さんに、「メンテイに行きましょうか」という。もちろん間違っているのだが、有吉さんも特に気に留めず「行きましょうか」と行って、二人で「シャジョウ」(社会情報番組)のある10階からエレベーターに乗る。

 エレベーターが着く頃になって、私は、「あっ、しまった」と叫ぶ。「メンテイじゃなくて、ばらえ亭でした。」有吉さんは笑う。「ははは。わかっていますよ。みんな間違えますから」と有吉さん。

 しかし、私の知る限り、私以外で「ばらえ亭」を「メンテイ」と呼んでいる間抜けな人はいなかった。

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2010年2月 5日 (金)

いつも御世話になっている第一食堂

『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録にかかわるようになって、打ち合わせと本番の週2回、渋谷のNHKに行くようになった。

 最初は、ディレクターの方や、スタッフの方が西口まで迎えに来て下さったのだが、そのうち、自分でスタジオまで行けるようになった。

 迎えなしにスタジオにひょこひょこ姿を現した時、細田美和子さんが、「茂木さんが自立した!」と驚いていたのをよく覚えている。

 収録のスタジオは、たいていが102。ゲストの方の都合でいつもと違う曜日に収録したり、スタジオに視聴者のみなさんをお招きしての「脳活用法スペシャル」の際などには、スタジオの位置が変わることもあった。

 収録の前や、合間に、NHK内の食堂に行く。スタジオに一番近いのは「1食」と言い習わされる「第一食堂」で、ここで食べるメニューはたいていかけそばだった。他に生卵の券を求めて、それを入れて味わうのである。

 紅白歌合戦の審査員をさせていただいたことがあった。いつも御世話になっている第一食堂が、終了後の懇親会場になっていて、すっかりきれいに飾り付けされていて驚いた。

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2010年2月 4日 (木)

タカさんは、ガンジーになった。

 現在はNHKの名古屋放送局にいらっしゃる山本隆之さん(タカさん)は、長い間、「デスク」として『プロフェッショナル 仕事の流儀』を支えた。

 私を含め、みんなに「タカさん、タカさん」と呼ばれて親しまれたタカさんは、クラシック音楽をこよなく愛するジェントルマンである。

 タカさんには愛すべき癖が幾つかあって、そのうちの一つが、「食べる時に前傾姿勢になる」ということだった。タカさんは、そのようにして「やる気」を示しているように見えた。そんなタカさんが、私は大好きだった。

 ある時、打ち合わせ中に、タカさんの顔がコロコロの豆に見えた。私は、思いついて、タカさんの顔を指でつまんでみた。

 その時の写真は、私の何よりのお気に入りの一枚となっている。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』の合宿でみんなで温泉に行った時、タカさんは床で眠ってしまった。

 タカさんは、ガンジーになった。


前傾姿勢でやるきを見せるタカさん。2006年10月。


プロフェッショナル班の居室でもやる気を見せるタカさん。2007年4月。


打ち合わせ室で、幸せそうに食べるタカさん。2007年9月。


打ち合わせ室で、ころりんとしたタカさん。2007年11月。


合宿で、ガンジーになったタカさん。2008年5月。

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2010年2月 3日 (水)

一つの美しい奇跡

 柴田周平さんは、私の心に深くの残る木村秋則さんの回を担当された方である。

 木村秋則さんのお祝いの会にかけつけるために弘前に行った時、柴田さんのご実家が、弘前の中心街にあったことに驚いた。柴田さんと木村さんは、実は同郷の人だったのである。

 柴田さんは、にこにこ笑っていながら、なかなかに粘り強く、そして温かい。そのようなところは、そういえば、木村秋則さんに似ているように思う。

 柴田さんと一緒に撮影したのは、原田人さん。原田さんも、温かい人で、そして、とても腕がいい。

 木村さんのりんご畑に伺った時に、その風景の美しさに息をのんだ。そうして、その畑の中で、行われた撮影に様子を思い描くと、何とも言えない感慨にとらわれる。柴田さんがディレクターとして立ち回って、原田人さんが撮影する。木村秋則さんが、あの表情で、畑の土をみたり、りんごの木の樹皮にさわったりする。

 柴田周平さん、原田人さん、そして、木村秋則さん。その三人の人生が、そうやって交錯する有り様を思い描くと、そこには一つの美しい奇跡があるように思うのである。


柴田周平さん


原田人さん


木村秋則さん。背後に、原田人さん。

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2010年2月 2日 (火)

ディレクター魂

 荒川格さんは、宮崎駿さんに対して、自らカメラを持って取材を試みるという大胆な手に打って出た。その結果、忘れがたき傑作が出来上がったことは、番組を見た人が皆知るところである。

 荒川さんは、細身で、ひょうひょうとしていて、一体その体のどこに、情熱とエネルギーが潜んでいるのかと、驚嘆する。

 ちょうど、自らカメラを回して、ドキュメンタリー作品を創り上げるアメリカのマイケル・ムーア監督に通じるというので、私は密かに「マイケル荒川」と呼んでいる。

 「やあ、マイケル」と声をかけると、この頃は振り返ってくれるようになった。

 荒川さんが撮影した宮崎駿さんの制作過程のドキュメンタリーには、いくつか忘れられないシーンがある。構想中の宮崎さんを取材中、怒られて、お前はもういい、と言われ、それでもカメラを床の上に置いて撮影した場面。

 宮崎さんが、ベランダで、夕日を見るシーンでの、一連のシークエンス。

 有吉伸人さんが、「あいつは勘が良いんですよ。」と言う、荒川さんのセンスと反射神経が現れていた。

 その荒川さんと、お昼を食べていた時のこと。話題が、最近プロフェッショナル班に入ってきた三上紘司さんのことになった。三上さんが、「今まで通りのドキュメンタリーを撮っても意味がないですからね!」と荒川さんに叫んだと聞いた。

 「あいつは凄いですよ。夜、一人で編集室でラッシュを見て、それをすべて文字起こししているんですが、普通、翌日もロケを控えているのに、あそこまではやらないですからねえ。」

 ディレクター魂があって、その思いが人から人へと受け継がれている。出来上がった番組を見ている視聴者にも、その気迫は必ず伝わっているものと信じるし、また、その舞台裏をほんの少しのぞいた観察者としては、伝わってほしいと心から願う。



ディレクター魂。三上紘司さん(左端)とマイケル荒川(右端)

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2010年2月 1日 (月)

大河のスタジオは、まるでドラエモンのポケットのよう

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録が行われるのは、102スタジオだった。その近くに、大河ドラマの収録が行われるスタジオがあって、西玄関から102スタジオに行く時には、いつもその場所を通る。いつ見ても、たくさんの人がいて、大河ドラマの収録というのはやはり大変なのだなと感じさせる。

 面白いのは、休憩時間である。トイレに入っていると、突然、となりに頭にチョンマゲを結って武者のかっこうをした人が来たりする。そんな時は、大河ドラマだとわかっていても、やはりドキリとする。

 或いは、ソファのところで、侍と侍が談笑しているような時もある。そんな時は、自分は今いったいどの時代にいるのだろうかと一瞬不思議な錯覚にとらわれる。

 それにしても不思議なのは、いったいどのように撮影しているのか、ということ。大河ドラマの撮影をしていない時に、そのスタジオを見たことがある。体育館のようにだだっ広いということは全くなく、ごく普通のスタジオだった。一体、このスタジオの中で、どのようにやりくりして、撮影をしているのだろうか。

 『龍馬伝』を見ていると、江戸の街中のシーンのように、明らかに野外のセットで撮っているものもある。一方、屋敷の中や、少し庭がせり出しているようなシーンは、渋谷で撮っているに違いないから、その全てがあのスタジオの中でやりくりされていると思うと、本当に不思議な感じがする。

 大河のスタジオは、まるでドラエモンのポケットのようである。前を通りかかる度に、その不思議さと、関係者の努力に打ち震える。

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