「天が見ている」 坂東玉三郎さん
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
2008年はじめの収録のゲストは、
歌舞伎役者の坂東玉三郎さん。
担当したのは、本間一成
ディレクター。
私は、二十歳くらいの時に初めて
歌舞伎を見て衝撃を受けて以来
(『義経千本桜』の「四の切」を幕見した)、
足繁く歌舞伎座に通ってきた。
その中で、玉三郎さんの舞台には
何度も接して来ている。
『義経千本桜』の静御前はもちろんのこと、
『娘道成寺』や『鷺娘』などの踊り、
『伽羅先代萩』の 政岡など、さまざまな
姿の玉三郎さんを見てきた。
玉三郎さんには、
舞台に立つと、その瞬間に
ぱっとそこが明るくなるような華がある。
「役者の華」というものはどうやって
生まれるのか、とお尋ねすると、
「その本当の理由はわからない」
と玉三郎さん。
「ただ、その人の生き方が現れる
ことは事実だと思います。お客さんが、
自分たちが何を感じているのか、その
実体はわからないにせよ、はっきりと
その存在を感じる、そんな何かでは
ないでしょうか。」
玉三郎さんの舞台から醸し出される
その、命そのものが震えるような、
初々しい気配に見せられてきた。
玉三郎さんは、子どもの時に
病気をされて、その影響もあり、
「いつ踊れなくなるか。明日はもう
舞台に立てないかもしれない」
と思い続けてきたのだという。
遠い目標を立てるのではなく、
「まずは明日」と常に
「今、ここ」と「ほんの少し先「
を大切にしてきた。
「明日はどうなるかわからない」という
切なさ、不安が、玉三郎さんの
舞台のふるえるような初々しさを
支えてきたのだろう。
収録中、住吉美紀さんとともに、
玉三郎さんに女形の所作を教えて
いただいた。
足元や身体の傾きなどを
指導する玉三郎さんの横に立って、
今まで感じた
ことがないような確かで温かな
何かを感じた。
あれは何だったのだろうと、
その感覚がずっと残った。
映画監督や舞台の演出にも
携わっている玉三郎さん。
その中で、「他の人を成長させる」
という喜びに目覚めたのだという。
「役者は基本的に自分自身が向上
することに命を賭けていますから、
他の人を成長させるということに
それほど情熱を傾けられるかどうか
わからなかった。でも、そういうことが
できるように学習した」
と玉三郎さん。
他人の学びを助ける際に一番
大切なのは、その人自身が何かを
発見した時に、「そう、それ!」
と横から指摘してあげること
だという。
学ぶということは、自発的に
行われる時に最も進むのであるが、
玉三郎さんのように経験を積んだ
先達者が傍らで見守り、
的確に「そう、それ!」
と言ってあげることで、発見の
喜びは増し、自信がつき、結果として
学びの質が変わるのであろう。
相手のことを
よく観察しなければならない、
と玉三郎さんは言う。
所作を教えていただいている
時に感じた確かな温かさは、
そのような玉三郎さんの視線だったのだ。
歌舞伎は、出雲の阿国から
始まったが、
人気が出た時、
江戸幕府が女性が舞台に立つことを
禁じた。
そのような制約から生まれたのが
「女形」。
玉三郎さんが演じる女性は、
「本物の女性」よりも「女」らしい。
男が女を演ずるということを、
玉三郎さんは楽器による音楽の
演奏にたとえる。
肉体が楽器となるのである。
一つひとつの所作が、音符の
ような存在になる。
所作を重ねることによって、
そこにはもともと存在しなかった
「女らしさ」という「音楽」が生まれる。
「女らしさ」は肉体に宿るのではない。
むしろ、抽象的な存在として、
肉体を突き抜けた「向こう側」
に見えるのである。
音楽を聴く時に、一つひとつの
音符だけに注目しても仕方がないのと
同じように、「女らしさ」を現出
する上で、所作は大事であるが、
問題はそれらが包絡して描く線の
方である。
そして、そのような「女らしさ」
を虚空に描くという点において、
女形も、女優も、やっている
ことは同じであると玉三郎さんは言われる。
女の肉体をもって奏でるか、
男の肉体をもって奏でるかという
差でしかない。
女優の場合も、すぐれた人は、
一旦は授かった自分の自然の肉体を
封印して、あえてそれまでなかった
「女らしさ」を創造するのである。
玉三郎さんの舞台姿は
ため息が出るほど美しく、
外見や身体能力を含めた、
天賦の才の果実だとしか言いようがない。
すぐれて非凡なのは、「のめり込む」
という点である。
ある役をやることになると、
他のものが一切見られなくなって、
すっとその中に入っていってしまう。
それでいて、終われば、
「あれ、そんなことしていたかしら」
とふっと横を向いてしまう。
他のことを忘れてしまうような
没入と、その一方での潔い
切り替えが、玉三郎さんを支えている。
もっとも、没入すると言っても、
完全にあちらの世界に行ってしまうと、
お客さんに見せる舞台芸術としては
バランスを欠く。
だから、公演中の玉三郎さんは、
没入している自分と、それを外から
見ている自分と、常に二人の自分を
保持し続けているのだという。
「では、完全に没入し切ってしまう
ことはないんですか?」
と伺うと、実はあるのだという。
お稽古の際、「ちょっとあっちへ
行っていて」と周囲の人に退出して
もらって、完全に一人になって、
踊る時には、完全に振り切って、
「あちら側」に行ってしまって
踊るのだという。
「スケッチと同じなのです。」
「所作だけを最小限やるような稽古と、
没入して振り切れてしまったような稽古を
両方やっておいて、
その中間のところにさっと降りて
本番の舞台をやるのです。」
いったん振り切れておかないと、
中間のところにもいけないと
玉三郎さん。
誰も見たことがないという、
玉三郎さんの「振り切れた」踊りは、
一体どのようなものなのだろうか?
「神様が見ているのではないですか?」
と尋ねると、
「神様がいるかどうかはわからないけれども」
と前置きした上で、
舞台で踊っていて、「天が見ている」
と感じることはあると玉三郎さんは言われた。
踊っている最中に、何のために
そうしているのか、心許なくなることがある。
そんなときの「最後の支え」が、
「天が見ていらっしゃる」と思うことだと
玉三郎さん。
歌舞伎の素晴らしいところは、
玉三郎さんのような極めた芸術性と、
誰でも親しめる開放性が同居している
こと。
最初に歌舞伎座に行った頃は、
開演中でも皆お酒を飲んだり、
お弁当を食べたりするので
びっくりした。
客席のさまざまは、
舞台にも届く。
踊っている最中に、
誰かが弁当を広げて、
そのがさがさとした音が
聞こえてくることがあるという。
そんな時、玉三郎さんは、
「ああ、あの弁当の音も、
天が見てくださっていることの
表れだ」と思うことに
しているのだそうである。
その話を伺って、
戦慄が走った。
ここに、
何かとてつもないものを掴んで
しまっている人がいる。
間近に見る玉三郎さんは、
すうと吸い込まれるような
魅力に満ちていた。
目が離せず、そして、
深く遠いインスピレーションを
いただいた。
坂東玉三郎さんが出演される
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
は、2008年1月15日 放送予定。
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コメント
ドラッカーの著書では,紀元前のギリシャの彫刻家フェイディアスの言葉が紹介されていますね.
「彫像の背中は見えない.見えない部分にまで彫って請求してくるとは何事か」.それに対し,フェイディアスは答えた.「そんなことはない。神々が見ている」
天が見ている.神々が見ている.
投稿: はにゃおか | 2008年1月 7日 (月) 22時50分
「プロフェッショナル仕事の流儀」は今までにない斬新な、それでいてどこか懐かしい切り口で、日々積み重ねられるプロフェッショナルの日常は好奇心をくすぐり、感動と発見の連続です。
虚心坦懐、あるいは無邪気というか無垢とすら思える茂木さんの姿勢が何よりこの番組の魅力かと思います。押し付けがましさが皆無で私たち視聴者と同様の素直な好奇心が共感をもたらすように思います。
子供の頃連れられて行った歌舞伎座で歌右衛門に釘づけになりましたが、数年前玉三郎さんをはじめて観た衝撃はそれをはるかに上回り、それ以来そのオーラと至芸のみならずお人となりの奥深さに益々魅了され続けております。
今回ご出演と知り、これまでの数多くのインタビュー番組とどのように異なるか楽しみでもあり一抹の不安もありました。
茂木さんのブログを拝読し不安が一掃され、放送が益々楽しみになりました。
玉三郎さんは常に謙虚で飾らない、奢らないーこれは超一流の方の共通項なのかもしれません。
舞台人として真のプロフェッショナル!と深く感銘を受けるのは、常に観客のことを思い考えて舞台を創っていく姿勢です。
二人道成寺で菊之助は鐘を見ているように見えません。むしろよそ見しているようで音羽屋の型かしらと疑問に思っていました。
篠山紀信氏の言葉だったと思いますが、「菊之助は鐘を見ている。玉三郎は見ていない。しかし観客からは鐘を見ているように見える。」
別の番組でも結構ですから茂木さんと玉三郎さんのたっぷりのトークを拝見したいと願っております。
本間ディレクターはじめスタッフの皆様にどうぞよろしくお伝えくださいませ。
投稿: 香舟 | 2008年1月 8日 (火) 07時26分
私は歌舞伎の世界を全く知りませんでした。今日の坂東玉三郎さんの生きかたを知り、少しでも知りたいと感じました。「常に明日だけを見続ける日々」を送ってきただけという坂東さん。高い遠くの目標を追い続ける生きかたもありますが、どちらも日々を誠実に生きるという点では通じるものがあるのではないかと思います。「演技の型」を正確に演じるだけでは、心を打つ演技ができないと、片岡仁左衛門さんとの舞台では、「約束はしていないけれど、こうした方が相手(片岡さん)が演じやすいのでは。」と、練習の時とは違う間で演じたという。そこに、マニュアル化された現代社会が忘れてしまっている、人間と人間の真のやりとりがあるような気がしました。機会があれば、一度 足を運んで歌舞伎というものに触れてみたいと思います。
投稿: ぴょん吉 | 2008年1月15日 (火) 23時23分
以前に街でお見かけした玉三郎さんが醸し出していた雰囲気がナゾで、ずっと心のどこかにひっかかっていたのですが、番組とこちらのブログをもとに考えてみて、それがいくらか解消されました。
ちょっとスッキリ。
投稿: nbm | 2008年1月16日 (水) 10時50分
あ、ごめんなさい!行が増えてます!!私がへんなこといったからですか?もしくは私のPCが違ったのかな?でも読みやすい・・・。
それはさておき、「茂木さんは歌舞伎、そして玉三郎さんに心底魅了されているんだろうな、そこまでヒトを惹きつける舞台を、是非私もみてみたい!!」と心から思いました。人に自分が面白いと思ったものをその感動ごと伝えるって結構難しいことです。その感動、私も共有したいです。
投稿: まるめろ | 2008年1月16日 (水) 13時40分
玉三郎さんのOA、火曜の夜、昨日の夜は録画したものを2度見てしまいました。
優美。華やか。艶。う~ん・・言葉にできません。とても色気を感じます。
しかし、日々の努力、自己管理、そういった積み重ねが不可欠なのですね。
仕事を辞めてから、(テープで)ゲネを見る機会はなくなってしまったので、ああいった歌舞伎の舞台裏をテレビで見ることは現在の楽しみの1つでもあります。
スタジオで茂木さんも所作を真似られたのでしょうか。
わたしが若く見られる要因が1つだけ分りました。それは、首を大きくよく傾けることのようです。
お仕事がんばってくださいね♪
投稿: 才寺リリィ | 2008年1月17日 (木) 09時05分
玉三郎さんの凄いところは実は
演劇的な「ユーモア」のセンスが素晴らしく優れているところだと思っています。
断片的に取り上げられるシリアスで繊細で悲劇的な役はもちろんですが、
コミカルでユーモラスな演技が客席をわかせ、さらにストーリーの陰陽を濃く見せつける。美しくてはかないものと、滑稽でしたたかなもの。
両面を持ち合わせているところが尋常ではないです。
投稿: かぽんす | 2008年2月10日 (日) 14時27分
私は、今まで歌舞伎に興味を持つ事も無く、役者さんの名前すらほとんど知りませんでした。ですが、たまたまテレビを点けた時にプロフェッショナルが流れていたので、何の気なしに見ていました。
終わった後、録画していなかった事を後悔しました。そして「一度見てみたい!!」と強く思いました。
その想いはしばらく経っても一向に冷めず、結局人生初の観劇、松竹座に足を運びました。
こちらの番組がなければ、きっと触れる事の無い世界だったと思います。ありがとうございました。
投稿: 由布 | 2008年2月29日 (金) 00時02分
はじめまして。最近よく読ませていただいてます。ありがとうございます。
私は京都に住んでいるのですが、
いつも通る場所に「出雲の阿国」の銅像があるんですよ。いつもはそんなに気にせず通るのですが、今朝はなんとなく気になって立ち止まって。
そして、今この記事出会いました。
繋がりにびっくりです。
「お天道様がみてるよ」
私もこの言葉はなんとなく信じてます。
投稿: yogamimi | 2008年2月29日 (金) 11時25分
初めまして。この3月に京都で玉三郎さんの昆劇コラボみてびっくりし、5月に北京まで見に行った奴です。もう一度観劇し、感激したかったのと、中国の人々の反応に興味があったからです。
はたして、中国の人々からも率直で大きな喝采を浴びていらっしゃいました。
なにか、国境をこえて、幽玄のかなたに誘ってくれる不思議な時空でした。これによりふたつの文化の融合という画期的なことをされたのですね。氏には、名声も勲章も意に介さないことのように思わせるような宇宙的なところがあります。
不思議ですね。人間って。神様じゃないのに無限を思わせてくれる力をもってるなんて。
玉三郎さんは素顔は普通っぽいのに、役柄にすっかりなってしまっている。楊貴妃なんてホンモノより美しかった.....。好!大和屋!
投稿: ぐうた・らんふぁん | 2008年5月18日 (日) 15時32分
突然で申し訳ありません。
私は中学生なのですが、茂木さんの事はテレビなどで拝見させていただいています。
私には悩み事があります。
少し幼稚なのかもしれませんが…。
私は寝ると時々金縛りにあってて、困っています。
体が動かなくって…でも、目は開くんですよね、アレ。
ですから周りの風景が見えて、凄いリアルなんです。
目?が覚めても寝てた感じがしなくって…
恐怖感がすごく残って…
一回金縛りについて調べてみたら、体は寝てて脳は起きてる状態らしいのですがイマイチ理解出来なくて…
茂木さんにちょっと説明していだければ茂木さんにちょっと説明していだければ良いかと…
図々しくてスミマセン!!
宜しくお願いいたします。
(何回もスイマセン!!)
美香さま
金縛りのメカニズムについては、確かなことはわかりませんが、
睡眠時の脳で起こっていることについて少しご説明します。
夢を見ることがあると思いますが、あのような「レム睡眠」
の時、脳は起きているときよりもむしろ激しく活動することが
あります。
それは、ランダムな活動なのです。
その時、身体を動かす神経細胞が勝手に活動してしまうと
危険なので、夢を見るような時には、運動系の神経細胞の
活動はむしろ抑制されます。
「金縛り」における、身体が縛られたような感覚は、
このような運動系神経細胞の活動の抑制とかかわっている
可能性があります。
運動系の抑制と、感覚系の覚醒と。
そのバランスが人によって違っていて、
中には「金縛り」を経験する人も出てくるのではないかと
思います。
茂木健一郎
投稿: 美香 | 2008年7月22日 (火) 20時31分
私なんかの悩みに真剣に答えて下さって有り難うございました。
こういう専門的な事を聞ける機会も少ないのでありがたく思います。
脳のメカニズムについて知れて、少し興味を持ちました。
有り難うございました。
投稿: 美香 | 2008年7月23日 (水) 20時23分
私も一度だけ、玉三郎さんの舞台を観ました。
かさねが淵・・・顔の半分の違い、その対比の美しさにズキンとしたのを今も覚えています。
投稿: 青空229 | 2008年10月 3日 (金) 09時38分