2010年6月10日 (木)

細田美和子さんの送別会

『プロフェッショナル 仕事の流儀』でデスクとして活躍されてきた細田美和子さんが、『クローズアップ現代』のチーフプロデューサーに栄転されるというので、送別会があった。

ぼくも、羽田空港からまっすぐにかけつけた。

みんなの送別のスピーチを聞いていて、細田さんが、いかに慕われ、信頼された人だったかということが改めて身にしみた。

細田さん、本当に、ありがとうございました。

『クローズアップ現代』でも、さらによい番組をつくってください!


細田美和子さん。2009年3月5日


細田美和子さん。2009年2月19日


細田美和子さん。2009年6月25日。


細田美和子さん。2009年6月9日


細田美和子さん。2009年9月22日。


細田美和子さん。2007年11月20日


細田美和子さん。2009年6月25日。

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2010年2月18日 (木)

プロフェッショナル日記 Phase I

プロフェッショナル日記 Phase I

2007.1.31〜2010.2.17.

Now I am soul searching.

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2010年2月17日 (水)

その一連の流れの細部を忘れてしまっているからこそ

 細部は忘れてしまうからこそ、その時の流れがかけがえのないものに感じられるというのは、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録の現場も同じこと。

 打ち合わせで最初にディレクターの方が撮ってきたVTRを見た時の新鮮な感想。住吉美紀さんのコメントに学んだこと。山口佐知子さんの入館証。有吉伸人さんの方にフリスクの箱を渡すと、さっそく有吉さんが手を伸ばしていたこと。打ち上げで、有吉さんのために専用の鶏の唐揚げを注文すると、「ぼくは食べませんよ」と言いながら結局は平らげていたこと。

 オープニングで、36秒で言わなければならない緊張。「まず練習しますか」と言う住吉美紀さん。山口佐知子さんがストップウォッチを測る。「あー、おしい。38秒」と叫ぶ山口さん。「それじゃあ、プロフェッショナル 仕事の流儀というのを省きますか」という有吉伸人さん。カメラの方々から伝わってくる真剣な表情。インカムを通して聞こえてくる、副調整室の声。ゲストの方の笑顔。

 「以上です」と収録が終わった時の、ほっとした気持ち。思い切り背伸びして、それから、着替える。メイクを落とす。日経BPの渡辺和博さんが待っている。

 その一連の流れの細部を忘れてしまっているからこそ、積み重ねてきた時間が、しみじみと意味があるもののように感じられるのである。

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2010年2月16日 (火)

過去に対する感慨は、記憶の不在に支えられている。

 「編集で落ちる」ということの意味を知った後、さまざまな局面で似たような感覚に到達した。

 たとえば、ブログを書くということ。一日のうちに、さまざまな経験をする。いろいろな人に会う。そんなあれこれを、時系列で書いていけば完全な記録になるのであろうが、そんなわけにもいかない。ブログを書くことができる時間も限られている。素材の取捨選択をしなければならない。

 朝、ブログを書いた後で、ああそうだ、あれも書いていなかった、これも書いていなかったなどと思い出す。その一つひとつが、思い出の中でキラキラと光っている。その残像に形を与えたいとも思うが、さまざまな制約で果たせない。

 そもそも、人間の記憶というものが、大半のことを忘れることでできあがっている。たとえば、小学校の時のことを振り返って、その時間の流れが過ぎ去ってしまったことのかけがえのなさにしみじみと感じるのも、多くのことを忘れてしまっているからである。毎日毎日が、水が跳ねたのに驚く魚のような鮮烈な生命に満ちていたのに、その多くが忘却の彼方に去ってしまったからこそ、私たちはかけがえのなさを感じる。過去に対する感慨は、記憶の不在に支えられている。

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2010年2月15日 (月)

「編集で落ちる」

 ドキュメンタリーの撮影現場では、いろいろなことがあるのだろうと想像する。取材対象となる方と、どのように打ち解けるか。カメラをはじめとする、取材陣の存在にどのように慣れてもらえるか。
 カメラを意識していては、ふだんの仕事ぶりが撮れないだろう。その一方、カメラとのやりとりが面白い効果を生む場合もあるかもしれない。

 取材から帰ってきて、100本以上にのぼる映像の「ラッシュ」を見る。それを、何とかして30分くらいのVTRに編集しなければならない。

 「編集で落ちる」という言葉の重みを知った。どんなに力のある映像でも、意味深い瞬間でも、テレビ番組の「尺」に収まらない部分は、落とさなければならない。その決断は、ディレクターの方々にとって重いものだろうと思う。テープの上の一瞬一瞬は、取材の対象になる方と、ディレクターをはじめとする取材陣の人生が交錯した時間の証言者だからである。

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2010年2月14日 (日)

それで、音だけもう一度撮り直したんです。

ドキュメンタリーのリアリティを作る上では、音声がとても大切だと、有吉さんは言う。極端な話を言えば、映像がなかったとしても、音声がきちんと録れていれば、それでドキュメンタリーは成立するというのである。

脳の領域のうちの、約3分の1は視覚にかかわっているとも言われる。視覚は、意識の中であれこれと把握しやすい。一方、音声は、背景に退きやすい。たとえば、ぼんやりと散歩をしている時に、環境から聞こえてくる音は、必ずしも意識されないだろう。しかし、そこに音があるということが、一つのリアリティを立ち上げる上で大切なことも事実である。

私たちは、どうしても、映像ということを中心にものを考えがちなのだろう。だから、何かを撮影するという時にも、ついつい音声のことを忘れてしまう。しかし、番組作りのプロたちは、決してそのことを忘れない。

ある大学に講演で呼ばれた時に、舞台のそでで学生たちと雑談をした。自分たちでドキュメンタリーを作ったのだという。

「音声が、案外大切でしょう?」

私は聞いた。一人の学生が肯いた。

「そうなんですよ。ぼくたちも、いったん撮り終えて、編集する段階になって、これではダメだと気付いて、それで、音だけもう一度撮り直したんです。」

文字という文化が出来てから、千年以上の時が経つ。その間、私たちの書き言葉の表現は変化し、洗練されてきた。一方、映像や音を撮り、それを編集して一つの世界を表現するという文化が生まれてから、まだ100年ほどしか経っていない。しかも、ノンリニア編集やさまざまなエフェクトなど、技術は進歩し続けている。

ドキュメンタリーをどう撮り、編集し、表現するか。そこにあるさまざまな可能性の全貌を、私たちは未だ把握していないのだろう。

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2010年2月13日 (土)

床屋にいる時というのは、不思議なことに人間はリラックスするもので

『プロフェッショナル 仕事の流儀』のスタッフたちは、皆、ドキュメンタリー作りにかかわっている。

ドキュメンタリーとは何か。どのようにそれを撮るか。番組作りにかかわっていく中で、いろいろな話を聞く機会があった。

ドキュメンタリーの奥は深く、さまざまなノウハウがあり、制作哲学がある。私は、現時点では、その奥深い世界のごく一部分しかのぞき込んでいないのだと思う。

有吉伸人さんには、いろいろな話を聞いた。それらの話は、一つの叡智の体系として、私の中に刻み込まれている。

たとえば、ドキュメンタリーを撮っている最中に、取材対象者が髪の毛を切ってしまうと、うまく映像
がつながらないことがあるのだという。だから、撮影の初日に、床屋に行ってもらうという手法があるのだと有吉さんに聞いた。

「初日に床屋に行って髪の毛を切ってもらえば、その後、取材期間中は髪の毛の長さが基本的に変わらないですから、いいんですよ」と有吉さんは言った。

「それに、取材の最初の方は、どうしても緊張しているから、ぎこちなくなってしまうんです。ところが、床屋にいる時というのは、不思議なことに人間はリラックスするもので、案外打ち解けたインタビューがとれたりするんですよ。それに、絵的にも面白いし。」

なるほどと思った。どんな分野も、たくさんの小さな知恵からできあがっているものである。

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2010年2月12日 (金)

「茂木さん、このごろ白ばかりですね」

 いちいち有吉伸人さんにフリスクを分けるのも面倒なので、ある時期から、二つずつフリスクを買うようになった。そうして、収録の前に、有吉さんに、「ほら、有吉さん!」と一つ手渡すのである。

 買うのは、「第一食堂」の横の薬の売店で、いつもベテランのおじさんがレジに立っていらっしゃる。

 ぼくが来ると、必ずフリスクを二箱買うので、おじさんも覚えていて、にこにこ笑っている。

 ある時、フリスクの置き場所が変化したことがあった。とまどって探していたら、おじさんが、何もいわないうちに、「フリスクならば、あそこですよ」と教えてくれた。

 自分の心の中を見透かされているようで、恥ずかしかった。

 ラーメン屋の前に行列しているのは、何となく恥ずかしい。「あの人、ラーメンが食べたいんだ」と内面の欲望が悟られてしまうからである。薬局のおじさんに、「あの人フリスクが欲しいんだ」とわかられてしまうことも、何となく恥ずかしい。

 毎回、恥ずかしい思いをしながら、薬局でフリスクを買うのである。

 フリスクには白と黒があって、黒の方が強力である。有吉さんもぼくも白を食べていたが、ある時期から黒に移った。

 第一食堂の横の薬局にも、黒が置いてあって、そればかり買っていた。ところがが、ある時全部白になってしまった。

 ぼくはとまどって、仕方がないので白を買って、収録の前に有吉さんに一個あげた。有吉さんは、何となく曖昧な顔をしていた。

 そんなことが何回か続いた後で、有吉さんにいつものようにフリスクを渡すと、有吉さんが、「茂木さん、このごろ白ばかりですね」と寂しそうに言った。

 ぼくは、「最近、薬局に白のフリスクしか置いていないんですよ。」と答えた。

 次の時、薬局のおじさんに、「最近黒のフリスクは置いていないのですか」と聞いた。そうしたら、おじさんは、笑って、「また今度入れておきますよ」と言った。

 それ以来、薬局に行っては見てみるけれども、まだ黒のフリスクは並べられていない。いつか入っているだろうと、それを楽しみに第一食堂の横の薬局のところを歩くのである。

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2010年2月11日 (木)

夏の夜、ふらりと入った食堂で

 専門性の問題だけではない。「感情の振れ幅」という意味においても、テレビにはさまざまな制約がある。

 皆、生活の中でそれぞれ苦労をしている。勉強や仕事に、プレッシャーがかかる中でがんばって取り組んでいる。そんな中、テレビを見る時くらい、力を抜いて楽しみたいと考えるのは人情というものだろう。

 かつて、巨人戦を中心とするプロ野球中継が地上波テレビの目玉となる番組だった時、一日の仕事を終えた人たちがそれを楽しそうに見ているのを何度目撃したことだろう。

 例えば、学会で訪れた福岡県の飯塚市。夏の夜、ふらりと入った食堂で、おじさんたちがそれぞれテーブルに入り、食事をとりながらテレビの巨人戦を見ていた。窓が開け放たれ、涼しい風が通る気持ちのよい食堂。大皿にさまざまなおかずが並べられ、自分の好きなものを指してとる。すっかりくつろいだ格好で、ビールのグラスを傾けながら時々やじる。テレビのある光景。それは、美しいものだった。

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2010年2月10日 (水)

場合によっては何千万人という人が見るメディア

 テレビとは、一体どのようなメディアなのだろうか? 

 現在のテレビについて、とりわけ地上波テレビについて、その内容が俗であるとか、レベルが低いとか、いろいろな批判が言われることがある。私自身も、そのような印象をテレビに対して持っていて、実際にあまり見ていなかった。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』にかかわるようになって、そのような感覚が一変した。制作現場の実際に触れて、単純な批判は生産的ではないと感じるようになったのである。

 長く低迷する日本。一つの根本的な問題は、当事者意識の欠如ではないか。批判をすることは簡単にできる。問題は、現場の当事者になった時に、どんなことができるかということだろう。

 それぞれの人が現場を持っている。現実の制約の中で、一日の限られた時間を使って、一生懸命仕事をしている。その結果生み出されるものについて、常に自己反省を続けることは大切である。その一方で、そう簡単には物事が動かないことも事実である。 

 そもそも、テレビは、一度に何百万人、場合によっては何千万人という人が見るメディアである。そのことによる制約は、当然存在する。たとえそれがどんなに大切な問題だとしても、それに関心を持つ人が母数としてある程度存在しなければ、テレビ番組として成り立たない。

 例えば、私のライフワークである心と脳の関係についての技術的な問題のある側面について、関心を持ち、知識を備え、すぐに議論ができる人は、日本にはおそらく数千人くらいしかいない。だから、そのような問題に対するテレビ番組は成立しない。

 「脳科学的には」という問いに対して、私がテレビ番組で語るべきことは、心脳問題に関する技術的な議論ではなく、世間の多くの人たちの生きる上での関心に資することでなければならない。そのことは、かなり初期からわかっていた。結果として話すことができる内容が限られてしまったとしても、それは、テレビというメディアの性質から考えて、仕方がないことのように思われた。

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